第87話、江夏

文字数 9,023文字

 眼を転じて、南方を見よう。

 呉は、その後、どういう推移と発展をとげていたろうか。

 ここ数年を見較べるに――

 曹操は、北方攻略という大事業をなしとげている。

 玄徳のほうは、それに反して、逆境また逆境だったが、隠忍よく生きる道を見つけては、ついに孔明の出廬をうながし、孔明という人材を得た。

 広大な北支の地を占めた曹操の業と、一箇の人物を野から見出した玄徳の収穫と、いずれが大きく、いずれが小さいか、この比較は、その結果を見るまでは、軽々しく即断はできない。

 この間にあって、呉の発展は、あくまで文化的であり、内容の充実にあった。

 何しろ、先主孫策のあとを継いで立った孫権は、まだ若かった。曹操より二十八も年下だし、玄徳とくらべても、二十二も若い当主である。

 それと、南方は、天産物や交通にめぐまれているので期せずして、人と知識はここに集まった。文化、産業、ひいては軍需、政治などの機能が活溌な所以である。

 時。――建安の七年頃だった。――すなわち孔明出廬のときよりさかのぼること六年前である。

 美しい一艘の官船が檣頭(しょうとう)許都(きょと)政府の旗をかかげて、揚子江(ようすこう)を下ってきた。

 中央からの使者であった。

 使者の一行は、呉会の賓館(ひんかん)にはいって、のち城中に登り、曹操の旨をつたえて、

「まだご幼少にいらせられる由ですが、孫閣下のご長男を、このたび都へ召されることになりました。朝廷においてご教育申しあげ、成人の後は、官人となされたいお心からです。――もちろん帝の有難い思し召も多分にあることで」と、申し入れた。

 ことばの上から見ると非常な光栄のようであるが、いうまでもなく、これは人質を求めているのである。

 呉のほうでも、そこは知れきっていることだが、うやうやしく恩命を謝して、

「いずれ、一門評議のうえ、あらためて」

 と、答えて、問題の延引策を取っていた。

 その後も、度々、長子を上洛(のぼら)せよと、曹操のほうから催促がくる。朝廷を擁しているだけに、彼の命は、すでに彼の命にとどまらない絶対権をおびていた。


 考えてみると、問題は、子ども一人のことではない。質子(ちし)を拒めば、当然、曹操とは敵国になる。

 そこで、呉会の賓館(ひんかん)に、大会議をひらいた。

 当時、呉下の智能はほとんど一堂に集まったといっていい。

 張昭、張絋(ちょうこう)周瑜(しゅうゆ)魯粛(ろしゅく)などの宿将をはじめとして、

 彭城(ほうじょう)曼才(まんさい)会稽(かいけい)徳潤(とくじゅん)沛県(はいけん)の敬文、汝南(じょなん)徳枢(とくすう)、呉郡の休穆(きゅうぼく)、また公紀、烏亭(うてい)孔休(こうきゅう)など。

 かの水鏡先生が、孔明と並び称して――伏龍(ふくりゅう)鳳雛(ほうすう)といった――その鳳雛とは、襄陽(じょうよう)龐統(ほうとう)のことだが、その龐統も見えている。

 そのほか、汝陽(じょよう)呂蒙(りょもう)とか、呉郡の陸遜(りくそん)とか、瑯琊(ろうや)徐盛(じょせい)とか――実に人材雲のごとしで、呉の(さかん)なことも、故なきではないと思わせられた。


「いま曹操が、呉に人質を求めてきたのは、諸侯の例によるものである。質子を出すは、曹操に服従を誓うものであり、それを拒むことは、即敵対の表示になる。いまや呉は重大な岐路に立ち至った。いかにせばよいか、どうか、各位、忌憚(きたん)なくご意見を吐露していただきたい」


