第31話、曹操の大敗
文字数 7,502文字
寄手の北上軍のほうでも、ここ二、三日、何となく敵方の動静に、不審を抱いていた。
折から、情報が入ったので、
「すわや」と色めき、
「一挙に「おお、焼けている!」
「洛陽は火の海だ」
――これがこの世の天地か。
一瞬、その
孫堅は、馬をとばして、まず先に市中の巡回を開始し、惨たる灰燼に、そぞろ涙を催したが、熱風の
と、将兵に
諸侯の軍勢も、各地を選んで陣を動かしたが、
袁紹は、横を向いてしまった。
持ち前の気性が、むらむらと曹操の胸へこみあげてきた。一喝、彼の横顔へ、
と、叫んだ。
彼の手勢としては、
と、曹操は急ぎに急いだ。
× × ×
一方――
帝の車駕をはじめおびただしい洛陽落ちの人数は、途中、行路の難に悩みながら、
との情報に、色を失って、帝をめぐる女子たちの車からは悲しげな
李儒は、
帝陵の丘をあばいて発掘した莫大な重宝を、先に長安へ輸送して任を果たし終った呂布軍も、一足あとから熒陽城に入り、李儒と合流した。
と、楼台に誘って、彼方の山岳を指さした。
やがてそれは雲の裡にかくれ去った。
呂布は、眼を辺りへ移して、
と、たずねた。
李儒は、頭を振って、
といった。
李儒の謀計を聞いて、
呂布も山へかくれた。
かかる所へ、曹操は一万余の手勢をひいて、ひたむきに殺到した。
またたく間に、
不案内な山道へ誘いこまれたのである。しかもなお、曹操は、
と、いよいよ意気を
なんぞ知らん。
鹿を追うこと急にして、彼ほどな男も、足もとに気づかなかった。
突如として。
四方の谷間や断崖から、
気のついた時は、すでに曹操ばかりでなく、彼の一万余兵は、まったく袋の中の鼠になっていた。
道を求めんと、雪崩れ打てば、断崖の上から大石が落ちてきて道を埋め、渓流を渡って、避けんとすれば、彼方の沢や森林から雨のごとく矢が飛んできた。
曹操の軍は、ここに大敗を遂げた。
曹操は、自分の目の前で、死んでゆく幕下の者を見ながら、なお戦っていた。
時分はよしと思ったか、呂布は谷ふところの一方から、悠々、馬を乗り出して、彼へ呼びかけた。
呂布は、死にもの狂いの曹操を雑兵の囲みにまかせて、自分は小高い所から眺めていた。
曹操は、見つけて、
「曹操を逃がすな」
「曹操こそ、乱賊の
と、口々に呼ばわって、伏兵の大軍が、彼ひとりを目標に渦まいた。
八方の沢や崖から飛んでくる矢も、彼の前後をつつむ剣も
しかも曹操の身は今や、まったく危地に墜ちていた。うまうまと敵の策中にその生殺を捉われてしまった。
――君は戦国の
と、予言されて、むしろ本望なりとかつてみずから祝した
奇才縦横、その熱舌と気魄をもって、白面の一空拳よく十八ヵ国の諸侯をうごかし、ついに、董卓をして洛陽を捨てるのやむなきにまで――その鬼謀は実現を見たが――彼の夢はやはり白面青年の夢でしかなく、はかない現実の末路を
そう見えた。
彼もまた、そう覚悟した。
ところへ、一方の血路を斬りひらいて、彼の臣、
そしてここの態を見るや否や、
夏侯淵は、わずか二千の残兵を擁して踏みとどまり、曹操に五百騎ほど守護の兵をつけて、
「早く、早く」と促した。
曹操は、麓へ走った。
しかし、道々幾たびも、伏兵また伏兵の奇襲に脅やかされた。従う兵もさんざんに打ち減らされ、彼のまわりにはもう十騎余りの兵しか見えなかった。
それも、馬は傷つき、身は
みじめなる落武者の境遇を、曹操は死線のうちに味わっていた。
人心地もなく、迷いあるいて、ただ麓へ麓へと、うつろに道を捜していたが、気がつくと、いつか陽も暮れて、
ふと、曹操の胸には父母のすがたがうかんできた。大きな月のさしのぼるのを見ながら、
馬を降りて、彼は清水へ顔を寄せた。そして、がぶとひと口飲み干したと思うと、またすぐ近くの森林から執念ぶかい敵の
ぎょッとして、馬の背へ飛び移るまに、もう残るわずかな郎党も矢に
追いかけて来たのは、熒陽城太守の徐栄の
ひきしぼった鉄弓の一矢を、ぶん! ――と放った。
矢は、曹操の肩に立った。
曹操は叫びながら、馬のたてがみへうつ伏した。
