第77話、官渡の戦い
文字数 16,108文字
呉を
国策の大方針として、まず河北の
これは諸葛瑾の献策で、瑾は長く河北にいたので袁紹の
そうきまったので、河北から使者にきて、長逗留していた
一方、曹操のほうでも。
呉の孫策死す! ――という大きな衝動をうけて、にわかに評議をひらき、曹操はその席で、
といったので、曹操もその卑劣をふかく恥じたとみえ、以後、それを口にしないばかりでなく、上使を呉へ送って後継者の孫権に恩命をつたえた。
すなわち孫権を
彼の選んだ方針と、呉がきめていた国策とは、その永続性はともかく孫策の死後においては、
――だが、おさまらないのは、河北の
使者は追い返され、呉はすすんで曹操に
令に依って。
冀州、青州、
袁紹も、
と、極力その不利を説いた。
かたわらにいた
と、ことさら、
出陣の日は、わずかなことも吉凶を占って、気にかけるものである。不吉な言をなしたというのは大罪に
袁紹も怒って、田豊を血祭りにせんと猛ったが、諸人が
と云い払って出陣した。
ところが途中、陽武(河南省・原陽附近)まで進むと、また
袁紹は、彼の首にも
かくて、官渡の山野、四方九十里にわたって、河北の軍勢七十余万、陣を布いて曹操に対峙した。
この日、
折から、三通の
見れば、大将軍
と、陣頭に出た。
西軍の鉄壁陣は、
と、乗りだしてきたもの、いうまでもなく、いま天下の動向この人より起るとみられている曹操である。
曹操はまずいった。
彼が敵に与える宣言はいつもこの筆法である。袁紹は当然面を朱に怒った。
宣言の上では、誰が聞いても、袁紹のほうがすぐれている。
だから曹操はすぐ、
高く鞭を振った。
と、叱りながら、河北の勇将
二者、火をちらして激闘すること五十余合、それでも勝負がつかない。
曹操は、遠くにあって、驚きの目をみはりながら、
と、つぶやいた。
差し控えていた
と、許褚めがけ槍をひねって向ってくる。
――その時、将台の上に立って、
と、軍配も折れよと振った。
かかることもあろうかと、かねて隠しておいた
天地も裂くばかりな
袁紹は、勝った。まさにこの日の戦は、河北軍の
元来この
うしろには
両軍はこの流れをさし挟んで対陣となった。地勢の按配と双方の力の伯仲しているこの
と、曹軍はその陣容を誇るかのようだった。
さすがの袁紹も、果たして、
と、さとったらしく、ここ数日は矢一つ放たなかった。
ところが、一夜のうちに、官渡の北岸に、山ができていた。そも、袁紹は何を考えだしたか、二十万の兵に工具を
と知った曹操のほうでは、陣所陣所から手をかざして、なにか評議をこらしていたが、ついに施す策もなかった。
「……やあ、こんどはあの築山の上に、幾つも
「なるほど、仰山なことをやりおる、どうする気だろう?」
その解答は、まもなく袁紹のほうから、実行で示してきた。
細長い丘の上に、五十座の
これには曹操も閉口して、前線すべて山麓の陰へ退却してしまうしかなかった。
当然、袁紹の作戦は次の行動を開始していた。夜な夜な河中の逆茂木を伐りのぞき、やがて味方の
曹操も、内心、恐れを覚えてきたらしい。
すると幕僚の
と、図に描いてみせた。
曹操はよろこんで、直ちに、その無名の老鍛冶屋を奉行にとりたて、鍛冶、木工、石屋など、数千人の工人を督励して、図のように発石車を数百輛作らせた。
発石車から大石を口をそろえて飛ばした。大石は虚空にうなり、河をこえて、人工の丘に、無数の土けむりをあげ、また、敵の櫓をみな
「何だ。あの器械は」
敵はもとより、味方のものまで目に見た威力に、ひとしく
一方の河北軍は、
これは
こんどの場合は、城壁とちがい、官渡の流れが両軍のあいだにあるが、水深は浅い。深く掘りすすめば至難ではなかろう。
こう
と、袁紹は直ちに実行させたのである。二万余の土龍は、またたくうちに、一すじの地道を対岸の彼方まで掘りのばして行った。
曹操は早くもそれを察していた。なぜならば、
彼はまた、
劉曄は笑って、
苦もなく防禦線はできた。
物見によって、それと知った袁紹は、あわてて
こんなふうに、対戦はいたずらに延び、八月、九月も過ぎた。
輸送力に比して、大軍を擁しているため、長期となると、かならず双方とも苦しみだすのは、兵糧であった。
曹操は、そのため、幾度か
すると、
徐晃が、この捕虜を手なずけて、いろいろ問いただしてみると、
「袁紹の陣でも、実は、兵糧の窮乏に困りかけています。けれど、近頃、
と、嘘でもなさそうな自白であった。