 張昭が議長格として、まず席を起ち、全員へこう発言を求めた。

 こもごもに起って、各自が、説くところ論じるところ、種々(いろいろ)である。

 質子(ちし)、送るべし。

 となす者。

 質子、送るべからず。

 と、主張する者。

 ようやく、会議は、二派にわかれ、討論果てしなく見えたが、

周瑜(しゅうゆ)に一言させて下さい」

 と、初めて彼が発言を求めた。

 呉夫人の妹の子である周瑜は、先主孫策(そんさく)と同い年であったから、孫権よりは年上だが、諸大将のうちでは、最年少者であった。

 周瑜は、起立していう。

「僭越ですが、私は、楚国(そこく)の始めを憶いおこします。楚ははじめ、荊山(けいざん)のほとり、百里に足らない土地を領し、実に微々(びび)たるものでしたが、賢能の士が集まって、ついに九百余年の(もと)をひらきました。――いまわが呉は、孫将軍が、父兄の業をうけて、ここに三代、地は六郡の衆を兼ね、兵は精にし、(ろう)豊山(ほうざん)()(あかがね)となし、海を煮て塩となす。(たみ)(らん)を思わず、武士は勁勇(けいゆう)、むかうところ敵なしです」
 彼の演舌を聞くのは初めての人々もあったらしく、多くは、その爽やかな弁と明白な理論に、意外な面持を見せていた。
「……しかるに、何を恐れて、いま曹操の下風(かふう)に媚びる必要がありましょう。質子を送るは、属領を承認するも同じです。招かれれば、呉将軍たりと、いつでも都へ上らねばならぬ、然るときは、相府に身をかがめ、位階は一侯を(いで)ず、車数乗、馬幾匹(さだ)め以上の儀装もできません。いわんや、南面して、天下の覇業(はぎょう)を行わんなど、思いもよらぬ夢でしょう。――まずここは、あくまで、無言をまもり質子も送らず、曹操のうごきを見ている(とき)ではないでしょうか。曹操が真に漢朝の忠臣たる正義を示して天下に臨むなら、その時初めて、国交を開いても遅くはありません。またもし、曹操が暴逆をあらわし、朝廷に忠なる宰相でないようなら、その時こそ、呉は天の時を計って、大いに()すある大理想をもたねばなりますまい」

「……然り」

「そうだ。その時だ」

 述べおわって、周瑜が、席へついても、しばらくは皆、感じ合ったまま、(しゅく)としていた。

 意見は、完全に、一致を見た。無言のうちに、ひとつになっていた。

 かくて、この問題は、呉の黙殺により、そのままになってしまった。が中央の威権は、いたく傷つけられたわけである。

 曹操も、以来、使いを下してこなかった。――或る重大決意を、呉に対して抱いたであろうことは想像に難くない。

 宣戦せざる宣戦――無言の国交断絶状態にはいった。

 が、長江の水だけは、千里を通じている。

 そのうちに。

 建安八年の十一月ごろ。

 孫権は、出征の要に迫られた。荊州の配下、江夏(こうか)(湖北省・武昌)の城にある黄祖(こうそ)を攻めるためだった。

 兵船をそろえ、兵を満載して、呉軍は長江をさかのぼってゆく。

 その軍容はまさに、呉にのみ見られる壮観であった。


 この戦では、初め江上の船合戦で、呉軍のほうが、絶対的な優勢を示していたが、将士共に、

「黄祖の首は、もう()のうちのもの」

 と、あまりに敵を見くびりすぎた結果、陸戦に移ってから、大敗を招いてしまった。

 もっとも大きな傷手(いたで)は、孫権の大将凌操(りょうそう)という剛勇な将軍が、深入りして、敵の包囲に遭い、黄祖の麾下(きか)甘寧(かんねい)の矢にあたって戦死したことだった。

 ために、士気は沮喪(そそう)し、呉軍は潰走を余儀なくされたが、この時、ひとり呉国の武士のために、万丈の気を吐いた若者があった。

 それは将軍凌操の子凌統(りょうとう)で、まだ十五歳の年少だったが、父が、乱軍の中に射たおされたと聞くや、ただ一名、敵中へ取って返し、父の(かばね)をたずねて馳せ返ってきた。

 孫権は、いち早く、


「この(いくさ)は不利」

 と、見たので、思いきりよく本国へ引揚げてしまったが、弱冠凌統の名は、一躍味方のうちに知れ渡ったので、

「まるで、凌統を有名にするために、戦いに行ったようなものだ」と、時の人々はいった。

 翌九年の冬。

 孫権の弟、孫翊(そんよく)は、丹陽(たんよう)の太守となって、任地へ赴いた。

 なにしろ、まだ若い上に、孫翊の性格は、短気で激越だった。おまけに非常な大酒家で、平常、何か気に入らないことがあると、部下の役人であろうと士卒であろうと、すぐ面罵(めんば)して鞭打つ癖があった。

()ってしまおう」
「貴様がその決意ならば、俺も腕をかす」

 丹陽の都督(ととく)に、媯覧(ぎらん)という者がある。同じ怨みを抱く郡丞(ぐんじょう)戴員(たいいん)と、ついにこういう肚を合わせ、ひそかに対手(あいて)の出入りをうかがっていた。

 しかし、孫翊(そんよく)は、若年ながら大剛の傑物である。つねに剣を佩いて、眼気(がんき)(すき)も見えないため、むなしく機を過していた。

 そこで二人は、一策を構え、呉主孫権に上申して、附近の山賊を討伐したい由を願った。

 すぐ、許しが出たので、媯覧はひそかに、孫翊の大将辺洪(へんこう)という者を同志に抱きこんで、県令や諸将に、評議の招きを発した。評議のあとは、酒宴ということになっている。

 孫翊も、もちろん欠かせない会合であるから、時刻がくると、身仕度して、

「じゃあ、行ってくるぞ」

 と、妻へ声をかけた。

 彼の妻は、徐氏(じょし)という。

 呉には美人が多いが、その中でも、容顔世に超えて、麗名の高かった女性である。そして、幼少から易学を好み、(うらない)をよくした。

 この日も、良人の出るまえに、ひとり易を立てていたが、

「どうしたのでしょう。今日に限って、不吉な()が出ました。なんとか口実をもうけて、ご出席は、お見合わせ遊ばして下さいませ」


 しきりと、ひきとめた。

 けれど孫翊は、


「ばかをいえ、男同士の会合に、そうは行かないよ。ははは」


 気にもかけず出かけてしまった。

 評議から酒宴となって、帰館は夜に入った。大酒家の孫翊は、蹌踉(そうろう)と、門外へ出てきた。かねてしめし合わせていた辺洪(へんこう)は、ふいに躍りかかって、孫翊を一太刀に斬り殺してしまった。

