第77話、官渡の戦い

文字数 16,108文字

 呉を(おこ)した英主孫策を失って、呉は一たん喪色(もしょく)の底に沈んだが、そのため却って、若い孫権を中心に、それを補佐する人材があつまり、国防内政ともに、いちじるしく強化された。

 国策の大方針として、まず河北の袁紹(えんしょう)とは絶縁することになった。

 これは諸葛瑾の献策で、瑾は長く河北にいたので袁紹の帷幕(いばく)内輪もめをよく知っていたからである。いくら同盟関係を結んだところで、袁紹では曹操にとうてい勝てない。それよりも、しばらくは曹操にしたがうと見せ、国力を高め、時節がきたら曹操を討つ。それが方針の根底だった。

 そうきまったので、河北から使者にきて、長逗留していた陳震(ちんしん)は、なんら得るところなく、追い返されてしまった。

 一方、曹操のほうでも。

 呉の孫策死す! ――という大きな衝動をうけて、にわかに評議をひらき、曹操はその席で、

「天の与えた好機だ。ただちに大軍を下江(げこう)させて、呉を()ち取らんか」
 と提議したが、折ふし都へ来ていた侍御史(じぎょし)張紘(ちょうこう)がそれを聞きつけ、
「人の()に乗じて、軍を興すなどとは、丞相にも似あわしからぬことでしょう。(いにしえ)の道にも、聞いた例がありません」

 といったので、曹操もその卑劣をふかく恥じたとみえ、以後、それを口にしないばかりでなく、上使を呉へ送って後継者の孫権に恩命をつたえた。

 すなわち孫権を討虜将軍(とうりょしょうぐん)会稽(かいけい)の太守に封じ、また張紘(ちょうこう)には、会稽の都尉を与えて帰らせた。

 彼の選んだ方針と、呉がきめていた国策とは、その永続性はともかく孫策の死後においては、(はし)なくも一致した。

 ――だが、おさまらないのは、河北の袁紹(えんしょう)であった。

 使者は追い返され、呉はすすんで曹操に()び、曹操はまた、呉の孫権に、叙爵昇官(じょしゃくしょうかん)斡旋(あっせん)をとって、両国提携の実を見せつけたのであるから、孤立河北軍の焦躁や思うべしであった。

「まず、曹操を打倒せよ」


 令に依って。

 冀州、青州、并州(へいしゅう)、幽州、など河北の大軍五十万は官渡(かんと)(河南省・開封附近)の戦場へ殺到した。

 袁紹も、(はれ)のいでたちを着飾って、冀北城(きほくじょう)からいざ出陣と馬をひかせると、重臣の田豊(でんほう)が、

「かくの如く、内を虚にして、みだりにお(はや)りあっては、かならず大禍を招きます。むしろ官渡の兵を退かせ、防備をなさるこそ、最善の策と存じますが」

 と、極力その不利を説いた。

 かたわらにいた逢紀(ほうき)は、日頃から田豊とは犬猿の間がらなので、この時とばかり、

「出陣にあたって不吉なことをいわれる。田豊には、主君の敗北を期しているとみえるな。何を根拠に、大禍に会わんなどと、この際断言されるか」

 と、ことさら、大仰(おおぎょう)に咎めだてした。

 出陣の日は、わずかなことも吉凶を占って、気にかけるものである。不吉な言をなしたというのは大罪に(あたい)する。まして重臣たるものがである。

 袁紹も怒って、田豊を血祭りにせんと猛ったが、諸人が哀号(あいごう)して、助命を乞うので、

「――首枷(くびかせ)をかけて獄中にほうりこんでおけ。凱旋ののちきっと罪を正すであろう」

 と云い払って出陣した。

 ところが途中、陽武(河南省・原陽附近)まで進むと、また沮授(そじゅ)がきて諫言を呈した。


「曹操は速戦即決をねらっています。後の整備や兵糧が乏しいためです。しかるに、その図に乗って急激にこの大軍で当られるのは心得ません。味方は大軍ですが、その勇猛と意気にかけてはとても彼に及ぶものではないに」

「だまれ。汝もまた、田豊をまねて、みだりに不吉の言を吐くか」


 袁紹は、彼の首にも首枷(くびかせ)をかけて、獄へほうってしまった。

 かくて、官渡の山野、四方九十里にわたって、河北の軍勢七十余万、陣を布いて曹操に対峙した。


 この日、馬煙(うまけむり)は天をおおい、両軍の旗鼓(きこ)は地を埋めた。なにやら燦々(さんさん)と群星の飛ぶような光を、濛々(もうもう)のうちに見るのだった。

 (ひる)。陽はまさに高し。

 折から、三通の金鼓(きんこ)が、袁紹の陣地からながれた。

 見れば、大将軍袁紹(えんしょう)が、門旗をひらいて馬をすすめてくる。黄金(こがね)の兜に錦袍(きんぽう)銀帯を(よろ)い、春蘭(しゅんらん)と呼ぶ牝馬(ひんば)名駿(めいしゅん)螺鈿(らでん)の鞍をおき、さすがに河北第一の名門たる風采堂々たるものを示しながら、

「曹操に一言申さん」

 と、陣頭に出た。

 西軍の鉄壁陣は、許褚(きょちょ)張遼(ちょうりょう)徐晃(じょこう)李典(りてん)楽進(がくしん)于禁(うきん)などの諸大隊をつらねて、あたかも人馬の長城を形成している。――その真ん中をぱっと割って、

「曹操これにあり、めずらしや河北の袁紹なるか」

 と、乗りだしてきたもの、いうまでもなく、いま天下の動向この人より起るとみられている曹操である。

 曹操はまずいった。

「予、さきに、天子に奏して、汝を冀北(きほく)大将軍に封じ、よく河北の治安を申しつけあるに、みずから、叛乱(はんらん)の兵をうごかすは、そも、何事か」

 彼が敵に与える宣言はいつもこの筆法である。袁紹は当然面を朱に怒った。


「ひかえろ曹操。天子のみことのりを私して、みだりに朝威をかさに振舞うもの、すなわち廟堂(びょうどう)鼠賊(そぞく)、天下のゆるさざる逆臣である。われ、いやしくも、遠祖累代(るいだい)、漢室第一の直臣たり。天に代って、汝がごとき逆賊を討たでやあるべき。またこれ、万民の望む総意である」

 宣言の上では、誰が聞いても、袁紹のほうがすぐれている。

 だから曹操はすぐ、


「問答無用」
 と、馬を返して、
「――張遼(ちょうりょう)、出でよ」

 高く鞭を振った。

 弩弓(どきゅう)、弓矢など、いちどに鳴りとどろく、飛箭(ひせん)のあいだに、

「見参!」
 と、張遼は馳けすすんできて、袁紹へ迫ろうとしたが、袁紹のうしろから突として、
「罰当りめ。ひかえろ」

 と、叱りながら、河北の勇将張郃(ちょうこう)がおどり出して、敢然、(ほこ)をまじえた。

 二者、火をちらして激闘すること五十余合、それでも勝負がつかない。

 曹操は、遠くにあって、驚きの目をみはりながら、

「そも、あの化け物はなんだ」

 と、つぶやいた。

 差し控えていた許褚(きょちょ)は、こらえかねて大薙刀(なぎなた)を舞わし、奮然、突進して行った。河北軍からは、それと見て、

「われ高覧(こうらん)なるを知らずや」

 と、許褚めがけ槍をひねって向ってくる。

 ――その時、将台の上に立って、(いくさ)の大勢をながめていた袁紹(えんしょう)方の宿将審配(しんぱい)は、いま曹軍の陣から、約三千ずつ二手にわかれて、味方の側面から挟撃してくるのを見て、