で――徐晃はさっそく、その趣を、曹操へ報告した。曹操は、聞くと手を打って、
徐晃は、その役を買って出た。
壮なりとして、曹操はゆるしたけれど、敵地に深く入りこむことなので、徐晃の先手二千人のあとへ、さらに、張遼と許褚の二将に五千余騎を授けて立たせた。
その夜。
河北の兵糧奉行たる韓猛は、数千輛の穀車や牛馬に鞭を加えて、山間の道を
急ぎ防戦のそなえをしたが、足場はわるし道は暗いし、牛馬は暴れだすし、まだ敵を見ぬうちから大混乱を起していた。
徐晃の奇襲隊は、用意の油を投げつけ、敵の糧車へ、八方から火をつけた。
火牛は吠え、火馬は躍り、真っ赤な谷底に、人間は戦い合っていた。
真夜中に、西北の空が、真っ赤に
と、疑っていた。
そこへ韓猛の部下がぞくぞく逃げ返ってきて、
「兵糧を焼かれました」と告げたから袁紹は落胆もしたし、韓猛の敗退を、
彼は、俄に呼んで、その二将に精兵をさずけ、兵糧隊を奇襲した敵の退路をたって
二大将は手分けして、大道をひた押しに駈け、見事、敵路を先に取った。
徐晃は使命を果たして、意気
待ちかまえていた高覧、張郃の二将は、
と、無造作に包囲して、馬を深く敵中へ馳け入れ、
と、彼のすがたを探しあてるやいな、挟み撃ちにおめきかかっていた。
ところが。
背後の部下はたちまち
すなわち一軍は許褚、一軍は張遼、あわせて五千余騎が、いちどに
高覧は
とばかり、逃げ鞭たたいて逸走してしまった。
徐晃は、後詰の張遼、許褚と合流して、悠々、官渡の下流をこえて陣地へ帰ったが、曹操が功をたたえると、
曹操が慰めたので、諸将はみな苦笑したが、まったくこの戦果によっては、少しも兵糧の窮乏は解決されなかった。
しかし、これを袁紹のほうに比較すると、士気をあげただけでも、やはり充分に、徐晃の功は大きかったといっていい。
袁紹は、期待していた兵糧の莫大な量をむなしく焼き払われたので、
と、
この難に遭ってから
と、大いに袁紹へ注意するところがあった。
烏巣、
この淳于瓊というのは、生来の大酒家で、
烏巣自体、天然の要害であったが、それを任された淳于瓊は毎日、部下をあつめて飲んでばかりいた。
ここに、袁紹の軍のうちに、
この許攸が、不遇な原因は、ほかにもあった。
彼は曹操と同郷の生れだから、あまり重用すると、危険だとみられていたのである。
酒を飲んだ時か何かの折に、彼自身の口から、
などと、自慢半分にしゃべったことが
ところが、その
偵察に出て、小隊と共に、遠く歩いているうち、うさん臭い男を一名捕まえたのである。
さきに曹操から都の
許攸は、ここぞ日頃の疑いをはらし、また自分の不遇から脱する機会と、直接、袁紹を拝してそう熱願した。
もちろん証拠の一書も見せ、
彼の熱意は容易に聞き届けられなかったが、さりとて、思いとどまる気色もなく、なお懇願をつづけていた。
袁紹は途中で、席を立ってしまった。審配から使いがきたからである。すると、その間に、
袁紹は二度目に出てくると、
と、叱りとばした。
許攸は、むっとした面持で、外へ出て行った。そしてひとり
槍の先に、何やら白い布をくくりつけ、それを振りながらまっしぐらに駈けてくる敵将を見、曹操の兵は、
「待てっ、何者だ」と、たちまち捕えて、姓名や目的を詰問した。
その時、曹操は本陣の内で、
と、意外な顔して、すぐ通してみろといった。
ふたりは
曹操は、手をとって起した。許攸はいよいよ
それは先に曹操から都の
と、いった。
曹操はすっかり
曹操は彼の言を聞いて、暗夜に光を見たような歓びを現した。
彼は直ちに、準備にかかった。
まず河北軍の
張遼は、心配した。
果断即決は、実に曹操の持っている天性の特質中でも、大きな長所の一つだった。彼には兵家の将として絶対に必要な「
――が、彼にとって、恐いのは行く先の敵地ではなく、留守中の本陣だった。
もちろん許攸はあとに残した。
そして、彼自身は。
五千の偽装兵をしたがえ、張遼、
時、建安五年十月の
曹操の率いる
「これは九将
烏巣の穀倉守備隊長
半数は、降兵となり、一部は逃亡し、踏みとどまった者はすべて火焔の下に死骸となった。
曹操の部下は、熊手をもって
曹操は存分に勝って淳于瓊の鼻をそぎ耳を切って、凱歌をあげながら引返した。――夜もまだ明けきらぬうちであった。
ときに袁紹は、本陣のうちで、無事をむさぼって眠っていたが、
「火の手が見えます!」と
そこへ、急報が入った。
袁紹は驚愕して、とっさにとるべき処置も知らなかった。
部将
とあせり立ち、郭図はそれに反対して、