 すると、その辺洪をそそのかした媯覧、戴員(たいいん)のふたりが、急に驚いた態をして、


「主を害した逆賊め」

 と、辺洪を捕え、(まち)へ引きだして、首を斬ろうとした。

 辺洪は、仰天して、

「約束がちがう。この悪党め。張本人は、貴様たちでないか」


 と、(わめ)いたが、首は喚いている間に、地へ落ちていた。


 媯覧の悪は、それだけに止まらない。なお、べつな野望を抱いていたのである。

 一方、孫翊の妻の徐氏(じょし)は、良人の帰りがおそいので、


「もしや、易に現れたように、何か凶事があったのではないか」


 と、自分の(うらない)が的中しないことを今はしきりに(いの)っていた。気のせいか、こよいに限って、燈火(ともしび)の色も(わる)い。


「どうして、こんなに胸騒ぎが……?」


 ふと、(とばり)を出て、夜の空を仰いでいると、中門のほうから歩廊へかけて、どやどやと一隊の兵が踏みこんできた。


徐氏(じょし)か」


 先頭のひとりがいう。

 見ると、刀を横たえた都督(ととく)媯覧(ぎらん)だった。

 兵をうしろに残して、ずかずかと十歩ばかり進んでくると、


「夫人。あなたの良人孫翊(そんよく)は、こよい部下の辺洪(へんこう)のため、会館の門外で斬り殺された。――が下手人辺洪は、即座にひッ捕えて、市へひきだし首を打ち落して、(かたき)を取った。――この媯覧があなたに代って仇を打ってあげたのだ」

 恩きせがましく、こういって、


「もう悲しまぬがよい。何事もこれからは、媯覧がお力になってあげる。この媯覧にご相談あるがよい」
 と、腕をとらえて、彼女の室へはいろうとした。

「…………」


 徐氏は一時茫然としていたが、軽く、腕を払って、


「いまは、何も、ご相談を願うこともありません」


「では、また参ろう」


「人の眼もあります。月の末の――晦日(つごもり)にでも」


 徐氏が涙を含まないのみか、むしろ(こび)すら見える眸に、媯覧は独りうなずいて、


「よろしい、では、その時に」

 と、有頂天になって帰った。

 底知れぬ悪党とは、媯覧のごときをいうのだろう、彼は()くから徐氏の美貌をうかがって毒牙を磨いていたのである。

 徐氏は、悲嘆のうちに、良人(おっと)の葬儀を終って、後、ひそかに亡夫の郎党で、孫高(そんこう)傅嬰(ふえい)という二人の武士を呼んだ。

 そして、()いていうには、

「わが夫を殺した者は、辺洪ということになっているが、(わらわ)は信じません。真の下手人は、都督(ととく)媯覧です。(うらない)のうえでいうのではない、証拠のあることです、そなた達へ向って、口にするも恥かしいが、媯覧は妾に道ならぬ不義をいどみかけているのです。そこで調べてみると、辺洪は媯覧に首を切られる前に、約束がちがう。この悪党め。張本人は、貴様たちでないか。といっていたそうです。おそらく、辺洪に殺させて、その罪をすべておっかぶせたのでしょう。晦日の夜に来るように約束してあるので、そのときは、妾の声を合図に、躍りかかって、良人の仇を刺して()も。どうかこの身に力をかして賜もれ」

 忠義な郎党と、彼女が見抜いて打明けた者だけに、二人は悲涙をたたえて、亡君の恨み、誓って晴らさんものと、その夜を待っていた。

 媯覧は、やって来た。――徐氏は化粧して酒盞(しゅさん)を清めていた。

 すこし酔うと、


「妻になれ、否か応か」


 媯覧は、本性をあらわして、徐氏の胸へ、剣を擬して強迫した。

 徐氏は、ほほ笑んで、


「あなたでしょう」

「うん? ああ、もちろん、俺の妻になれというのにきまっている」


「いいえ、良人(おっと)の孫翊を殺させた張本人は」


「げっ? な、なんだ」


 徐氏は、ふいに、彼の剣の手元をつかんで、死物狂いに絶叫した。


「良人の仇っ。――傅嬰(ふえい)よ! 孫高(そんこう)よ! この賊を、斬り伏せておくれっ」


 と、躍りでた二人の忠僕は、媯覧のうしろから一太刀ずつあびせかけた。徐氏も奪い取った剣で敵の脾腹を突きとおした。そして初めて、(あけ)の中にうっ伏しながら()けるだけ哭いていた。