「それっ、合図を」

 と、軍配も折れよと振った。

 かかることもあろうかと、かねて隠しておいた弩弓隊(どきゅうたい)埋伏(まいふく)の計が、果然、図にあたったのである。

 天地も裂くばかりな轟音(ごうおん)となって、矢石(しせき)を雨あられと敵の出足へ浴びせかけた。側面攻撃に出た曹軍の夏侯惇(かこうじゅん)曹洪(そうこう)の両大将は、急に、軍を転回するいとまもなく、さんざんに討ちなされて潰乱(かいらん)また潰乱の(さん)を呈した。

「いまぞ追いくずせ」


 袁紹は、勝った。まさにこの日の戦は、河北軍の大捷(たいしょう)であり、それにひきかえ、曹操の軍は、官渡(かんと)の流れを渡って、悲壮なる退陣をするうちに、日ははや暮れていたのであった。



 元来この官渡(かんと)の地勢は、河南北方における唯一の要害たる条件を自ら備えていた。

 うしろには大山(たいざん)がそびえ、その麓をめぐる三十余里の官渡の流れは、自然の(ごう)をなしている。曹操は、その水流一帯に、逆茂木(さかもぎ)を張りめぐらし、大山の嶮に拠って固く守りを改めていた。

 両軍はこの流れをさし挟んで対陣となった。地勢の按配と双方の力の伯仲しているこの(いくさ)は、ちょうどわが(ちょう)の川中島における武田上杉の対戦に似ているといってもよい。

「いかに、河北の軍勢でも、これでは近づき得まい」


 と、曹軍はその陣容を誇るかのようだった。

 さすがの袁紹も、果たして、


「力攻めは愚だ」

 と、さとったらしく、ここ数日は矢一つ放たなかった。

 ところが、一夜のうちに、官渡の北岸に、山ができていた。そも、袁紹は何を考えだしたか、二十万の兵に工具を(にな)わせて、人工の山を築かせたのである。十日も経つと、完全な丘になった。

「これは?」

 と知った曹操のほうでは、陣所陣所から手をかざして、なにか評議をこらしていたが、ついに施す策もなかった。

「……やあ、こんどはあの築山の上に、幾つも高櫓(たかやぐら)を組み立てているぞ」

「なるほど、仰山なことをやりおる、どうする気だろう?」

 その解答は、まもなく袁紹のほうから、実行で示してきた。

 細長い丘の上に、五十座の(やぐら)を何ヵ所も構築して、それが出来あがると、一櫓に五十張りの弩弓手(どきゅうしゅ)がたて籠り、いっせいに矢石を撃ち出してきたのである。

 これには曹操も閉口して、前線すべて山麓の陰へ退却してしまうしかなかった。

「渡河の用意!」

 当然、袁紹の作戦は次の行動を開始していた。夜な夜な河中の逆茂木を伐りのぞき、やがて味方の掩護(えんご)射撃のもとに敵前上陸へかかろうものと機をうかがっていた。

 曹操も、内心、恐れを覚えてきたらしい。


「官渡の守りも、この流れあればこそだが? ……」


 すると幕僚の劉曄(りゅうよう)が、


「まず敵の築丘(ちくきゅう)や櫓をさきに粉砕してしまわなければ味方はどうにも働くことができません。それには発石車(はっせきしゃ)(せい)して(しらみ)つぶしに打ち砕くがよいでしょう」
 と献策した。
「発石車とは何か」
「それがしの領土に住む、名もない老鍛冶屋(ろうかじや)が発明したもので、板と重しを使って、大石を遠くへ飛ばす兵器です」

 と、図に描いてみせた。

 曹操はよろこんで、直ちに、その無名の老鍛冶屋を奉行にとりたて、鍛冶、木工、石屋など、数千人の工人を督励して、図のように発石車を数百輛作らせた。

 発石車から大石を口をそろえて飛ばした。大石は虚空にうなり、河をこえて、人工の丘に、無数の土けむりをあげ、また、敵の櫓をみな()っぱ微塵(みじん)に壊してしまった。

「何だ。あの器械は」

 敵はもとより、味方のものまで目に見た威力に、ひとしく畏怖(いふ)した。

 一方の河北軍は、掘子軍(くっしぐん)というものを編成した。

 これは土龍(もぐら)のように、地の底を掘りぬいて、地下道をすすみ敵前へ攻め出るという戦法である。河北軍が得意とするものとみえて、さきに北平城の公孫瓚(こうそんさん)を攻め陥した時も、この奇法で城内へ入りこみ、放火隊の飛躍となって、首尾よく功を奏した前例がある。

 こんどの場合は、城壁とちがい、官渡の流れが両軍のあいだにあるが、水深は浅い。深く掘りすすめば至難ではなかろう。

 こう審配(しんぱい)献策(けんさく)したので、

「よかろう」

 と、袁紹は直ちに実行させたのである。二万余の土龍は、またたくうちに、一すじの地道を対岸の彼方まで掘りのばして行った。

 曹操は早くもそれを察していた。なぜならば、(あな)の口から外へだした土の山が、蟻地獄(ありじごく)のように、敵陣の諸所に盛られ始めたからである。

「どうしたら防げるか」

 彼はまた、劉曄(りゅうよう)にたずねた。

 劉曄は笑って、


「あの()はもう古いです。これを防ぐには、味方の陣地の前に、横へ長い壕を掘切っておけばいい。――またその壕へ、官渡の水を引きこんでおけば更に妙でしょう」
「なるほど」

 苦もなく防禦線はできた。

 物見によって、それと知った袁紹は、あわてて掘子軍(くっしぐん)の作業を中止させた。

 こんなふうに、対戦はいたずらに延び、八月、九月も過ぎた。

 輸送力に比して、大軍を擁しているため、長期となると、かならず双方とも苦しみだすのは、兵糧であった。

 曹操は、そのため、幾度か官渡(かんと)をすてて、一度都へ引揚げようかと考えたほどだったが、ともあれ、荀彧(じゅんいく)の意見をたずねてみようと、都へ使いを立てたりしていた。

 すると、徐晃(じょこう)の部下の史渙(しかん)という者が、その日、一名の敵を捕虜としてきた。

 徐晃が、この捕虜を手なずけて、いろいろ問いただしてみると、

「袁紹の陣でも、実は、兵糧の窮乏に困りかけています。けれど、近頃、韓猛(かんもう)というものが奉行となって、各地から穀物(こくもつ)、糧米なんどおびただしく寄せてきました。てまえは、その兵糧を前線へ運び入れる道案内のために行く途中を、運悪く足の裏に刃物を踏んで落伍してしまったのです」

