第87話、江夏
文字数 9,023文字
眼を転じて、南方を見よう。
呉は、その後、どういう推移と発展をとげていたろうか。
ここ数年を見較べるに――
曹操は、北方攻略という大事業をなしとげている。
玄徳のほうは、それに反して、逆境また逆境だったが、隠忍よく生きる道を見つけては、ついに孔明の出廬をうながし、孔明という人材を得た。
広大な北支の地を占めた曹操の業と、一箇の人物を野から見出した玄徳の収穫と、いずれが大きく、いずれが小さいか、この比較は、その結果を見るまでは、軽々しく即断はできない。
この間にあって、呉の発展は、あくまで文化的であり、内容の充実にあった。
何しろ、先主孫策のあとを継いで立った孫権は、まだ若かった。曹操より二十八も年下だし、玄徳とくらべても、二十二も若い当主である。
それと、南方は、天産物や交通にめぐまれているので期せずして、人と知識はここに集まった。文化、産業、ひいては軍需、政治などの機能が活溌な所以である。
時。――建安の七年頃だった。――すなわち孔明出廬のときよりさかのぼること六年前である。
美しい一艘の官船が
中央からの使者であった。
使者の一行は、呉会の
「まだご幼少にいらせられる由ですが、孫閣下のご長男を、このたび都へ召されることになりました。朝廷においてご教育申しあげ、成人の後は、官人となされたいお心からです。――もちろん帝の有難い思し召も多分にあることで」と、申し入れた。
ことばの上から見ると非常な光栄のようであるが、いうまでもなく、これは人質を求めているのである。
呉のほうでも、そこは知れきっていることだが、うやうやしく恩命を謝して、
「いずれ、一門評議のうえ、あらためて」
と、答えて、問題の延引策を取っていた。
その後も、度々、長子を
考えてみると、問題は、子ども一人のことではない。
そこで、呉会の
当時、呉下の智能はほとんど一堂に集まったといっていい。
張昭、
かの水鏡先生が、孔明と並び称して――
そのほか、
「いま曹操が、呉に人質を求めてきたのは、諸侯の例によるものである。質子を出すは、曹操に服従を誓うものであり、それを拒むことは、即敵対の表示になる。いまや呉は重大な岐路に立ち至った。いかにせばよいか、どうか、各位、
張昭が議長格として、まず席を起ち、全員へこう発言を求めた。
こもごもに起って、各自が、説くところ論じるところ、
となす者。
質子、送るべからず。
と、主張する者。
ようやく、会議は、二派にわかれ、討論果てしなく見えたが、
と、初めて彼が発言を求めた。
呉夫人の妹の子である周瑜は、先主
周瑜は、起立していう。
「……然り」
「そうだ。その時だ」
述べおわって、周瑜が、席へついても、しばらくは皆、感じ合ったまま、
意見は、完全に、一致を見た。無言のうちに、ひとつになっていた。
かくて、この問題は、呉の黙殺により、そのままになってしまった。が中央の威権は、いたく傷つけられたわけである。
曹操も、以来、使いを下してこなかった。――或る重大決意を、呉に対して抱いたであろうことは想像に難くない。
宣戦せざる宣戦――無言の国交断絶状態にはいった。
が、長江の水だけは、千里を通じている。
そのうちに。
建安八年の十一月ごろ。
孫権は、出征の要に迫られた。荊州の配下、
兵船をそろえ、兵を満載して、呉軍は長江をさかのぼってゆく。
その軍容はまさに、呉にのみ見られる壮観であった。
この戦では、初め江上の船合戦で、呉軍のほうが、絶対的な優勢を示していたが、将士共に、
「黄祖の首は、もう
と、あまりに敵を見くびりすぎた結果、陸戦に移ってから、大敗を招いてしまった。