 孫高(そんこう)傅嬰(ふえい)の二人は、その夜すぐ兵五十人をつれて、戴員(たいいん)の邸を襲い、

「仇の片割れ」と、その首を取って主君の夫人徐氏へ献じた。

 徐氏はすぐ喪服(もふく)をかぶって、亡夫の霊を祭り、媯覧、戴員二つの首を供えて、


「お怨みをはらしました。わたくしは生涯他家へは嫁ぎません」

 と、誓った。

 この騒動はすぐ呉主孫権の耳へ聞えた。孫権は驚いて、すぐ兵を率いて、丹陽に馳せつけ、

「わが弟を討った者は、われに弓を引いたも同然である」


 と、一類の者、ことごとく誅罰(ちゅうばつ)した後、あらためて、孫高、傅嬰のふたりを登用し、牙門督兵(がもんとくへい)に任じた。

 また、弟の妻たる徐氏には、


「あなたの好きなように、生涯を楽しんでください」

 と、禄地を添えて、郷里の家へ帰した。

 江東の人々は、徐氏の貞烈(ていれつ)をたたえて、

「呉の名花だ」と、語りつたえ、史冊(しさつ)にまで名を書きとどめた。


 歳は建安十三年に入った。

 江南の春は芽ぐみ、朗天は日々つづく。

 若い呉主孫権は、早くも衆臣をあつめて、


「黄祖を()とうではないか」
「今は、まだその時ではないでしょう。長期化すれば、外交的、あるいは軍事的に曹操が介入してくるでしょう。そうなればまずいことになります」
 張昭はいった。

 周瑜(しゅうゆ)はそれに対して、

「前の戦の時は城攻めの準備が足りませんでしたが、此度は十分に整っております。曹操が介入してくる前に勝てば良いのです」


「下手に手を付けて、江夏の地を曹操に奪われたらなんとする」
「このまま何もしなければ、それこそ曹操が思う壺でしょう。曹操は大軍を率いて江夏の地を奪うことになる。そうなれば、我らは窮地を追われることになりましょう」

 と酬いた。

 いずれを採るか、孫権はまだ決しかねていた。

 ところへ、都尉(とい)呂蒙(りょもう)がきて、一事件を披露した。


「それがし龍湫(りゅうしゅう)渡口(わたし)を警備しておりますと、上流江夏(こうか)のほうから、一艘の舟がただよい来て、二十名ほどの江賊が、岸へ上がって参りました」


「して、どうしたのだ」


「――すぐ取囲んで、何者ぞと、取糺(とりただ)しましたところ、頭目らしき真っ先の男がいうには――自分ことは、黄祖の手下で、甘寧(かんねい)(あざな)興覇(こうは)とよぶ者であるが、もと巴郡(はぐん)の臨江に育ち、若年から腕だてを好み、世間のあぶれ者を集めては、その餓鬼大将となって、喧嘩を誇り、伊達(だて)を競い、常に強弓、(まさかり)を抱え、鎧を重ね、腰には大剣と鈴をつけて、江湖を横行すること多年、人々、鈴の音を聞けば……錦帆(きんぱん)の賊が来たぞ! 錦帆来(きんぱんらい)! と逃げ走るのを面白がって、ついには同類八百余人をかぞうるに至り、いよいよ悪行を働いていたなれど、時勢の赴くを見、前非を悔いあらため一時、荊州に行って劉表(りゅうひょう)に仕えていたけれど、劉表の人となりも頼もしからず、同じ仕えるなら、呉へ参って、粉骨砕身、志を立てんものと、同類を語らい、荊州を脱して、江夏まで来たところが、江夏の黄祖が、どうしても通しません。やむなく、しばらく止まって、黄祖に従っておりましたが、もとより重く用いられるわけもない。……のみならずです、或る年の戦いに、黄祖敵中にかこまれて、すんでに一命も危ういところを、自分がただ一人で、救い出してきたことなどもあったが、かつて、その恩賞すらなく、あくまで、下役の端に飼われているに過ぎないという有様でした。――しかるにまた、ここに黄祖の臣で蘇飛(そひ)という人がある。この人、それがしの心事にふかく同情して、或る時、黄祖に向い、それとなく、甘寧(かんねい)をもっと登用されては如何にと――推挙してくれたことがあったのです。すると黄祖のいうには、――甘寧はもと江上の水賊である。なんで強盗を帷幕(いばく)に用うべき。飼いおいて猛獣の代りに使っておけば一番よろしい。――そう申したので、蘇飛(そひ)はいよいよそれがしを憐れみ、一夜酒宴の折、右の事情を打明けて――人生いくばくぞや、早く他国へ去って、()かじ、良主をほかに求め給え。ここにいては、貴殿はいかに忠勤をぬきん出ても、前科の(とが)を生涯負い、人の上に立つなどは思いよらぬことと教えてくれました。……ではどうしたらいいかを、さらに蘇飛に訊くと、近いうちに、鄂県(がくけん)()に移すから、その時に、逃げ去れよとのことに、三拝して、その日を待ち、任地へいく舟といつわって、幾夜となく江を下り、ようやく、呉の領土まで参った者でござる。なにとぞ、呉将軍の閣下に、よろしく披露したまえと――それがしに取次ぎを乞うのでございました」