 と、嘘でもなさそうな自白であった。

 で――徐晃はさっそく、その趣を、曹操へ報告した。曹操は、聞くと手を打って、

韓猛(かんもう)という男は、ちょっと強いが、神経のあらい男で、すぐ敵を軽んじるふうのある部将だ。……誰か行って、その兵糧を奪ってくるものはないか」

「誰彼と仰せあるより、それがしが史渙を連れて行ってきましょう」


 徐晃は、その役を買って出た。

 壮なりとして、曹操はゆるしたけれど、敵地に深く入りこむことなので、徐晃の先手二千人のあとへ、さらに、張遼と許褚の二将に五千余騎を授けて立たせた。

 その夜。

 河北の兵糧奉行たる韓猛は、数千輛の穀車や牛馬に鞭を加えて、山間の道を蜿蜒(えんえん)と進んできたが、突然、四山の谷間から、(とき)の声が起ったので、

 急ぎ防戦のそなえをしたが、足場はわるし道は暗いし、牛馬は暴れだすし、まだ敵を見ぬうちから大混乱を起していた。

 徐晃の奇襲隊は、用意の油を投げつけ、敵の糧車へ、八方から火をつけた。

 火牛は吠え、火馬は躍り、真っ赤な谷底に、人間は戦い合っていた。

 真夜中に、西北の空が、真っ赤に()けだしたので、袁紹は陣外に立ち、

「何事だろう?」

 と、疑っていた。

 そこへ韓猛の部下がぞくぞく逃げ返ってきて、

「兵糧を焼かれました」と告げたから袁紹は落胆もしたし、韓猛の敗退を、

()がいなき奴」
 と(いきどお)った。
張郃(ちょうこう)やある! 高覧(こうらん)も来れ」

 彼は、俄に呼んで、その二将に精兵をさずけ、兵糧隊を奇襲した敵の退路をたって殲滅(せんめつ)しろと命じた。


「心得ました。味方の損害は莫大のようですが、同時に、兵糧を焼いた敵のやつらも、一匹も生かして返すことではありません」

 二大将は手分けして、大道をひた押しに駈け、見事、敵路を先に取った。

 徐晃は使命を果たして、意気揚々(ようよう)と、このところへさしかかって来た。

 待ちかまえていた高覧、張郃の二将は、

「賊は小勢だぞ。みなごろしにしてしまえ」

 と、無造作に包囲して、馬を深く敵中へ馳け入れ、


「徐晃は汝か」

 と、彼のすがたを探しあてるやいな、挟み撃ちにおめきかかっていた。

 ところが。

 背後の部下はたちまち蜘蛛(くも)の子みたいに逃げ散った。怪しみながら両将も逃げだすと、何ぞ計らん敵には堂々たる後詰(ごづめ)がひかえていたのである。

 すなわち一軍は許褚、一軍は張遼、あわせて五千余騎が、いちどに喊声(かんせい)をあげて、逃げる兵を(しらみ)つぶしに殲滅しているではないか。

 高覧は仰天(ぎょうてん)して、

「これは及ばん」
 と、戦わずして逃げ去り、張郃も、
「むだに命は捨てられん」

 とばかり、逃げ鞭たたいて逸走してしまった。

 徐晃は、後詰の張遼、許褚と合流して、悠々、官渡の下流をこえて陣地へ帰ったが、曹操が功をたたえると、

「いやご過賞です。敵の兵糧を焼いて帰ってきただけでは味方の腹はくちくなりませんから」
 と、答えた。

「ぜひもない。そこまでは慾が張りすぎよう」


 曹操が慰めたので、諸将はみな苦笑したが、まったくこの戦果によっては、少しも兵糧の窮乏は解決されなかった。

 しかし、これを袁紹のほうに比較すると、士気をあげただけでも、やはり充分に、徐晃の功は大きかったといっていい。

 袁紹は、期待していた兵糧の莫大な量をむなしく焼き払われたので、

韓猛(かんもう)の首を陣門に(さら)させい」

 と、赫怒(かくど)して命じたが、諸将があわれんで、しきりに命乞いしたため、将官の任を解いて、一兵卒に下してしまった。

 この難に遭ってから審配(しんぱい)は、

烏巣(うそう)(河北省)の守りこそは実に大事です。敵の飢餓してくるほど、そこの危険は増しましょう」

 と、大いに袁紹へ注意するところがあった。

 烏巣、鄴都(ぎょうと)の地には、河北軍の生命をつなぐ穀倉がある。いわれてみるとなおさら袁紹は心安からぬ気がしてきたので、審配をそこへ派遣して、兵糧の点検を命じ、同時に淳于瓊(じゅんうけい)を大将として、およそ二万余騎を、穀倉守備軍として急派した。

 この淳于瓊というのは、生来の大酒家で、躁狂広言(そうきょうこうげん)のくせがある人物だった。

 烏巣自体、天然の要害であったが、それを任された淳于瓊は毎日、部下をあつめて飲んでばかりいた。



 ここに、袁紹の軍のうちに、許攸(きょゆう)という一将校がいた。年はもう相当な年配だが、掘子軍(くっしぐん)の一組頭だったり、平常は中隊長格ぐらいで、戦功もあがらず、不遇なほうであった。

 この許攸が、不遇な原因は、ほかにもあった。

 彼は曹操と同郷の生れだから、あまり重用すると、危険だとみられていたのである。

 酒を飲んだ時か何かの折に、彼自身の口から、

「おれは、子供の頃から、曹操とはよく知っている。いったい、あの男は、郷里にいた時分は、毎日、女を射当(いあ)てに、狩猟には出る、衣装を誇って、村の酒屋は飲みつぶして歩くといったふうで、まあ、不良少年の大将みたいなものだったのさ。おれもまた、その手下でね、ずいぶん乱暴をしたものだ」

 などと、自慢半分にしゃべったことが(たた)りとなって、つねに部内から白眼視されていた。

 ところが、その許攸(きょゆう)が、偶然、一つの功を拾った。

 偵察に出て、小隊と共に、遠く歩いているうち、うさん臭い男を一名捕まえたのである。

 拷問(ごうもん)してみると、計らずも大ものであった。

 さきに曹操から都の荀彧(じゅんいく)へあてて書簡を出していたが、以後、いまもって、荀彧から吉報もなし、兵糧も送られてこないので、全軍餓死に迫る――の急を報じて、彼の迅速(じんそく)な手配を求めている重要な書簡を襟に縫いこんでいたのである。

「折入ってお願いがあります。わたくしに騎馬五千の引率をおゆるし下さい」

 許攸は、ここぞ日頃の疑いをはらし、また自分の不遇から脱する機会と、直接、袁紹を拝してそう熱願した。

 もちろん証拠の一書も見せ、生擒(いけど)った密使の口書きもつぶさに示しての上である。

「どうする。五千の兵を汝に持たせたら」


「間道の難所をこえ、敵の中核たる許都の府へ、一気に攻め入ります」

「ばかな。そんなことが易々として成就(じょうじゅ)するものなら、わしをはじめ上将一同、かく辛労はせん」


「いや、かならず成就してお見せします。なんとなれば、荀彧が急に兵糧を送れないのは、その兵糧の守備として、同時に大部隊をつけなければならないからです。しかし、早晩その運輸は実行しなければ、曹操をはじめとして、前線の将士は飢餓に(ひん)しましょう。――わたくしが思うには、もうその輸送大部隊は、都を出ている気がします。さすれば、洛内の手薄たることや(ひっ)せりでありましょう」
「そちは上将の智を軽んじおるな。左様なことは、誰でも考えるが、一を知って二を知らぬものだ。――もしこの書簡が偽状(にせじょう)であったらどうするか」
「断じて、偽筆(ぎひつ)ではありません。わたくしは曹操の筆蹟は、若い時から見ているので」