もっとも大きな
ために、士気は
それは将軍凌操の子
孫権は、いち早く、
と、見たので、思いきりよく本国へ引揚げてしまったが、弱冠凌統の名は、一躍味方のうちに知れ渡ったので、
「まるで、凌統を有名にするために、戦いに行ったようなものだ」と、時の人々はいった。
翌九年の冬。
孫権の弟、
なにしろ、まだ若い上に、孫翊の性格は、短気で激越だった。おまけに非常な大酒家で、平常、何か気に入らないことがあると、部下の役人であろうと士卒であろうと、すぐ
丹陽の
しかし、
そこで二人は、一策を構え、呉主孫権に上申して、附近の山賊を討伐したい由を願った。
すぐ、許しが出たので、媯覧はひそかに、孫翊の大将
孫翊も、もちろん欠かせない会合であるから、時刻がくると、身仕度して、
と、妻へ声をかけた。
彼の妻は、
呉には美人が多いが、その中でも、容顔世に超えて、麗名の高かった女性である。そして、幼少から易学を好み、
この日も、良人の出るまえに、ひとり易を立てていたが、
しきりと、ひきとめた。
けれど孫翊は、
気にもかけず出かけてしまった。
評議から酒宴となって、帰館は夜に入った。大酒家の孫翊は、
すると、その辺洪をそそのかした媯覧、
と、辺洪を捕え、
辺洪は、仰天して、
と、
媯覧の悪は、それだけに止まらない。なお、べつな野望を抱いていたのである。
一方、孫翊の妻の
と、自分の
ふと、
先頭のひとりがいう。
見ると、刀を横たえた
兵をうしろに残して、ずかずかと十歩ばかり進んでくると、
恩きせがましく、こういって、
徐氏は一時茫然としていたが、軽く、腕を払って、
徐氏が涙を含まないのみか、むしろ
と、有頂天になって帰った。
底知れぬ悪党とは、媯覧のごときをいうのだろう、彼は
徐氏は、悲嘆のうちに、
そして、
忠義な郎党と、彼女が見抜いて打明けた者だけに、二人は悲涙をたたえて、亡君の恨み、誓って晴らさんものと、その夜を待っていた。
媯覧は、やって来た。――徐氏は化粧して
すこし酔うと、
媯覧は、本性をあらわして、徐氏の胸へ、剣を擬して強迫した。
徐氏は、ほほ笑んで、
徐氏は、ふいに、彼の剣の手元をつかんで、死物狂いに絶叫した。
と、躍りでた二人の忠僕は、媯覧のうしろから一太刀ずつあびせかけた。徐氏も奪い取った剣で敵の脾腹を突きとおした。そして初めて、
「仇の片割れ」と、その首を取って主君の夫人徐氏へ献じた。
徐氏はすぐ
と、誓った。
この騒動はすぐ呉主孫権の耳へ聞えた。孫権は驚いて、すぐ兵を率いて、丹陽に馳せつけ、
と、一類の者、ことごとく
また、弟の妻たる徐氏には、
と、禄地を添えて、郷里の家へ帰した。
江東の人々は、徐氏の
「呉の名花だ」と、語りつたえ、
歳は建安十三年に入った。
江南の春は芽ぐみ、朗天は日々つづく。
若い呉主孫権は、早くも衆臣をあつめて、
と酬いた。
いずれを採るか、孫権はまだ決しかねていた。
ところへ、
「――すぐ取囲んで、何者ぞと、
孫権を始め、諸将みな、重々しくうなずいた。
「いま、黄祖を討つ計を議するところへ、甘寧が数百人を率いて、わが領土へ亡命してきたのは、これ潮満ちて江岸の草のそよぐにも似たり――というべきか、天の時がきたのだ。黄祖を亡ぼす前兆だ。すぐ、甘寧を呼び寄せい」
こう孫権の命をうけ、
日ならずして、甘寧は、呉会の城に伴われてきた。
孫権は、群臣をしたがえて彼を見た。
孫権はまずいった。
拝礼して甘寧は答える。
「軍備は充実していますが、活用を知らず、
孫権はすぐ
周瑜を大都督に任じ、
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