第149話、二人の皇帝
文字数 5,562文字
また夏の六月には、魏王
沿道の官民は、道を
「高祖が
と、祝し合った。
が、曹丕の滞留はひどく短く、
曹丕もつぶやいたが、臣下も少し気に病んでいたところが、八月以降は、ふしぎな吉事ばかりが続いた。
「
侍者が、こう取次いで曹丕をよろこばせたと思うと、幾日か経って、
「
するとまた、秋の末頃、
おかしいことには、その噂と同時に、魏の
「いま、上天
と、勝手な理窟をつけて、しかも帝位を魏に奪う大陰謀を、公然と議していたのである。
侍中の
「いや、諸員の思うところは、かねてわれらも心していたところである。先君武王のご遺言もあること、おそらく魏王におかれてもご異存はあるまい」
三重臣のことばも、符節を合わせたように一致していた。麒麟の出現も、鳳凰の舞も、この口ぶりからうかがうと、遠い地方に現れたのではなく、どうやらこれら重臣たちの額と額の間から出たものらしく思われる。
が、
王朗、
「畏れ多いことですが、もう漢朝の運気は尽きています。御位を魏王に
と、伏奏した。いや、
献帝はまだ
およそ天の恵福の薄かったことは、東漢の歴代中でも、この献帝ほどの方は少ないであろう。そのご生涯は
しかも今また、魏の臣下から、臣下としてとうてい口にもすべきでないことを
帝ももとより、そのようなことを、即座に承諾になるわけはないが、それにあらがえる力も無く。
曹丕は、八
天地の諸声をあざむく奏楽が同時に耳を
曹丕、すなわち魏帝は、
と宣し、また年号も、黄初元年とあらためた。
故曹操にはまた「
ここにお気のどくなのは献帝である。魏帝の使いは仮借なく居を訪れて、
「
という刻薄な沙汰をつたえた。公はわずかな旧臣を伴って、一頭の
曹丕が大魏皇帝の位についたと伝え聞いて、蜀の成都にあって劉備は、
と、悲憤して、日夜、世の
都を
内外の経策から蜀の前途にたいする憂いまで、孔明の胸には案じても案じきれないほどな問題が積っていた。
だが劉備は六十一。彼はまだ四十一の若さであった。加うるに隠忍よく耐える人である。百
後漢の朝廷が亡んだ翌年の三月頃である。襄陽の
「夜、
黄金の印章であった。
孔明はひと目見るやたいへん驚いて、
「これこそ、ほんとうの伝国の
彼は、
「それこそ、漢朝の宗親たるわが君が、進んで漢の正統を継ぐべきであると、天の啓示されたものにちがいない」と云い
「そういえば近頃、成都の西北の天に、毎夜のごとく、
と、説いたりした。
ある日、彼は諸臣とともに、漢中王の室へ伺候して、
と、帝立の議をすすめた。
劉備は、
と、ひどく怒った。
孔明は、襟を正して、
どうしても劉備はききいれないのであった。
孔明は黙然と退出した。
そして、そのことから後、病と称して、政議の席にも、一切、顔を出さなくなった。
劉備は心配しだした。ついに耐え難く思ったものか、一日、彼はみずから孔明の邸を訪うて、その病を親しく見舞った。
孔明は
孔明のことばは沈痛を極めた。また彼のことばには裏にも表にも
元来、彼は非常に名分を尊ぶ人である。世の
「よくわかった。予の思慮はまだ余りに小乗的であったようだ。予がこのまま黙っていたら、かえって、魏の
劉備はそう約して帰った。
数日のうちに、孔明はもう明るい眉を蜀営の政務所に見せていた。
建安二十六年の四月。成都は、成都が開けて以来の盛事に賑わった。大礼台は
(章武元年となす)
という改元のことも発布され、また国は、
(
と定められた。
大魏に大魏皇帝立ち、大蜀に大蜀皇帝が立ったのである。天に二
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