 彼の熱意は容易に聞き届けられなかったが、さりとて、思いとどまる気色もなく、なお懇願をつづけていた。

 袁紹は途中で、席を立ってしまった。審配から使いがきたからである。すると、その間に、郭図(かくと)がそっと彼に耳打ちした。

「許攸の言はめったにお用いになってはいけません。下将(げしょう)の分際で、嘆願に出るなど、僭越(せんえつ)の沙汰です。のみならず、あの男は、冀州(きしゅう)にいた頃も、常に行いがよろしくなく、百姓をおどして、年貢の賄賂(わいろ)をせしめたり、金銀を借りては酒色に惑溺(わくでき)したり、鼻つまみに()まれているような男ですから」

「……ふム、ふム。わかっとる、わかっとる」


 袁紹は二度目に出てくると、(むさ)いものを見るような眼で、許攸を見やって、


「まだいたのか、退がれ。いつまでおっても同じことじゃ」

 と、叱りとばした。

 許攸は、むっとした面持で、外へ出て行った。そしてひとり憤懣(ふんまん)とした容子で、

豎子(じゅし)、われを用いず。いまに後悔するから見ていろ」
 彼はこそこそと塹壕(ざんごう)のうちにかくれた。そしてその夜、わずか五、六人の手兵とともに、暗にまぎれて、官渡の浅瀬を渡り、一散に敵の陣地へ駈けこんで行った。


 槍の先に、何やら白い布をくくりつけ、それを振りながらまっしぐらに駈けてくる敵将を見、曹操の兵は、

「待てっ、何者だ」と、たちまち捕えて、姓名や目的を詰問した。

「わしは、曹丞相(そうじょうしょう)の旧友だ。南陽の許攸(きょゆう)といえば、きっと覚えておられる。一大事を告げにきたのだからすぐ取次いでくれい」

 その時、曹操は本陣の内で、(ころも)を解きかけてくつろごうとしていたが、取次の部将からそのことを聞いて、


「なに、許攸が?」

 と、意外な顔して、すぐ通してみろといった。

 ふたりは轅門(えんもん)のそばで会った。少年時代の面影はどっちにもある。おお君か――となつかしげに、曹操が肩をたたくと、許攸は地に伏して拝礼した。

「儀礼はやめ給え。君と予とは、幼年からの友、官爵(かんしゃく)の高下をもって相見るなど、水くさいじゃないか」

 曹操は、手をとって起した。許攸はいよいよ慙愧(ざんき)して、


「私は半生を過まった。主を見るの(めい)なく、袁紹(えんしょう)ごときに身をかがめ、忠言もかえって彼の耳に逆らい、今日、追われて故友の陣へ降を乞うなど……なんとも面目ないが、丞相、どうか私を憐れんで、この馬骨を用いて下さらんか」
「君のことはもとよりよく知っている。無事に相見ただけでもうれしい心地がするのに、さらに、予に力を貸さんとあれば、なんで否む理由があろう。歓んで君の言を聞こう」
「実は、自分が袁紹にすすめたのは、今、軽騎の精兵五千をひっさげて、間道の嶮をしのび越え、ふいに許都(きょと)を襲い、前後から官渡の陣を攻めようということでござった。――ところが、袁紹は用いてくれないのみか、下将の分際で僭越なりと、それがしを辛く退けてしまった」
 曹操はおどろいて、
「もし袁紹が、君の策を容れたら、予の陣地は七()(れつ)となるところだった。ああ危うい哉。――して、今、袁紹の陣はどの用な容子であろうか。逆に彼を破るとしたら、どう計を立てるか」
「その計を立てるまえに、まず伺いたいことがあります。いったい丞相のご陣地には今、どれくらいな兵糧のご用意がおありか?」
「半年の支えはあろう」
 曹操が、即答すると、許攸(きょゆう)は、鼻の上に皮肉な小皺(こじわ)をよせながら、
「ほう、では、これは一体、誰が書いたものでしょう」
 封のやぶれている書簡を出して、曹操の眼の前へつきだした。

 それは先に曹操から都の荀彧(じゅんいく)へ宛てて、兵糧の窮迫を告げ、早速な処置をうながした直筆のものであった。

「や。どうして予の書簡が、君の手にはいっているのか」
 許攸は、自分の手で、使いを生け捕ったことなど、つぶさに話して、
「丞相の軍は小勢で、敵の大軍に対し、しかも兵糧は尽きて、今日にも迫っている場合でしょう。なぜ敵の好む持久戦にひきずられ、自滅を待っておいでになるか、それがしに分りません」

 と、いった。

 曹操はすっかり(かぶと)をぬいで、速戦即決に出たいにも名策はないし持久を計るには兵糧がない。如何にせば、ここを打開できるだろうかと、辞を低うして訊ねた。


「ここを離るること四十里、烏巣(うそう)の要害がありましょう。烏巣はすなわち袁紹の軍を養う糧米がたくわえある糧倉の所在地です。ここを守る淳于瓊(じゅんうけい)という男は、酒好きで、部下に統一なく、ふいに衝けば必ず崩れる脆弱(ぜいじゃく)な備えであります」

「――が、その烏巣へ近づくまでどうして敵地を突破できよう」


「尋常なことでは通れません。まず屈強なお味方をすべて北国勢に仕立て、柵門(さくもん)を通るたびに袁将軍の直属蒋奇(しょうき)の手の者であるが、兵糧の守備に増派され、烏巣へ行くのだと答えれば――夜陰といえども疑わずに通すにちがいありません」

 曹操は彼の言を聞いて、暗夜に光を見たような歓びを現した。


「そうだ、烏巣を焼討ちすれば袁紹の軍は、七日と持つまい」


 彼は直ちに、準備にかかった。

 まず河北軍の偽旗(にせはた)をたくさんに作らせた。将士の軍装も馬飾りも(のぼり)もことごとく河北風俗にならって(いろど)られ、約五千人の模造軍が編制された。

 張遼は、心配した。

「丞相、もし許攸(きょゆう)が、袁紹のまわし者だったら、この五千は、ひとりも生き還れないでしょう」
「この五千は、予自身が率いてゆく。なんでわざわざ敵の術中へ墜ちにゆくものか」

「えっ、丞相ご自身で」


「案じるな。――許攸が味方へとびこんできたのは、実に、天が曹操に大事を成さしめ給うものだ。もし狐疑逡巡(こぎしゅんじゅん)して、この妙機をとり逃したりなどしたら、天は曹操の暗愚を見捨てるであろう」

 果断即決は、実に曹操の持っている天性の特質中でも、大きな長所の一つだった。彼には兵家の将として絶対に必要な「(かん)」のするどさがあった。他人には容易に帰結の計りがつかない冒険も、彼の鋭敏な「勘」は一瞬にその目的が成るか成らないか、最終の結果をさとるに早いものであった。

 ――が、彼にとって、恐いのは行く先の敵地ではなく、留守中の本陣だった。

 もちろん許攸はあとに残した。(てい)よく陣中にもてなさせておいて、曹洪(そうこう)を留守中の大将にさだめ、賈詡(かく)荀攸(じゅんゆう)を助けに添え、夏侯淵(かこうえん)夏侯惇(かこうじゅん)曹仁(そうじん)李典(りてん)などもあとの守りに残して行った。

 そして、彼自身は。

 五千の偽装兵をしたがえ、張遼、許褚(きょちょ)を先手とし、人は(ばい)をふくみ馬は口を(ろく)し、その日のたそがれ頃から粛々(しゅくしゅく)と官渡をはなれて、敵地深く入って行った。

