第130話、荊州のあれこれ
文字数 7,382文字
千里の上流から、江を下って、漢中、西蜀あたりの情報はかなり迅く、呉へも聞えてくる。
「劉備はすでに成都を占領した」
「着々治安を正し、蜀中に新政を布告したという」
「もとの太守劉璋は、後方へ送られて、荊州の公安へ移ってきたというではないか」
呉の諸臣は、政堂に会するたび、おたがいの早耳を交換していた。
一日、呉主孫権は、衆臣の中でこういった。
すると、宿将
と、独り
孫権がみとめて、
と、問いかけた。
彼は、うなずいた。
次の日、諸葛瑾は、君命をうけて、呉宮の内へ召されていた。
蜀の劉備は、一日、やや
孔明は、座へ寄って、劉備の耳もとへ、何かささやいた。
劉備はいささか眉をひらいた。
その晩、孔明はふいに、客舎にある兄を訪ねた。孔明に会うと、
と、孫権からの一書を呈すると、劉備はそれを
諸葛瑾は、はっとした。側にいた孔明も、眼をみはった。劉備の手にその書簡は引き裂かれ、その眸は、天の一方を見て、
胸中の憤怒を一時に吐いたような劉備の激色に、ふたりは打たれたように一瞬沈黙していたが、そのうちに孔明が
仰いでは、涙をのみ、伏しては肩を打ちふるわせた。
劉備は、なお怒気
「そう嘆かれては、予の胸もつらい。さりとて荊州は還し難し、軍師の悲嘆は黙し難し。……そうだ、ではこうしてつかわす。荊州のうち
と、いった。
劉備はすぐ書簡を書いて、
と注意してやった。
諸葛瑾は、成都を去って、
関羽のそばには、養子の関平が
諸葛瑾は、劉備の書簡を示して、さて、
と、いった。
関羽は、うんともすんもいわない。瑾を
と、泣訴した。
関羽は、剣の
と、大喝した。
関平は父をなだめた。
と、関羽はなお恐ろしい形相をおさめないのである。
諸葛瑾は、とりつくしまもなく、ここを去って再び蜀へもどり、劉備へ訴えようとしたが、その劉備は折から病中とあって典医が面会を許さず、弟の孔明に会おうとすれば、その孔明は郡県の巡察に出張して、しばらくは成都に帰るまいという。
千里の往来も空しい旅となって、瑾はぜひなく一応、呉へ帰って来た。呉主孫権は、それもこれもみな策士孔明のからくりにちがいないと、足ずりして怒ったが、
と、仮に獄中へつないでおいた瑾の家族はみな家へ帰した。
孫権はまた、諸官吏を、荊州へ派して、
と、厳命した。
もちろん軍隊もついて行った。しかしほど経てからそれらの官吏はみな逃げ帰ってきた。反対に関羽の部下に追い払われてきたのだという。しかも軍隊などはほとんどひどい目に遭わされて、生きて帰ってきた兵は三分の一しかなかった。
これは
呉中一といっても二と下らない賢臣の言だ。反対者もあったが、孫権は然るべしと、その計を採用することに決し、
と、励ました。
船に兵を積み、表には、親睦の使いととなえて、魯粛は、揚子江を遠く溯って行った。そして陸口城市の河港に近い風光明媚の地、臨江亭に盛大な会宴の準備をしながら、一面、
臨江亭は湖北省にある。荊州はいうまでもなく湖南の対岸。――魯粛の使いは、舟行して江を渡った。しかもその使いは、ことさら華やかに装い、従者に麗しい日傘をかざさせて、いかにも
彼はやがて、荊州の江口から城下に入り、謹んで、書を関羽に呈した。書面の内容はもとより魯粛の名文をもって礼を尽し、蜜の如き交情をのべ、どうしても断れないように書いてあった。
簡単に承諾して、関羽は使いを返した。
関平は驚いた。かつ危ぶんで、父に
関羽はあくまで簡単にいう。
関平は、父の命に従うしかなかった。
その日になると、関羽は、緑の
また、小舟には、
「……や、ひとりで来る」
「あれが関羽か?」
対岸では、呉の人々が、
ところが案に相違して、関羽は常にもなく華やかに装い、供ひとりを従えてきたので、
「さらば、第二段の計で」
と、はやくも眼くばせを交わし合っていた。
会場臨江亭の庭後には、屈強な武士ばかり五十人を伏せて、ここへ関羽を迎えたのである。もちろん沿道の林間、園内随所の林泉の陰にも、雑兵は充満している。ひとたびここへ入ったからには、天魔鬼神でも生きて出ることはできないようになっている。とはいえもちろん客の視野には、一すじの
亭は花や珍器に飾られ
しかし酒
魯粛も呉の大才である。こう口を開いて、この会談の目的にふれてくると、その
理の当然に、関羽も答えにつまって、
と、云いのがれた。
魯粛はすかさず、なお語気に攻勢をとって、
と、たたみかけた。
すると、関羽の側に立っていた周倉が、主人の旗色悪しとみたので、突然、
はっと、色を変じながら、関羽は席から突っ立った。そして周倉に持たせておいた
と、叱りつけた。
騒然と、亭中は色めき立った。関羽がやにわに巨腕を伸ばして、魯粛の
関羽は、大酔したふうを装いながら、次第に大股を加え、
人々が、あれよと立ちさわぐ間に、もう亭を降り、園を抜け、門外へ出ていた。魯粛の体を、関羽は手に小児を提げて歩くようであった。
魯粛は、酒もさめ果て、生きた空もない。耳のそばを、ぶんぶん風が鳴ったと思うと、たちまち、江岸の波打ちぎわが見えた。
ここには呂蒙と
「待て」
「
と、制し合っていた。
そのまに、周倉が寄せた小舟へ、関羽はひらりと飛び乗ってしまった。そして初めて、魯粛を岸へ突っ放し、
と、一語、岸を離れてしまった。
甘寧、呂蒙の兵が、弓をならべて、矢を江上へ射ったが、一舟は悠々帆を張って、順風を負いながら、対岸から出迎えにきた数十艘の
交渉、ここに破れ、国交の断絶は、すでに避け難い。
魯粛のつぶさな書状を捧じて、早馬は呉の
呉の国都には、これと同時に、べつな方面から、
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