またも、徐栄の放った二つの矢が、びゅんと耳のわきをかすめてゆく。
肩に突っ立った矢を抜いている
その矢傷から流れ出る血しおに馬のたてがみも鞍も濡れひたった。馬は血を浴びてなお狂奔をつづけていた。
すると、
「あっ、曹操だっ」と、いう声がした。
それは徐栄の兵だった。
馬は高くいなないて、竿立ちに狂い、曹操は大地へはね落された。
「
仰向けに仆れたまま、剣を抜き払って、曹操は二人を斬っただけで、力尽きてしまった。
落馬した刹那に、馬の
時に。
曹操の従兄弟
跳ぶ如く馳け寄って、一人を後ろから斬り伏せ、一人を
曹洪は、こう励まして、曹操の着ている
果して。
わあっ……と、徐栄の手勢が、後から追って来た。
曹洪は、心も空に、片手に曹操を抱え、片手に手綱をとり、
と、
林を抜け「やれ、麓へ出たか」と、思ってふと見ると、満々たる大河が行く手に横たわっているではないか。それと見た曹操は、苦しげに、曹洪をかえりみて、
と、死を急いだ。
曹洪は、曹操を抱いて、馬から降りたが、決して抱いている手をゆるめなかった。
河岸に立つと、白浪のしぶきは岸砂を洗い、流れは急で、
身に着けている重い物は、すべて捨てて、曹洪は一剣を口にくわえ、
江に接していた低い雨雲がひらくと、天の一角が鮮明に
流れは烈しいし、
しかし、ついに
と、曹洪は、必死に泳いだ。
対岸の緑草は、ついそこに見えながら、それへ寄りつくまでが容易でなかった。激浪がぶつかっては、渦となって波流を渦巻いているからだった。
すると。
その河畔からやや離れた丘に徐栄の一部隊が小陣地を布いていた。河筋を監視するために、二名の歩哨が立って、暁光の美観に見とれていたが――
「やっ? なんだろ」
一人が指さした。
「怪魚か」
「いや、人間だっ」
あわてて部将のところへ
部将もそれへ来て、
「曹操軍の落武者だ。射てしまえ」と、
まさかそれが曹操とは気づかなかったので、
びゅっん――
ぶうっん――
弦は鳴り矢はうなって、
曹洪は、すでに岸へ這いついていたが、前後に飛んでくる敵の矢に、しばらく、死んだまねをしていた。
その間に、「どう逃げようか」を、考えていた。
ところがかえって、遥か河上から、一手の軍勢が、河に沿って下って来るのが見えた。朝雲の晴れ渡った下にひるがえる
「あれに見つかっては」と、曹洪は、気も
曹操も、矢を払った。二人か一人か、それは遠目には分らないほど、相擁しながら馳けたのである。
丘の上の隊も、河に沿って来た一群の軍勢も、曹操兄弟が矢風の中を
「さては、名のある敵にちがいないぞ。逃がすな」
と、たちまち砂塵をあげて、東西から追いちぢめ、そのうち一小隊は、早くも先へ馳け抜けて、二人の前をも立ちふさいでしまった。
丘から射放つ矢は集まってくる。
一難、また一難。死はあくまで曹操をとらえなければ止まないかに見えた。
曹洪も、ついに決心した。
そして曹操と共に、剣をふりかざして、敵の中へ斬りこんだ。
敵は、さわいで、
「やあ、曹家といったぞ。さては曹操、曹洪と見えたり」
「思いがけない大将首、あれを
すると。
彼方の野末から、一陣の黄風をあげて、これへ馳けて来る十騎ほどの武士があった。
ゆうべから主君曹操の行方をさがし歩いていた
十槍の穂先をそろえて、どっと横から突き崩して来た。
と曹兄弟に、馬をすすめ、夏侯惇はまっ先に、
と敵兵を突き崩しながら逃げだした。
矢は
「敵か、味方か?」
物見させてみると、
と、楽進、曹仁らは、主君のすがたを迎えると、天地を拝して歓び合った。
戦は、実に惨憺たる敗北だったが、その悲境の中に、彼らは、もっとも大きな歓びをあげていたのだった。
曹操は、臣下の狂喜している様を見て、
負け惜しみでなくそう思った。
一万の兵、余すところ、わずか五百騎、しかし、再起の希望は、決して失われていない。
曹操はいった。
夏侯惇、曹仁たちも、
「それがよいでしょう」と答えた。
兵馬に令してそこを
一
道すがら、
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