 時、建安五年十月の中旬(なかば)だった。


 曹操の率いる模擬(もぎ)河北軍は、いたるところの敵の警備陣を、

「これは九将蒋奇(しょうき)以下の手勢、主君袁紹の命をうけて、にわかに烏巣の守備に増派されて参るものでござる」と呶鳴って、難なく通りぬけてしまった。

 烏巣の穀倉守備隊長淳于瓊(じゅんうけい)は、その晩も、土地の村娘など(らっ)してきて、部下と共に酒をのんで深更まで戯れていた。ところが、陣屋の諸所にあたってバリバリと異様な音がするので、あわてて、飛びだしてみると、四面一体は、はや火の海と化し、硝煙の光、投げ柴の火光などが火の(たすき)となって入り乱れているあいだを、金鼓、矢うなり、突喊(とっかん)のさけび、たちまち、耳も(ろう)せんばかりだった。

「あっ、夜討だっ」

 狼狽(ろうばい)を極めて、急に防戦してみたが、何もかも、間に合わない。

 半数は、降兵となり、一部は逃亡し、踏みとどまった者はすべて火焔の下に死骸となった。

 曹操の部下は、熊手をもって淳于瓊(じゅんうけい)をからめ捕った。

 曹操は存分に勝って淳于瓊の鼻をそぎ耳を切って、凱歌をあげながら引返した。――夜もまだ明けきらぬうちであった。

 ときに袁紹は、本陣のうちで、無事をむさぼって眠っていたが、

「火の手が見えます!」と不寝(ねず)の番に起され、はじめて烏巣の方面の赤い空を見た。

 そこへ、急報が入った。

 袁紹は驚愕して、とっさにとるべき処置も知らなかった。

 部将張郃(ちょうこう)は、

「すぐに烏巣の急を救わん」


 とあせり立ち、郭図はそれに反対して、


「むしろ、曹操の本陣、官渡の留守を()いて、彼の帰るところをなからしめん」

 と主張した。

 火の手を見ながらこんなふうに袁紹の帷幕(いばく)では議論していたのであった。

 焦眉(しょうび)の急をそこに見ながら、袁紹には果断がなかった。帷幕(いばく)の争いに対しても明快な直裁を下すことができなかった。

 彼とても、決して愚鈍な人物ではない。ただ旧態(きゅうたい)の名門に生れて、伝統的な自負心がつよく、刻々と変ってくる時勢と自己の周囲に応じてよく処することを知らなかった日頃の(とが)が、ここへ来てついに避けがたい結果をあらわし、彼をして、ただ狼狽を感じさせているものと思われる。


「やめい。口論している場合ではない」


 たまらなくなって、袁紹はついに呶鳴った。

 そして、確たる自信もなく、


張郃(ちょうこう)、高覧のふたりは、共に五千騎をひっさげて、官渡の敵陣を衝け。また、烏巣(うそう)の方面へは、兵一万を率いて、蒋奇(しょうき)が参ればよい。はやく行け、はやく」

 と、ただあわただしく号令した。

 蒋奇は心得てすぐ疾風陣(しっぷうじん)を作った。一万の騎士走卒はすべて馳足(かけあし)でいそいだ。烏巣の空はなお炎々と赤いが、山間の道はまっ暗だった。

 すると彼方から百騎、五十騎とちりぢりに馳けてきた将士が、みな蒋奇の隊に交じりこんでしまった。もっとも出合いがしらに先頭の者が、


「何者だっ?」と充分に(ただ)したことはいうまでもないが、みな口を揃えて、

淳于瓊(じゅんうけい)の部下ですが、大将淳于瓊は捕われ、味方の陣所は、あのように火の海と化したので逃げ退いてきたのです」というし、姿を見れば、すべて河北軍の服装なので、怪しみもせず、応援軍のなかに加えてしまったものであった。

 ところが、これはみな烏巣から引っ返してきた曹操の将士であったのである。中には、張遼(ちょうりょう)だの許褚(きょちょ)のごとき物騒な猛将も交じっていた。馳足の行軍中、蒋奇の前後にはいつのまにかそういう面々が近づいていたのであった。

「やっ、裏切者か」

「敵だっ」

 突然混乱が起った。暗さは暗し、敵か味方かわからない間に、すでに蒋奇は何者かに鎗で突き殺されていた。

 たちまち四山の木々岩石はことごとく人と化し、金鼓は鳴り刀鎗はさけぶ。曹操の指揮下、蒋奇の兵一万の大半は殲滅(せんめつ)された。

「追い土産まで送ってくるとは、袁紹も物好きな」


 と、大捷(たいしょう)を博した曹操は、会心の声をあげて笑っていた。

 その間に、彼はまた、袁紹の陣地へ、人をさし向けてこういわせた。

「蒋奇以下の軍勢はただ今、烏巣についてすでに敵を蹴ちらし候えば、袁将軍にもお心を安じられますように」

 袁紹はすっかり安心した。――が、その安夢は朝とともに、霧の如く醒めてふたたび惨憺(さんたん)たる現実を迎えたことはいうまでもない。

 張郃(ちょうこう)、高覧も、官渡へ攻めかかって、手痛い敗北を喫していたのである。彼に備えがなかったら知らないこと、あらかじめかかることもあろうかと、手具脛(てぐすね)ひいていた曹仁や夏侯惇(かこうじゅん)の正面へ寄せて行ったので敗れたのは当然だった。

 そのあげく、官渡から潰乱してくる途中、運悪くまた曹操の帰るのにぶつかってしまった。ここでは、徹底的に叩かれて、五千の手勢のうち生き還ったものは千にも足らなかったという。

 袁紹は茫然自失していた。

 そこへ淳于瓊(じゅんうけい)が、耳鼻を()がれて敵から送られてきたので、その怠慢(たいまん)をなじり、怒りにまかせて即座に首を刎ねてしまった。


 淳于瓊が斬られたのを見て、袁紹の幕将たちは、みな不安にかられた。

「いつ、自分の身にも」と、めぐる運命におののきを覚えたからである。

 中でも、郭図(かくと)は、

「これはいかん……」

 と、早くも、保身の智恵をしぼっていた。

 なぜならば、ゆうべ官渡の本陣を衝けば必ず勝つと、大いにすすめたのは、自分だったからである。

 やがてその張郃、高覧が大敗してここへ帰ってきたら、必定、罪を問われるかも知れない。今のうちに――と彼はあわてて、袁紹にこう讒言(ざんげん)した。

「張郃、高覧の軍も、今暁、官渡において、惨敗を喫しましたが、ふたりは元から、味方を売って曹操に降らんという二心が見えていました。さてこそ、昨夜の大敗は、わざとお味方を損じたのかも知れませぬぞ。いかになんでも、ああもろく小勢の敵に敗れるわけはありません」