「むむ。……なるほど」


 孫権を始め、諸将みな、重々しくうなずいた。

 呂蒙(りょもう)は、なおこう云い足して、報告を結んだ。


「甘寧といえば、黄祖の藩にその人ありと、隣国まで聞えている勇士、さるにても、憐れなることよと、それがしも仔細を聞いて、その心事を思いやり……わが君がお用いあるや否やは保証の限りではないが、有能の士とあれば、篤く養い、賢人とあれば礼を重うしてお迎えある明君なれば、ともあれ御前にお取次ぎ申すであろうと、矢を折って、誓いを示したところ、甘寧はさらに江上の船から数百人の手下を陸へ呼びあげて――否やお沙汰の下るまで慎んでお待ちおりますと――ただ今、龍湫(りゅうしゅう)の岸辺に(たむろ)して、さし控えておりまする」
「時なるかな!」
 と、孫権は手を打ってよろこんだ。

「いま、黄祖を討つ計を議するところへ、甘寧が数百人を率いて、わが領土へ亡命してきたのは、これ潮満ちて江岸の草のそよぐにも似たり――というべきか、天の時がきたのだ。黄祖を亡ぼす前兆だ。すぐ、甘寧を呼び寄せい」


 こう孫権の命をうけ、呂蒙(りょもう)も大いに面目をほどこして、直ちに、龍湫へ早馬を引っ返して行った。

 日ならずして、甘寧は、呉会の城に伴われてきた。

 孫権は、群臣をしたがえて彼を見た。


「かねて、其方の名は承知しておる。また、出国の事情も呂蒙から聞いた。この上は、ただわが呉のために、黄祖を破るの計は如何に、それを訊きたい。忌憚(きたん)なく申してみよ」


 孫権はまずいった。

 拝礼して甘寧は答える。


江川(こうせん)の流れは山陵を縫い、攻守の備えに欠くるなく、地味はひらけて、民は豊かです。――しかしこの絶好な国がらにも、ただ一つ、脆弱(ぜいじゃく)な短所があります。国主劉表の閨門(けいもん)の不和と、宿老の不一致です」

「劉表は、温良博学な風をそなえ、よく人材を養い、文化を愛育し、ために天下の賢才はみな彼の地に集まると、世上では申しているが――」


「まさにその通りです。けれどそれはもっぱら劉表の壮年時代の定評で、晩年、気は老い、身に病の多くなるにつれ、彼の長所は、彼の短所となり、優柔不断、外に大志なく、内に衰え、虚に乗じて、閨門のあらそいをめぐり、嫡子(ちゃくし)庶子(しょし)のあいだに暗闘があるなど、――ようやく亡兆のおおい得ないものが見えだしました。討つなら今です」

「その荊州に入るには」


「もちろん江夏の黄祖を破るのを前提とします。黄祖は怖るるに足りません。彼もはや老齢で、時務には昏昧(こんまい)し、貨利をむさぼることのみ知って、上下、心から服しておりませぬ」


「兵糧武具の備えはどうか」


「軍備は充実していますが、活用を知らず、法伍(ほうご)の整えなく、これを攻めれば、立ちどころに崩壊するだろうと思います。――君いま、勢いに乗って、江夏、襄陽を衝き、楚関(そかん)にまで兵をおすすめあれば、やがて、巴蜀(はしょく)(はか)ることも難しくはございますまい」


