第142話、矢傷と油断
文字数 9,426文字
雨はやんでも、洪水は容易に減水を示さなかった。龐徳が奮戦した岬には、その後、一基の墳墓が建てられた。彼の忠死をあわれんで関羽が造らせたものだという。
一方、その地方の大洪水は、当然、樊川にもつづいて、樊城の石垣は没し、壁は水びたしの有様となった。籠城久しきにわたって、疲れぬいていた城中の士気はいやが上にうろたえて、
「天、なんぞこの城にかくも
と、ただ自然を恨み、明日を
けれど、ただ一つの
その間に、城将の多くは、首将の曹仁をかこんで、評議の末、
「今はもう餓死か落城かの二途しかありません。むしろこの隙に夜中ひそかに舟を降ろし、城をすてて何処へなりとも一時御身を隠さるるが賢明かと思います」
と勧め、曹仁もその気になって、脱出の用意をしかけていた。
そう説明して、彼はまた曹仁のために、この際、処すべき道をあきらかにした。
満寵のことばは、曹仁の
と、それまでの敗戦主義を城中から一掃するため、諸将をあつめて訓示した。
曹仁は剣を抜いて、日頃自分の乗用していた白馬を両断にして、水中へ斬り捨てた。諸将はみな顔色を失って、
「かならず、城と運命を共にし、
と、異口同音に誓った。
果たしてその日頃から、徐々に水はひいてきた。城兵は生気をとりもどし、壁を
「いざ、来れ」
と、大いに士気を
二十日足らずののちに、洪水はまったく乾いた。関羽は、
時に、次男の
と、使いを命じて、成都へやった。
この理由を知っているのは、関平そのほか、ごく少数の幕僚だけだった。
今も、その関平や
「……何にしても、全軍の死命に
「一時の無念は忍んでも、ひとたび軍を荊州へかえし、万全を期して、出直すことがよいと考えられるが」
「……どうも困ったことではある」
沈痛にささやき交わしていた。
ところへ一名の参謀があわただしく営の奥房から走ってきて、
「羽大将軍のお下知である。――明日暁天より総攻撃を開始して、是が非でも、あすのうちに、樊城を占領せん。自身出馬する。各陣へ旨を伝え、怠りあるなかれ――との仰せです」
と、伝えてきた。
「えっ、総攻撃を始めて、戦場へ立たれると?」
人々は
「今日はご気分いかがですか」
と、恐る恐る帳中を伺った。
関羽は席に坐していた。骨たかく顔いろもすぐれず、眼のくぼに青ぐろい疲れがうかがわれるが、音声は常と少しも変ることなく、
「只今、お下知は承りましたが、皆の者は、ご病体を案じ、もうしばし、ご養生の上になされてはと、お諫めに出た次第です」
「お元気を拝して、一同、意を強ういたしますが、いかなる英傑でも、病には勝てません。先頃からご容態を拝察するに、
黙然と聞いていた関羽は、やおら座をあらためて、王甫のことばを抑えた。
人々は、一言もなく、そこを退がったが、憂いはなお深い。その夜、関羽はまた、大熱を発し、終夜、痛み苦しんだ。
総攻撃も、ために自然沙汰やみになった。
王甫や関平は、諸方へ人を派して、
「名医はないか」と、
するとここに風来の一旅医士が童子一名をつれ、小舟にのって、呉の国のほうから漂い着いた。
江岸監視隊の一将が、華陀を連れて、関平の所へ来た。
「この旅医者は、呉の国から来たと申しますが、先頃より諸州へ医師をお求めになっておる折から、或いはお役に立つかも知れぬと存じて連れ参りましたが」
関平はよろこんで、ともあれ自分の幕舎へ迎え、まず鄭重にたずねた。
華陀を伴って、彼は父の帳中へ行った。折しも関羽は馬良をあいてに
衣服を
二人とも碁に熱中していて、華陀の顔すら振り向かない。――が華陀は、関羽のうしろへ寄って、肌着の袖口をめくりあげ、じっと臂の傷口を
侍側の諸臣はみな眼をみはった。瘡口はさながら
関羽は初めて華陀の顔を振り向きながら、
と、たずねた。
華陀は自信をもって、
と、片臂を
と、訊いた。華陀は答えて、
鉄環を
華陀は
ようやく終ると、酒をもって洗い、糸をもって瘡口を縫う。華陀の額にもあぶら汗が浮いていた。
手術をおえて退がると、
関羽は百金を包んで華陀に贈った。華陀は手にも取らない。