 袁紹は、真っ蒼になって、


「よしっ、立ち帰ってきたら、必ず彼らの罪を正さねばならん」


 と、いうのを聞くと、郭図はひそかに、人をやって、張郃、高覧がひき揚げてくる途中、

「しばし、本陣に還るのは、見合わせられい。袁将軍はご成敗の剣を抜いて、貴公たちの首を待っている」と、告げさせた。

 二人が、それを聞いているところへ、袁紹からほんとの伝令がきて、

「早々に還り給え」と、主命を伝えた。

 高覧は、突然剣を払って、馬上の伝令を斬り落した。驚いたのは張郃である。

「なんで主君のお使いを斬ったのか。そんな暴を働けば、なおさら君前で云い開きが立たんではないか」

 と絶望して悲しんだ。

 すると高覧は、つよくかぶりを振って、

「われら、なぜ死を待つべけんや。――おい、張郃。時代の流れは河北から遠い。旗をかえして、曹操に降ろう」

 と、共に引っ返して、官渡の北方に白旗をかかげ、その日ついに、曹操の軍門に降服してしまった。

 諫める者もあったが、曹操は()れるにひろい度量があった。

 降将(こうしょう)張郃を、偏将軍都亭侯(へんしょうぐんとていこう)に、高覧を同じく偏将軍東莱侯(とうらいこう)に封じ、

「なお、将来の大を期し給え」

 と、励ましたから、両将の感激したことはいうまでもない。

 彼の二を減じて、味方に二を加えると、差引き四の相違が生じるわけだから、曹操軍が強力となった反対に、袁将軍の弱体化は目に見えてきた。

 それに烏巣焼打ち以後、兵糧難の打開もついて、丞相旗のひるがえるところ、旭日昇天の(がい)があった。

 許攸(きょゆう)も、その後、曹操に好遇されていた。彼はまた、曹操に告げて、

「ここで息を抜いてはいけません。今です。今ですぞ」

 と励ました。

 昼夜、攻撃また攻撃と、手をゆるめず攻めつづけた。しかし何といっても、河北の陣営はおびただしい大軍である。一朝一夕に崩壊するとは見えなかった。

「――敵の勢力を三分させ、箇々殲滅(せんめつ)してゆく策をおとりになっては如何ですか。まずそれを誘導するため、味方の勢を実は少しずつ――黎陽(れいよう)(河南省逡県東南)鄴都(ぎょうと)(河北省)酸棗(さんそう)(河南省)の三方面へ分け、いつわって、袁紹の本陣へ、各所から一挙に働く折をうかがうのです」

 これは荀彧(じゅんいく)の献策だった。こんどの戦いで、荀彧が口を出したのは初めてであるから、曹操も重視してその説に耳を傾けた。

 鄴都、黎陽、酸棗の三方面へ向って、しきりに曹操の兵がうごいてゆくと聞いて、袁紹は、


「すわ、また何か、彼が奇手を打つな」

 と、大将辛明(しんめい)に、五万騎をつけて、黎陽へ向わせ、三男袁尚(えんしょう)にも、五万騎をさずけて、鄴都へ急派し、さらに酸棗へも大兵を分けた。

 当然、彼の本陣は、目立って手薄になった。探り知った曹操は、


「思うつぼに」

 と、ほくそ笑んで、一時三方へ散らした各部隊と聯絡をとり、日と刻を(しめ)し合わせて、袁紹の本陣へ急迫した。

 黄河は逆巻(さかま)き、大山は崩れ、ふたたび天地開闢(かいびゃく)前の晦冥(かいめい)がきたかと思われた。袁紹は(よろい)を着るいとまもなく、単衣帛髪(たんいきんはつ)のまま馬に飛び乗って逃げた。

 あとには、ただ一人、嫡子(ちゃくし)袁譚(えんたん)がついて行ったのみである。

 それと知って、

「われぞ、手擒(てどり)に!」

 と張遼(ちょうりょう)許褚(きょちょ)徐晃(じょこう)于禁(うきん)などの(ともがら)が争って追いかけたが、黄河の支流で見失ってしまった。

 一すじや二すじの河流なら見当もつくが、広茫の大野に、沼やら湖やら、またそれをつなぐ無数の流れやらあって、どっちへ渡って行ったか――水に惑わされてしまったからであった。

 なお諸所を捜索中、捕虜とした一将校の自白によると、

「嫡子袁譚(えんたん)のほかに、約八百ほどの旗下(はたもと)の将士がついて、北方の沼を逃げ渡られた」

 と、いうことだった。

 そのうちに集結の角笛(つのぶえ)が聞えたので、一同むなしく引揚げた。この日の戦果は予想外に大きかった。敵の遺棄死体は八万と数えられ、袁紹の本陣付近から彼の捨てて行った食料、重大の図書、金銀絹帛の(たぐい)などぞくぞく発見されたし、そのほか分捕りの武器馬匹など莫大な額にのぼった。

 また、それらの戦利品中には、袁紹の座側にあった物らしい金革(きんかく)の大きな文櫃(ふばこ)などもあった。曹操が開いてみると、幾束(いくたば)にもなった書簡が出てきた。

 思いがけない朝廷の官人の名がある。現に曹操のそばにいて忠勤顔している大将の名も見出された。そのほか、日頃、袁紹に内通していた者の手紙は、すべて彼の眼に見られてしまった。

「実にあきれたもの、この書簡を証拠に、この際、これらの二心ある醜類をことごとく軍律に照して断罪に処すべきでしょう」

 荀攸(じゅんゆう)がそばからいうと、曹操はにやにや笑って、


「いや待て。――袁紹の勢いが隆々としていたひと頃には、この曹操でさえ、如何にせんかと、惑ったものだ。いわんや他人をや」


 彼は、眼のまえで、革櫃(かわびつ)ぐるみ書簡もすべて、焼き捨てさせてしまった。

 また、袁紹の臣沮授(そじゅ)は、獄につながれていたので、当然、逃げることもどうすることもできず、やがて発見されて、曹操の前にひかれてきた。曹操は見るとすぐ、

「おう、君のことは、よく知っている」


 と、自身で縄をといてやったが、沮授は声をあげて、その情けを拒んだ。


「わしが捕われたのは、やむを得ず捕われたのだ。降参ではないぞ。早く首を斬れ」


 しかし曹操は、あくまでその人物を惜しんで陣中におき、篤くもてなしておいた。ところが、沮授は隙を見て、兵の馬を盗みだし、それに乗って逃げだそうとした。

 沮授が、鞍につかまった刹那、一本の矢が飛んできて、沮授の背から胸まで射ぬいてしまった。曹操は、


「ああ。忠義の人を殺せり」


 と悲しんで、手ずから遺骸を祭り、黄河のほとりに(つか)を築いて、それに「忠烈(ちゅうれつ)沮君之墓(そくんのはか)」と()にきざませた。
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登場人物紹介