と主張した。
火の手を見ながらこんなふうに袁紹の
彼とても、決して愚鈍な人物ではない。ただ
たまらなくなって、袁紹はついに呶鳴った。
そして、確たる自信もなく、
と、ただあわただしく号令した。
蒋奇は心得てすぐ
すると彼方から百騎、五十騎とちりぢりに馳けてきた将士が、みな蒋奇の隊に交じりこんでしまった。もっとも出合いがしらに先頭の者が、
「何者だっ?」と充分に
「
ところが、これはみな烏巣から引っ返してきた曹操の将士であったのである。中には、
「やっ、裏切者か」
「敵だっ」
突然混乱が起った。暗さは暗し、敵か味方かわからない間に、すでに蒋奇は何者かに鎗で突き殺されていた。
たちまち四山の木々岩石はことごとく人と化し、金鼓は鳴り刀鎗はさけぶ。曹操の指揮下、蒋奇の兵一万の大半は
と、
その間に、彼はまた、袁紹の陣地へ、人をさし向けてこういわせた。
「蒋奇以下の軍勢はただ今、烏巣についてすでに敵を蹴ちらし候えば、袁将軍にもお心を安じられますように」
袁紹はすっかり安心した。――が、その安夢は朝とともに、霧の如く醒めてふたたび
そのあげく、官渡から潰乱してくる途中、運悪くまた曹操の帰るのにぶつかってしまった。ここでは、徹底的に叩かれて、五千の手勢のうち生き還ったものは千にも足らなかったという。
袁紹は茫然自失していた。
そこへ
淳于瓊が斬られたのを見て、袁紹の幕将たちは、みな不安にかられた。
「いつ、自分の身にも」と、めぐる運命におののきを覚えたからである。
中でも、
と、早くも、保身の智恵をしぼっていた。
なぜならば、ゆうべ官渡の本陣を衝けば必ず勝つと、大いにすすめたのは、自分だったからである。
やがてその張郃、高覧が大敗してここへ帰ってきたら、必定、罪を問われるかも知れない。今のうちに――と彼はあわてて、袁紹にこう
袁紹は、真っ蒼になって、
と、いうのを聞くと、郭図はひそかに、人をやって、張郃、高覧がひき揚げてくる途中、
「しばし、本陣に還るのは、見合わせられい。袁将軍はご成敗の剣を抜いて、貴公たちの首を待っている」と、告げさせた。
二人が、それを聞いているところへ、袁紹からほんとの伝令がきて、
「早々に還り給え」と、主命を伝えた。
高覧は、突然剣を払って、馬上の伝令を斬り落した。驚いたのは張郃である。
と絶望して悲しんだ。
すると高覧は、つよくかぶりを振って、
と、共に引っ返して、官渡の北方に白旗をかかげ、その日ついに、曹操の軍門に降服してしまった。
諫める者もあったが、曹操は
と、励ましたから、両将の感激したことはいうまでもない。
彼の二を減じて、味方に二を加えると、差引き四の相違が生じるわけだから、曹操軍が強力となった反対に、袁将軍の弱体化は目に見えてきた。
それに烏巣焼打ち以後、兵糧難の打開もついて、丞相旗のひるがえるところ、旭日昇天の
と励ました。
昼夜、攻撃また攻撃と、手をゆるめず攻めつづけた。しかし何といっても、河北の陣営はおびただしい大軍である。一朝一夕に崩壊するとは見えなかった。
これは
鄴都、黎陽、酸棗の三方面へ向って、しきりに曹操の兵がうごいてゆくと聞いて、袁紹は、
と、大将
当然、彼の本陣は、目立って手薄になった。探り知った曹操は、
と、ほくそ笑んで、一時三方へ散らした各部隊と聯絡をとり、日と刻を
黄河は
あとには、ただ一人、
それと知って、
「われぞ、
と
一すじや二すじの河流なら見当もつくが、広茫の大野に、沼やら湖やら、またそれをつなぐ無数の流れやらあって、どっちへ渡って行ったか――水に惑わされてしまったからであった。
なお諸所を捜索中、捕虜とした一将校の自白によると、
「嫡子
と、いうことだった。
そのうちに集結の
また、それらの戦利品中には、袁紹の座側にあった物らしい
思いがけない朝廷の官人の名がある。現に曹操のそばにいて忠勤顔している大将の名も見出された。そのほか、日頃、袁紹に内通していた者の手紙は、すべて彼の眼に見られてしまった。
彼は、眼のまえで、
また、袁紹の臣
と、自身で縄をといてやったが、沮授は声をあげて、その情けを拒んだ。
しかし曹操は、あくまでその人物を惜しんで陣中におき、篤くもてなしておいた。ところが、沮授は隙を見て、兵の馬を盗みだし、それに乗って逃げだそうとした。
沮授が、鞍につかまった刹那、一本の矢が飛んできて、沮授の背から胸まで射ぬいてしまった。曹操は、
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