「よく申した。まことに金玉の論である。この機を逸してはなるまい」


 孫権はすぐ周瑜(しゅうゆ)に向って、兵船の準備をいいつけた。

 周瑜を大都督に任じ、呂蒙(りょもう)を先手の大将となし、董襲(とうしゅう)、甘寧を両翼の副将として、呉軍十万は、長江をさかのぼって江夏(こうか)へおしよせた。


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登場人物紹介

劉備玄徳

劉備玄徳

ひげ

劉備玄徳

劉備玄徳

諸葛孔明《しょかつこうめい》

張飛

張飛

髭あり

張飛

関羽

関羽


関平《かんぺい》

関羽の養子

趙雲

趙雲

張雲

黄忠《こうちゅう》

魏延《ぎえん》

馬超

厳顔《げんがん》

劉璋配下から劉備配下

龐統《ほうとう》

糜竺《びじく》

陶謙配下

後劉備の配下

糜芳《びほう》

糜竺《びじく》の弟

孫乾《そんけん》

陶謙配下

後劉備の配下

陳珪《ちんけい》

陳登の父親

陳登《ちんとう》

陶謙の配下から劉備の配下へ、

曹豹《そうひょう》

劉備の配下だったが、酒に酔った張飛に殴られ裏切る

周倉《しゅうそう》

もと黄巾の張宝《ちょうほう》の配下

関羽に仕える

劉辟《りゅうへき》

簡雍《かんよう》

劉備の配下

馬良《ばりょう》

劉備の配下

伊籍《いせき》

法正

劉璋配下

のち劉備配下

劉封

劉備の養子

孟達

劉璋配下

のち劉備配下

商人

宿屋の主人

馬元義

甘洪

李朱氾

黄巾族

老僧

芙蓉

芙蓉

糜夫人《びふじん》

甘夫人


劉備の母

劉備の母

役人


劉焉

幽州太守

張世平

商人

義軍

部下

黄巾族

程遠志

鄒靖

青州太守タイシュ龔景キョウケイ

盧植

朱雋

曹操

曹操

やけど

曹操

曹操


若い頃の曹操

曹丕《そうひ》

曹丕《そうひ》

曹嵩

曹操の父

曹洪


曹洪


曹徳

曹操の弟

曹仁

曹純

曹洪の弟

司馬懿《しばい》仲達《ちゅうたつ》

曹操配下


楽進

楽進

夏侯惇

夏侯惇《かこうじゅん》

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

韓浩《かんこう》

曹操配下

夏侯淵

夏侯淵《かこうえん》

典韋《てんい》

曹操の配下

悪来と言うあだ名で呼ばれる

劉曄《りゅうよう》

曹操配下

李典

曹操の配下

荀彧《じゅんいく》

曹操の配下

荀攸《じゅんゆう》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

徐晃《じょこう》

楊奉の配下、後曹操に仕える

史渙《しかん》

徐晃《じょこう》の部下

満寵《まんちょう》

曹操の配下

郭嘉《かくか》

曹操の配下

曹安民《そうあんみん》

曹操の甥

曹昂《そうこう》

曹操の長男

于禁《うきん》

曹操の配下

王垢《おうこう》

曹操の配下、糧米総官

程昱《ていいく》

曹操の配下

呂虔《りょけん》

曹操の配下

王必《おうひつ》

曹操の配下

車冑《しゃちゅう》

曹操の配下、一時的に徐州の太守

孔融《こうゆう》

曹操配下

劉岱《りゅうたい》

曹操配下

王忠《おうちゅう》

曹操配下

張遼

呂布の配下から曹操の配下へ

張遼

蒋幹《しょうかん》

曹操配下、周瑜と学友

張郃《ちょうこう》

袁紹の配下

賈詡

賈詡《かく》

董卓

李儒

董卓の懐刀

李粛

呂布を裏切らせる

華雄

胡軫

周毖

李傕

李別《りべつ》

李傕の甥

楊奉

李傕の配下、反乱を企むが失敗し逃走

韓暹《かんせん》

宋果《そうか》

李傕の配下、反乱を企むが失敗

郭汜《かくし》

郭汜夫人

樊稠《はんちゅう》

張済

張繍《ちょうしゅう》

張済《ちょうさい》の甥

胡車児《こしゃじ》

張繍《ちょうしゅう》配下

楊彪

董卓の長安遷都に反対

楊彪《ようひょう》の妻

黄琬

董卓の長安遷都に反対

荀爽

董卓の長安遷都に反対

伍瓊

董卓の長安遷都に反対

趙岑

長安までの殿軍を指揮

徐栄

張温

張宝

孫堅

呉郡富春(浙江省・富陽市)の出で、孫子の子孫

孫静

孫堅の弟

孫策

孫堅の長男

孫権《そんけん》

孫権

孫権

孫堅の次男

朱治《しゅち》

孫堅の配下

呂範《りょはん》

袁術の配下、孫策に力を貸し配下になる

周瑜《しゅうゆ》

孫策の配下

周瑜《しゅうゆ》

周瑜

張紘

孫策の配下

二張の一人

張昭

孫策の配下

二張の一人

蒋欽《しょうきん》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

孫権を守って傷を負った

陳武《ちんぶ》

孫策の部下

太史慈《たいしじ》

劉繇《りゅうよう》配下、後、孫策配下


元代

孫策の配下

祖茂