劉備玄徳

劉備玄徳

ひげ

劉備玄徳

劉備玄徳

諸葛孔明《しょかつこうめい》

張飛

張飛

髭あり

張飛

関羽

関羽


関平《かんぺい》

関羽の養子

趙雲

趙雲

張雲

黄忠《こうちゅう》

魏延《ぎえん》

馬超

厳顔《げんがん》

劉璋配下から劉備配下

龐統《ほうとう》

糜竺《びじく》

陶謙配下

後劉備の配下

糜芳《びほう》

糜竺《びじく》の弟

孫乾《そんけん》

陶謙配下

後劉備の配下

陳珪《ちんけい》

陳登の父親

陳登《ちんとう》

陶謙の配下から劉備の配下へ、

曹豹《そうひょう》

劉備の配下だったが、酒に酔った張飛に殴られ裏切る

周倉《しゅうそう》

もと黄巾の張宝《ちょうほう》の配下

関羽に仕える

劉辟《りゅうへき》

簡雍《かんよう》

劉備の配下

馬良《ばりょう》

劉備の配下

伊籍《いせき》

法正

劉璋配下

のち劉備配下

劉封

劉備の養子

孟達

劉璋配下

のち劉備配下

商人

宿屋の主人

馬元義

甘洪

李朱氾

黄巾族

老僧

芙蓉

芙蓉

糜夫人《びふじん》

甘夫人


劉備の母

劉備の母

役人


劉焉

幽州太守

張世平

商人

義軍

部下

黄巾族

程遠志

鄒靖

青州太守タイシュ龔景キョウケイ

盧植

朱雋

曹操

曹操

やけど

曹操

曹操


若い頃の曹操

曹丕《そうひ》

曹丕《そうひ》

曹嵩

曹操の父

曹洪


曹洪


曹徳

曹操の弟

曹仁

曹純

曹洪の弟

司馬懿《しばい》仲達《ちゅうたつ》

曹操配下


楽進

楽進

夏侯惇

夏侯惇《かこうじゅん》

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

韓浩《かんこう》

曹操配下

夏侯淵

夏侯淵《かこうえん》

典韋《てんい》

曹操の配下

悪来と言うあだ名で呼ばれる

劉曄《りゅうよう》

曹操配下

李典

曹操の配下

荀彧《じゅんいく》

曹操の配下

荀攸《じゅんゆう》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

徐晃《じょこう》

楊奉の配下、後曹操に仕える

史渙《しかん》

徐晃《じょこう》の部下

満寵《まんちょう》

曹操の配下

郭嘉《かくか》

曹操の配下

曹安民《そうあんみん》

曹操の甥

曹昂《そうこう》

曹操の長男

于禁《うきん》

曹操の配下

王垢《おうこう》

曹操の配下、糧米総官

程昱《ていいく》

曹操の配下

呂虔《りょけん》

曹操の配下

王必《おうひつ》

曹操の配下

車冑《しゃちゅう》

曹操の配下、一時的に徐州の太守

孔融《こうゆう》

曹操配下

劉岱《りゅうたい》

曹操配下

王忠《おうちゅう》

曹操配下

張遼

呂布の配下から曹操の配下へ

張遼

蒋幹《しょうかん》

曹操配下、周瑜と学友

張郃《ちょうこう》

袁紹の配下

賈詡

賈詡《かく》

董卓

李儒

董卓の懐刀

李粛

呂布を裏切らせる

華雄

胡軫

周毖

李傕

李別《りべつ》

李傕の甥

楊奉

李傕の配下、反乱を企むが失敗し逃走

韓暹《かんせん》

宋果《そうか》

李傕の配下、反乱を企むが失敗

郭汜《かくし》

郭汜夫人

樊稠《はんちゅう》

張済

張繍《ちょうしゅう》

張済《ちょうさい》の甥

胡車児《こしゃじ》

張繍《ちょうしゅう》配下

楊彪

董卓の長安遷都に反対

楊彪《ようひょう》の妻

黄琬

董卓の長安遷都に反対

荀爽

董卓の長安遷都に反対

伍瓊

董卓の長安遷都に反対

趙岑

長安までの殿軍を指揮

徐栄

張温

張宝

孫堅

呉郡富春(浙江省・富陽市)の出で、孫子の子孫

孫静

孫堅の弟

孫策

孫堅の長男

孫権《そんけん》

孫権

孫権

孫堅の次男

朱治《しゅち》

孫堅の配下

呂範《りょはん》

袁術の配下、孫策に力を貸し配下になる

周瑜《しゅうゆ》

孫策の配下

周瑜《しゅうゆ》

周瑜

張紘

孫策の配下

二張の一人

張昭

孫策の配下

二張の一人

蒋欽《しょうきん》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

孫権を守って傷を負った

陳武《ちんぶ》

孫策の部下

太史慈《たいしじ》

劉繇《りゅうよう》配下、後、孫策配下


元代

孫策の配下

祖茂

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

韓当

孫堅の配下

黄蓋

孫堅の部下

黄蓋《こうがい》

桓楷《かんかい》

孫堅の部下


魯粛《ろしゅく》

孫権配下

諸葛瑾《しょかつきん》

諸葛孔明《しょかつこうめい》の兄

孫権の配下


呂蒙《りょもう》

孫権配下

虞翻《ぐほん》

王朗の配下、後、孫策の配下

甘寧《かんねい》

劉表の元にいたが、重く用いられず、孫権の元へ

甘寧《かんねい》

凌統《りょうとう》

凌統《りょうとう》

孫権配下


陸遜《りくそん》

孫権配下

張均

督郵

霊帝

劉恢

何進

何后

潘隠

何進に通じている禁門の武官

袁紹

袁紹

劉《りゅう》夫人

袁譚《えんたん》

袁紹の嫡男

袁尚《えんしょう》

袁紹の三男

高幹

袁紹の甥

顔良

顔良

文醜

兪渉

逢紀

冀州を狙い策をねる。

麹義

田豊

審配

袁紹の配下

沮授《そじゅ》

袁紹配下

郭図《かくと》

袁紹配下


高覧《こうらん》

袁紹の配下

淳于瓊《じゅんうけい》

袁紹の配下

酒が好き

袁術

袁胤《えんいん》

袁術の甥

紀霊《きれい》

袁術の配下

荀正

袁術の配下

楊大将《ようたいしょう》

袁術の配下

韓胤《かんいん》

袁術の配下

閻象《えんしょう》

袁術配下

韓馥

冀州の牧

耿武

袁紹を国に迎え入れることを反対した人物。

鄭泰

張譲

陳留王

董卓により献帝となる。

献帝

献帝

伏皇后《ふくこうごう》

伏完《ふくかん》

伏皇后の父

楊琦《ようき》

侍中郎《じちゅうろう》

皇甫酈《こうほれき》

董昭《とうしょう》

董貴妃

献帝の妻、董昭の娘

王子服《おうじふく》

董承《とうじょう》の親友

馬騰《ばとう》

西涼の太守

崔毅

閔貢

鮑信

鮑忠

丁原

呂布


呂布

呂布

呂布

厳氏

呂布の正妻

陳宮

高順

呂布の配下

郝萌《かくほう》

呂布配下

曹性

呂布の配下

夏侯惇の目を射った人

宋憲

呂布の配下

侯成《こうせい》

呂布の配下


魏続《ぎぞく》

呂布の配下

王允

貂蝉《ちょうせん》

孫瑞《そんずい》

王允の仲間、董卓の暗殺を謀る

皇甫嵩《こうほすう》

丁管

越騎校尉の伍俘

橋玄

許子将

呂伯奢

衛弘

公孫瓉

北平の太守

公孫越

王匡

方悦

劉表

蔡夫人

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

蒯良

劉表配下

蒯越《かいえつ》

劉表配下、蒯良の弟

黄祖

劉表配下

黄祖

陳生

劉表配下