飄然とまた小舟に乗って、江上へ去ってしまった。
その頃、魏王宮を中心とし、
早馬、また早馬。それがみな
魏王宮ではきょうもその事について大会議が開かれていた。この会議でも、関羽の名を恐れおびえた人々は、早くも魏王宮の遷都説まで叫んだが、
と、
司馬懿仲達と共に、丞相府の主簿をしている
曹操は、ただ弁舌の士のみ
すなわちそのために、
(呉が呼応するときまったら、すぐ関羽軍へ攻めかかれ)
徐晃軍は、命をふくんでそこに待機し、満をじすの形をとっていた。
魏の急使は、呉の主都、建業に着いて、いまや呉の
建業城中の評議はなかなか一決しない。呉にとっても重大な岐路である。のみならず呉はひそかに先頃から魏の繁忙をうかがって、このときに江北の徐州を奪ってしまうべきでないかと考えていた所である。――が、曹操から内示してきた条件もなかなかいい。
(関羽を攻めて荊州を
そこに大きな迷いがある。
ところへ、上流
孫権は招いてすぐ訊ねた。
呂蒙は作戦上にも、なお固く必勝の信念を抱いているらしく陳じた。
孫権は後でいった。すなわちこの間に呉の対魏問題も、時局方針も一決したものとみられる。
呂蒙は再び
――というのは、沿岸二十里おき三十里おきの要所要所に、
予想外な関羽の要心なので、呂蒙はそれを探り知ると、ひどく舌打ち鳴らして、
と、その日から
動くべき筈の陸口の兵が、依然うごかずにいるのみか、呂蒙が病にかかって一切人に顔も見せないでいる――という噂に、建業にある孫権も甚だしく心配した。
と、いいつけた。陸遜は命をうけると、
と、云って出た。彼はすでに呂蒙の心を読みぬいていたのである。
が、陸口に着いてみると、呂蒙はほんとに病閣を閉じていた。陣中、寂として、将士も憂いに沈んでいる。
陸遜は、呂蒙に会うと、にやにや笑いながら云った。
「いや君命に依って、閣下を診察にきたのだ。それがし不才なりといえども、先頃、将軍が建業に来られた時に、すでに胸中を察しておった。以後、現地に帰るとすぐ、呉侯のご期待を裏切って、急にご病気になったのは、思うに、荊州の防衛が全然将軍の予想に反していたためではありませんか」
呂蒙はむくむくと起き出して、急にあたりを見まわした。
「すでに閣下の胸三寸にもおありでしょうが、要するに、関羽が油断しないのは、陸口の堺に、あなたのような呉でも随一といわれる将軍が
だが彼の才幹は呉侯も日頃から愛していたところだし、呂蒙はなおさら深く観てその将来に
ふたりは同船して、ふたたび呉の建業へ帰り、呉侯孫権にまみえて、荊州の実状を詳しく告げた。あわせて呂蒙は、自分の仮病は敵方に対する当面の一
「むかし
「ですから、それを兼備したものが、陸遜であると私は申し上げます。ただ陸遜に足らないものは地位、名声、年齢などでありますが、彼の名がまだ内外に知られていないことがむしろ好条件というべきで、陸遜以上に有能の聞えある大将が代って行ったのでは、関羽を
呉侯と彼のあいだにそんな内輪ばなしがあってから間もなく、陸遜は一躍、
陸遜はいくたびも辞したが、孫権は聴許せず、馬一頭、錦二段、酒肴を贈って、
と、
ぜひなく陸遜は任へ着いた。任地へ到ると彼はすぐ礼物に書簡をのせて、関羽の陣へ使いを立て、
(以後よろしく)と、新任の挨拶を申し送った。
使者を前において、関羽はたいへん笑った。――
以後荊州の守りは安し。祝着祝着、と独り悦に入りながらしきりに笑っていたというのである。帰ってきた使者の口からそのときの模様をそう聞いて、陸遜もまた、同じように、
と、かぎりなく歓んだ。
その後、陸遜は、わざと軍務を怠り、ひたすらじっと関羽の動静をうかがっていると果たして、関羽はようやく
と、陸遜はその由を、すぐ建業へ急報した。
孫権はまた、その報を手にするや、時を移さず呂蒙を招いて、
と命じ、後陣の副将として、自身の弟、
三万の精兵は、一夜のうちに、八十余艘の
そのうち十艘ほどは、商船仕立てに装い、商人
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