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

韓当

孫堅の配下

黄蓋

孫堅の部下

黄蓋《こうがい》

桓楷《かんかい》

孫堅の部下


魯粛《ろしゅく》

孫権配下

諸葛瑾《しょかつきん》

諸葛孔明《しょかつこうめい》の兄

孫権の配下


呂蒙《りょもう》

孫権配下

虞翻《ぐほん》

王朗の配下、後、孫策の配下

甘寧《かんねい》

劉表の元にいたが、重く用いられず、孫権の元へ

甘寧《かんねい》

凌統《りょうとう》

凌統《りょうとう》

孫権配下


陸遜《りくそん》

孫権配下

張均

督郵

霊帝

劉恢

何進

何后

潘隠

何進に通じている禁門の武官

袁紹

袁紹

劉《りゅう》夫人

袁譚《えんたん》

袁紹の嫡男

袁尚《えんしょう》

袁紹の三男

高幹

袁紹の甥

顔良

顔良

文醜

兪渉

逢紀

冀州を狙い策をねる。

麹義

田豊

審配

袁紹の配下

沮授《そじゅ》

袁紹配下

郭図《かくと》

袁紹配下


高覧《こうらん》

袁紹の配下

淳于瓊《じゅんうけい》

袁紹の配下

酒が好き

袁術

袁胤《えんいん》

袁術の甥

紀霊《きれい》

袁術の配下

荀正

袁術の配下

楊大将《ようたいしょう》

袁術の配下

韓胤《かんいん》

袁術の配下

閻象《えんしょう》

袁術配下

韓馥

冀州の牧

耿武

袁紹を国に迎え入れることを反対した人物。

鄭泰

張譲

陳留王

董卓により献帝となる。

献帝

献帝

伏皇后《ふくこうごう》

伏完《ふくかん》

伏皇后の父

楊琦《ようき》

侍中郎《じちゅうろう》

皇甫酈《こうほれき》

董昭《とうしょう》

董貴妃

献帝の妻、董昭の娘

王子服《おうじふく》

董承《とうじょう》の親友

馬騰《ばとう》

西涼の太守

崔毅

閔貢

鮑信

鮑忠

丁原

呂布


呂布

呂布

呂布

厳氏

呂布の正妻

陳宮

高順

呂布の配下

郝萌《かくほう》

呂布配下

曹性

呂布の配下

夏侯惇の目を射った人

宋憲

呂布の配下

侯成《こうせい》

呂布の配下


魏続《ぎぞく》

呂布の配下

王允

貂蝉《ちょうせん》

孫瑞《そんずい》

王允の仲間、董卓の暗殺を謀る

皇甫嵩《こうほすう》

丁管

越騎校尉の伍俘

橋玄

許子将

呂伯奢

衛弘

公孫瓉

北平の太守

公孫越

王匡

方悦

劉表

蔡夫人

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

蒯良

劉表配下

蒯越《かいえつ》

劉表配下、蒯良の弟

黄祖

劉表配下

黄祖

陳生

劉表配下

張虎

劉表配下


蔡瑁《さいぼう》

劉表配下

呂公《りょこう》

劉表の配下

韓嵩《かんすう》

劉表の配下

牛輔

金を持って逃げようとして胡赤児《こせきじ》に殺される

胡赤児《こせきじ》

牛輔を殺し金を奪い、呂布に降伏するも呂布に殺される。

韓遂《かんすい》

并州《へいしゅう》の刺史《しし》

西涼の太守|馬騰《ばとう》と共に長安をせめる。

陶謙《とうけん》

徐州《じょしゅう》の太守

張闓《ちょうがい》

元黄巾族の陶謙の配下

何曼《かまん》

截天夜叉《せってんやしゃ》

黄巾の残党

何儀《かぎ》

黄巾の残党

田氏

濮陽《ぼくよう》の富豪

劉繇《りゅうよう》

楊州の刺史

張英

劉繇《りゅうよう》の配下


王朗《おうろう》

厳白虎《げんぱくこ》

東呉《とうご》の徳王《とくおう》と称す

厳与《げんよ》

厳白虎の弟

華陀《かだ》

医者

鄒氏《すうし》

未亡人

徐璆《じょきゅう》

袁術の甥、袁胤《えんいん》をとらえ、玉璽を曹操に送った

鄭玄《ていげん》

禰衡《ねいこう》

吉平

医者

慶童《けいどう》

董承の元で働く奴隷

陳震《ちんしん》

袁紹配下

龔都《きょうと》

郭常《かくじょう》

郭常《かくじょう》の、のら息子

裴元紹《はいげんしょう》

黄巾の残党

関定《かんてい》

許攸《きょゆう》

袁紹の配下であったが、曹操の配下へ

辛評《しんひょう》

辛毘《しんび》の兄

辛毘《しんび》

辛評《しんひょう》の弟

袁譚《えんたん》の配下、後、曹操の配下

呂曠《りょこう》

呂翔《りょしょう》の兄

呂翔《りょしょう》

呂曠《りょこう》の弟


李孚《りふ》

袁尚配下

王修

田疇《でんちゅう》

元袁紹の部下

公孫康《こうそんこう》

文聘《ぶんぺい》

劉表配下

王威

劉表配下

司馬徽《しばき》

道号を水鏡《すいきょう》先生

徐庶《じょしょ》

単福と名乗る

劉泌《りゅうひつ》

徐庶の母

崔州平《さいしゅうへい》

孔明の友人

諸葛均《しょかつきん》

石広元《せきこうげん》

孟公威《もうこうい》

媯覧《ぎらん》

戴員《たいいん》

孫翊《そんよく》

徐氏《じょし》

辺洪

陳就《ちんじゅ》

