第4話、芙蓉姫
文字数 5,845文字
馬元義は、石段から伸び上がっていうと、
と、李と呼ばれた男も、そのほかの仲間も、つづいて馬の鞍から降りた。
「なあに、砂金や宝石じゃないが、洛陽船から、茶を交易した男があるんだ。知っての通り、盟主張角様には、茶ときては、眼のない好物。これはぜひ
賊の
劉備は、驚いた。
思わず、
馬元義は、すぐ傍らにいる劉備を指さした。
李は、意外な顔をしたが、馬元義から、劉備が孔子廟にいたことを聞くと、にわかに怪しみ疑って、
と、たむろさせてある部下へ向ってどなった。
手下の丁峰は、呼ばれて馳けてきた。李は、黄河で茶を交易した若者は、この男ではないかと、劉の顔を指さした。
丁は、劉青年を見ると、惑うこともなくすぐ答えた。
劉備を脅した。
劉備は、云いのがれのきかないことを、はやくも観念した。しかし、故郷の母が、いかにそれを楽しみに待っているかを思うと、自分の命を求められたより辛かった。
よろめく劉備の襟がみを、つかみもどして、
と、
劉備は二人の足の前で、そうしてひれ伏したまま、まだ、母の歓びを売って、この場を助かる気持になれないでいたが、ふと、眼を上げると、寺門の陰にたたずんで、こちらを覗いていた最前の老僧が、
(何でも与えてしまえ、与えてしまえ)と、声を出さず口を動かし、手真似をもって、しきりと彼の善処をうながしている。
と哀願した。
すると、馬元義は、
劉備は、やむなく、肌深く持っていた
と、いった。
賊の小隊はすぐ先へ出発する予定らしかったが、ひとりの物見が来て、ここから十里ほどの先の河べりに、県の吏軍が約五百ほど野陣を張り、われわれを捜索しているらしいという報告をもたらした。で、にわかに、「では、今夜はここへ泊れ」となって、約五十の黄巾賊は、そのまま寺を宿舎にして、携帯の
今のうちに逃げなければ、賊軍として討伐されかねないと、夕方の炊事の混雑をうかがって、劉備は、そっと外へ踏みだしかけた。
賊の
劉備は縛られ、
そこは石畳の床に、太い丸柱と、小さい窓しかない石室だった。
馬元義と李朱氾とが、二人がかりで、劉備を蹴って
劉備は一口も物をいわなかった。こうなったからには、天命にまかせようと観念しているふうだった。
「そうだな、いずれ明日の早暁、俺はここを出発して、張角良師の総督府へ参り、例の茶壺を献上かたがた良師のご機嫌伺いに出るつもりだが、その折、こいつも引っ立てて行って、軍本部の軍法会議にさし廻してみたらどうだろう。思いがけない拾いものになるかもしれぬぜ」
李は、持てあまし気味に、馬元義へ向ってこう提議した。
よかろうと、馬元義も同意した。
そのまま、しばりつけた劉備を置いて、斎堂の扉は、かたく閉められてしまった。夜が更けると、ただ一つの高い窓から、今夜も銀河の秋天が冴えて見える。けれどとうてい、そこからのがれ出るすべはない。
どこかで、馬のいななきがする。県軍が攻めてきたのならよいが――と劉備は、望みをつないだが、それは物見から帰ってきた二、三の賊兵らしく、後は
孝行するにも、身に不相応な望みを持ったのが悪かったと劉備は、星を仰いで
――すると彼の瞳の前に一筋の縄が下がってきた。それは高い切窓の口から石の壁に伝わってスルスルと垂れてきた。
人影もなにも見えない、ただ四角な星空があるだけだった。
劉備は、身を起しかけた。しかしすぐ無益であることを知った。身は丸柱に縛られている、この縄目の解けない以上、救い手がそこまで来ていても、すがりつく
誰か、窓の下へ、救いに来ている。外で自分を待っていてくれる者がある。劉備は、縄が切れないかと、もがいた。
と、早くしろとうながすように、外の者は
劉備は、足の先で、短剣を寄せた。それを手にして、自身の縄目を断ち切ると、劉備は、窓の下に立った。
(早く。早く)といわんばかりに、無言の縄は外から意志を伝えて、ゆれうごいている。
劉備は、それにつかまった。石壁に足をかけてのぼり、窓から外を見た。
その手がさしまねく。
劉備はすぐ地上へ跳びおりた。待っていた老僧は、そのやせ細った体のどこに、そんな力があったのか、物もいわず馳けだした。
寺の裏に、林があり、その林の間道を走った。
街道の方向ではない。
小声で呼びながら、納屋の裏から、老僧は何かひきながら出てきた。
劉備は眼をみはった。老僧が引っぱっているのは馬の手綱だった。銀毛のように美しい白馬をひいていた。
その見事な毛並みの馬に続いて、後ろから歩みも
「青年。わしがお前を助けて上げたことを、恩としてくれるなら、逃げるついでに、このお
老僧のことばに、劉備は、
老僧は、彼のためらいを、どう解釈したか。
「そうだ、
秋風の外に、にわかに、人の足音や馬のいななきが聞えだした。
劉備が、眼をくばると、
と、老僧が彼の袖をとらえ、語りつづけた。
県の城長の娘は、名を
芙蓉の身を、そこまで届けてくれさえすれば、後は以前の家来たちが守護してくれる――白馬の背へ二人してのって、抜け道から一気に逃げのびて行くように――と、
劉備は、勇気を示して答えた。
老僧の覚悟を知り、劉備は、芙蓉の
芙蓉の体は、いと軽かった。柔軟で高貴な
劉備も木石ではない。かつて知らない
劉備は、馬からおりようとした。
老僧は、落ちていた枯れ枝を手に取り、それで白馬の尻を叩いた。白馬はいななき、走り出した。劉備は慌てて、馬にかじりついた。
芙蓉は後ろに手を伸ばしながら叫んだ。
劉備と芙蓉を乗せた白馬は走り去った。
しばらくすると、人の走る音と松明の明かりが見えた。劉備がいなくなったことに気づいた黄巾族が追ってきたのである。
老僧は、枯れ枝一本を手に、黄巾族を出迎えた。
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