張虎

劉表配下


蔡瑁《さいぼう》

劉表配下

呂公《りょこう》

劉表の配下

韓嵩《かんすう》

劉表の配下

牛輔

金を持って逃げようとして胡赤児《こせきじ》に殺される

胡赤児《こせきじ》

牛輔を殺し金を奪い、呂布に降伏するも呂布に殺される。

韓遂《かんすい》

并州《へいしゅう》の刺史《しし》

西涼の太守|馬騰《ばとう》と共に長安をせめる。

陶謙《とうけん》

徐州《じょしゅう》の太守

張闓《ちょうがい》

元黄巾族の陶謙の配下

何曼《かまん》

截天夜叉《せってんやしゃ》

黄巾の残党

何儀《かぎ》

黄巾の残党

田氏

濮陽《ぼくよう》の富豪

劉繇《りゅうよう》

楊州の刺史

張英

劉繇《りゅうよう》の配下


王朗《おうろう》

厳白虎《げんぱくこ》

東呉《とうご》の徳王《とくおう》と称す

厳与《げんよ》

厳白虎の弟

華陀《かだ》

医者

鄒氏《すうし》

未亡人

徐璆《じょきゅう》

袁術の甥、袁胤《えんいん》をとらえ、玉璽を曹操に送った

鄭玄《ていげん》

禰衡《ねいこう》

吉平

医者

慶童《けいどう》

董承の元で働く奴隷

陳震《ちんしん》

袁紹配下

龔都《きょうと》

郭常《かくじょう》

郭常《かくじょう》の、のら息子

裴元紹《はいげんしょう》

黄巾の残党

関定《かんてい》

許攸《きょゆう》

袁紹の配下であったが、曹操の配下へ

辛評《しんひょう》

辛毘《しんび》の兄

辛毘《しんび》

辛評《しんひょう》の弟

袁譚《えんたん》の配下、後、曹操の配下

呂曠《りょこう》

呂翔《りょしょう》の兄

呂翔《りょしょう》

呂曠《りょこう》の弟


李孚《りふ》

袁尚配下

王修

田疇《でんちゅう》

元袁紹の部下

公孫康《こうそんこう》

文聘《ぶんぺい》

劉表配下

王威

劉表配下

司馬徽《しばき》

道号を水鏡《すいきょう》先生

徐庶《じょしょ》

単福と名乗る

劉泌《りゅうひつ》

徐庶の母

崔州平《さいしゅうへい》

孔明の友人

諸葛均《しょかつきん》

石広元《せきこうげん》

孟公威《もうこうい》

媯覧《ぎらん》

戴員《たいいん》

孫翊《そんよく》

徐氏《じょし》

辺洪

陳就《ちんじゅ》

郄慮《げきりょ》

劉琮《りゅうそう》

劉表次男

李珪《りけい》

王粲《おうさん》

宋忠

淳于導《じゅんうどう》

曹仁《そうじん》の旗下《きか》

晏明

曹操配下

鍾縉《しょうしん》、鍾紳《しょうしん》

兄弟

夏侯覇《かこうは》

歩隲《ほしつ》

孫権配下

薛綜《せっそう》

孫権配下

厳畯《げんしゅん》

孫権配下


陸績《りくせき》

孫権の配下

程秉《ていへい》

孫権の配下

顧雍《こよう》

孫権配下

丁奉《ていほう》

孫権配下

徐盛《じょせい》

孫権配下

闞沢《かんたく》

孫権配下

蔡薫《さいくん》

蔡和《さいか》

蔡瑁の甥

蔡仲《さいちゅう》

蔡瑁の甥

毛玠《もうかい》

曹操配下

焦触《しょうしょく》

曹操配下

張南《ちょうなん》

曹操配下

馬延《ばえん》

曹操配下

張顗《ちょうぎ》

曹操配下

牛金《ぎゅうきん》

曹操配下


陳矯《ちんきょう》

曹操配下

劉度《りゅうど》

零陵の太守

劉延《りゅうえん》

劉度《りゅうど》の嫡子《ちゃくし》

邢道栄《けいどうえい》

劉度《りゅうど》配下

趙範《ちょうはん》

鮑龍《ほうりゅう》

陳応《ちんおう》

金旋《きんせん》

武陵城太守

鞏志《きょうし》

韓玄《かんげん》

長沙の太守

宋謙《そうけん》

孫権の配下

戈定《かてい》

戈定《かてい》の弟

張遼の馬飼《うまかい》

喬国老《きょうこくろう》

二喬の父

呉夫人

馬騰

献帝

韓遂《かんすい》

黄奎

曹操の配下


李春香《りしゅんこう》

黄奎《こうけい》の姪

陳群《ちんぐん》

曹操の配下

龐徳《ほうとく》

馬岱《ばたい》

鍾繇《しょうよう》

曹操配下

鍾進《しょうしん》

鍾繇《しょうよう》の弟

曹操配下

丁斐《ていひ》

夢梅《むばい》

許褚

楊秋

侯選

李湛

楊阜《ようふ》

張魯《ちょうろ》

張衛《ちょうえい》

閻圃《えんほ》

劉璋《りゅうしょう》

張松《ちょうしょう》

劉璋配下

黄権《こうけん》

劉璋配下

のち劉備配下

王累《おうるい》

王累《おうるい》

李恢《りかい》

劉璋配下

のち劉備配下

鄧賢《とうけん》

劉璋配下

張任《ちょうじん》

劉璋配下

周善

孫権配下


呉妹君《ごまいくん》

董昭《とうしょう》

曹操配下

楊懐《ようかい》

劉璋配下

高沛《こうはい》

劉璋配下

劉巴《りゅうは》

劉璋配下

劉璝《りゅうかい》

劉璋配下

張粛《ちょうしゅく》

張松の兄


冷苞

劉璋配下

呉懿《ごい》

劉璋の舅

彭義《ほうぎ》

鄭度《ていど》

劉璋配下

韋康《いこう》

姜叙《きょうじょ》

夏侯淵《かこうえん》

趙昂《ちょうこう》

楊柏《ようはく》

張魯配下

楊松

楊柏《ようはく》の兄

張魯配下

費観《ひかん》

劉璋配下

穆順《ぼくじゅん》

楊昂《ようこう》

楊任

崔琰《さいえん》

曹操配下


雷同

郭淮《かくわい》

曹操配下

霍峻《かくしゅん》

劉備配下

夏侯尚《かこうしょう》

曹操配下

夏侯徳

曹操配下

夏侯尚《かこうしょう》の兄

陳式《ちんしき》

劉備配下

杜襲《としゅう》

曹操配下

慕容烈《ぼようれつ》

曹操配下

焦炳《しょうへい》

曹操配下

張翼

劉備配下

王平

曹操配下であったが、劉備配下へ。

曹彰《そうしょう》

楊修《ようしゅう》

曹操配下

夏侯惇

費詩《ひし》

劉備配下

王甫《おうほ》

劉備配下

呂常《りょじょう》

曹操配下

董衡《とうこう》

曹操配下

李氏《りし》

龐徳の妻

成何《せいか》

曹操配下

蒋済《しょうさい》

曹操配下

傅士仁《ふしじん》

劉備配下

徐商

曹操配下


廖化

劉備配下

趙累《ちょうるい》

劉備配下

朱然《しゅぜん》

孫権配下


潘璋

孫権配下

左咸《さかん》

孫権配下

馬忠

孫権配下

許靖《きょせい》

劉備配下

華歆《かきん》

曹操配下

呉押獄《ごおうごく》

典獄

司馬孚《しばふ》

司馬懿《しばい》の弟

賈逵《かき》


曹植


卞氏《べんし》

申耽《しんたん》

孟達の部下

范疆《はんきょう》

張飛の配下

張達

張飛の配下


関興《かんこう》

関羽の息子

張苞《ちょうほう》

張飛の息子

趙咨《ちょうし》

孫権配下

邢貞《けいてい》

孫桓《そんかん》

孫権の甥

呉班

張飛の配下

崔禹《さいう》

孫権配下

張南

劉備配下

淳于丹《じゅんうたん》

孫権配下

馮習

劉備配下


丁奉

孫権配下

傅彤《ふとう》

劉備配下

程畿《ていき》

劉備配下

趙融《ちょうゆう》

劉備配下

朱桓《しゅかん》

孫権配下


常雕《じょうちょう》

曹丕配下

吉川英治


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