郄慮《げきりょ》

劉琮《りゅうそう》

劉表次男

李珪《りけい》

王粲《おうさん》

宋忠

淳于導《じゅんうどう》

曹仁《そうじん》の旗下《きか》

晏明

曹操配下

鍾縉《しょうしん》、鍾紳《しょうしん》

兄弟

夏侯覇《かこうは》

歩隲《ほしつ》

孫権配下

薛綜《せっそう》

孫権配下

厳畯《げんしゅん》

孫権配下


陸績《りくせき》

孫権の配下

程秉《ていへい》

孫権の配下

顧雍《こよう》

孫権配下

丁奉《ていほう》

孫権配下

徐盛《じょせい》

孫権配下

闞沢《かんたく》

孫権配下

蔡薫《さいくん》

蔡和《さいか》

蔡瑁の甥

蔡仲《さいちゅう》

蔡瑁の甥

毛玠《もうかい》

曹操配下

焦触《しょうしょく》

曹操配下

張南《ちょうなん》

曹操配下

馬延《ばえん》

曹操配下

張顗《ちょうぎ》

曹操配下

牛金《ぎゅうきん》

曹操配下


陳矯《ちんきょう》

曹操配下

劉度《りゅうど》

零陵の太守

劉延《りゅうえん》

劉度《りゅうど》の嫡子《ちゃくし》

邢道栄《けいどうえい》

劉度《りゅうど》配下

趙範《ちょうはん》

鮑龍《ほうりゅう》

陳応《ちんおう》

金旋《きんせん》

武陵城太守

鞏志《きょうし》

韓玄《かんげん》

長沙の太守

宋謙《そうけん》

孫権の配下

戈定《かてい》

戈定《かてい》の弟

張遼の馬飼《うまかい》

喬国老《きょうこくろう》

二喬の父

呉夫人

馬騰

献帝

韓遂《かんすい》

黄奎

曹操の配下


李春香《りしゅんこう》

黄奎《こうけい》の姪

陳群《ちんぐん》

曹操の配下

龐徳《ほうとく》

馬岱《ばたい》

鍾繇《しょうよう》

曹操配下

鍾進《しょうしん》

鍾繇《しょうよう》の弟

曹操配下

丁斐《ていひ》

夢梅《むばい》

許褚

楊秋

侯選

李湛

楊阜《ようふ》

張魯《ちょうろ》

張衛《ちょうえい》

閻圃《えんほ》

劉璋《りゅうしょう》

張松《ちょうしょう》

劉璋配下

黄権《こうけん》

劉璋配下

のち劉備配下

王累《おうるい》

王累《おうるい》

李恢《りかい》

劉璋配下

のち劉備配下

鄧賢《とうけん》

劉璋配下

張任《ちょうじん》

劉璋配下

周善

孫権配下


呉妹君《ごまいくん》

董昭《とうしょう》

曹操配下

楊懐《ようかい》

劉璋配下

高沛《こうはい》

劉璋配下

劉巴《りゅうは》

劉璋配下

劉璝《りゅうかい》

劉璋配下

張粛《ちょうしゅく》

張松の兄


冷苞

劉璋配下

呉懿《ごい》

劉璋の舅

彭義《ほうぎ》

鄭度《ていど》

劉璋配下

韋康《いこう》

姜叙《きょうじょ》

夏侯淵《かこうえん》

趙昂《ちょうこう》

楊柏《ようはく》

張魯配下

楊松

楊柏《ようはく》の兄

張魯配下

費観《ひかん》

劉璋配下

穆順《ぼくじゅん》

楊昂《ようこう》

楊任

崔琰《さいえん》

曹操配下


雷同

郭淮《かくわい》

曹操配下

霍峻《かくしゅん》

劉備配下

夏侯尚《かこうしょう》

曹操配下

夏侯徳

曹操配下

夏侯尚《かこうしょう》の兄

陳式《ちんしき》

劉備配下

杜襲《としゅう》

曹操配下

慕容烈《ぼようれつ》

曹操配下

焦炳《しょうへい》

曹操配下

張翼

劉備配下

王平

曹操配下であったが、劉備配下へ。

曹彰《そうしょう》

楊修《ようしゅう》

曹操配下

夏侯惇

費詩《ひし》

劉備配下

王甫《おうほ》

劉備配下

呂常《りょじょう》

曹操配下

董衡《とうこう》

曹操配下

李氏《りし》

龐徳の妻

成何《せいか》

曹操配下

蒋済《しょうさい》

曹操配下

傅士仁《ふしじん》

劉備配下

徐商

曹操配下


廖化

劉備配下

趙累《ちょうるい》

劉備配下

朱然《しゅぜん》

孫権配下


潘璋

孫権配下

左咸《さかん》

孫権配下

馬忠

孫権配下

許靖《きょせい》

劉備配下

華歆《かきん》

曹操配下

呉押獄《ごおうごく》

典獄

司馬孚《しばふ》

司馬懿《しばい》の弟

賈逵《かき》


曹植


卞氏《べんし》

申耽《しんたん》

孟達の部下

范疆《はんきょう》

張飛の配下

張達

張飛の配下


関興《かんこう》

関羽の息子

張苞《ちょうほう》

張飛の息子

趙咨《ちょうし》

孫権配下

邢貞《けいてい》

孫桓《そんかん》

孫権の甥

呉班

張飛の配下

崔禹《さいう》

孫権配下

張南

劉備配下

淳于丹《じゅんうたん》

孫権配下

馮習

劉備配下


丁奉

孫権配下

傅彤《ふとう》

劉備配下

程畿《ていき》

劉備配下

趙融《ちょうゆう》

劉備配下

朱桓《しゅかん》

孫権配下


常雕《じょうちょう》

曹丕配下

吉川英治


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