第97話、蒋幹の暗躍

文字数 14,326文字

 ――こうした南方の情勢一変と、孔明の身辺に一抹の凶雲がまつわって来つつある間に、一方、江夏(こうか)の劉備は、そこを劉琦(りゅうき)の手勢に守らせて、自身とその直属軍とは、夏口(かこう)(漢口)の城へ移っていた。

 彼は、毎日のように、樊口(はんこう)の丘へ登って、

「孔明は如何にせしか」
 と、長江の水に思慕を託し、また仰いでは、
「呉の向背や如何に?」

 と、江南の雲に安からぬ眸を()らしていた。

 ところへ、近頃、遠く物見に下江(くだ)って行った一艘が帰帆してきて、劉備に告げることには、

「呉はいよいよ魏軍へ向って開戦しました。数千の兵船が、舳艫(じくろ)をならべて遡航(そこう)しつつあるとのこと。また、三江の江岸一帯、前代未聞の水寨(すいさい)を構築しています。さらに、北岸の形勢をうかがうに、魏の曹操は、百万に近い大軍をもって、江陵、荊州地方から続々と行動を起し、水陸にかけて真黒な大軍団が、夜も昼も、南へ南へと移動しつつあります」と、あった。

 劉備はその報告の半ばまで聞かないうちに、もう脈々たる血のいろを面にあらわし、

「孔明の策成れり」


 と歓び勇んだ。

 元来、劉備は、よほどなことがあっても、そう欣舞雀躍(きんぶじゃくやく)はしない性である。時によると、うれしいのかうれしくないのか、侍側の者でも、張合いを失うほどすこぶるぼうとしていることなどある。

 だが、この時は、よほど内心うれしかったようである。すぐ夏口の城楼に、臣下をあつめて、

「すでに、呉は起ったのに、今もって、孔明からは何の消息もない。誰か、江を下って、呉軍の陣見舞いにおもむき、孔明の安否を探ってくる者はないか」

 糜竺(びじく)がすすんで望んだ。


「不才ながら、てまえが行って来ましょう」


「そちが行ってくれるか」


 糜竺はもともと外交の才があり臨機の智に富んでいる。彼は山東の一都市に生れ、家は郯城(たんじょう)きっての豪商であった。――いまは遠い以前となったが、劉備が旗挙げ早々、広陵(こうりょう)(江蘇省・揚州市)のあたりで兵員も軍用金も乏しく困窮していた頃――商家の息子たる糜竺は、劉備の将来を見こんで、その財力を提供し、兵費を(まかな)い、すすんで自分の妹を、劉備の室に入れ、以来、今日にいたるまで、もっぱら劉備軍の財務経理を担当して来たという帷幕(いばく)の中でも一種特異な人材であった。

「そちが行ってくれれば申分はない。頼むぞ」


 安心して、劉備は彼をやった。糜竺はかしこまって、直ちに、一帆の用船に、薫酒(くんしゅ)、羊肉、茶、そのほか沢山な礼物を積んで、江を下った。

 呉陣の岸について、番の隊将に旨をつたえ、すぐ本営に行って周瑜(しゅうゆ)と会った。


「これは、ねんごろな陣見舞いを」


 と、周瑜は快く品々をうけ、また使い糜竺をもてなしはしたが、


「どうか、ご主君(りゅう)予公へ、よろしくお伝え賜りたい」


 と、どこかよそよそしく、孔明のうわさなどには、一切ふれてこなかった。

 翌日、また次の日と、会談は両三回に及んだが、周瑜(しゅうゆ)はいつも、話題の孔明に及ぶことを避けていた。

 糜竺(びじく)は三日目の朝、暇を告げに行った。すると、周瑜は初めて、

「孔明もいまわが陣中にあるが、共に曹操を討つには、ぜひ一度、劉予公も加えて、緊密なる大策を議さねばなるまいかと考えておる。――幸いに、劉備どのが、こちらに来会してくれれば、これに越したことはないが」

 と、いった。

 糜竺は、畏まって、

「何と仰せあるか分りませんが、ご意向の趣は、主君劉予州にお伝えしましょう」


 と約して帰った。

 魯粛はそのあとで、


「何のために、劉備を、この陣中へお招きになるのですか」


 と、周瑜の意中をいぶかって訊ねた。すると、周瑜は、


「もちろん殺すためだ」

 と、平然と答えた。

 孔明を除き、劉備を亡き者にしてしまうことが、呉の将来のためであると、周瑜はかたく信じているらしいのである。その点、魯粛の考えとは非常に背馳(はいち)しているけれど、まだ曹操との一戦も開始しないうちに、味方の首脳部で内紛論争を起すのもおもしろくないことだし、先は、大都督の権を以てすることなので、魯粛も、

「さあ、どういうものですかな」


 と、口をにごす程度で、あえて、強い反対もしなかった。

 一方、夏口にある劉備は、帰ってきた糜竺の口から委細を聞いて、


「では自身、さっそく呉の陣を訪ねて行こう」


 と、船の準備をいいつけた。

 関羽をはじめ諸臣はその軽挙を危ぶんで、


「糜竺が行っても孔明に会わせない点から考えても、周瑜の本心というものは、多分に疑われます。(てい)よく、返書でもおやりになっておいて、もう少し彼の旗色を見ていてはいかがですか」


 と、諫めたが、劉備は、


「それでは、せっかく孔明が使いして実現した同盟の意義と信義にこちらから(そむ)くことになろう。それに、戦が始まる前に味方を害するような、まねは、すまい」

 といってきかない。

 趙雲、張飛は、留守を命ぜられ、関羽だけが供をして行った。

 一船の随員わずか二十余名、ほどなく呉の中軍地域に着いた。

 江岸の部隊からすぐこの由が本陣の周瑜に通達された。――来たか! というような顔色で、周瑜は番兵にたずねた。

「劉備は、どれほどな兵を連れてやって来たか」


「従者は二十人ぐらいです」


「なに二十人」


 周瑜は笑って、


(わが事すでに成れり!)


 と、胸中でつぶやいていた。

 ほどなく、劉備の一行は、江岸の兵に案内されて、中軍の営門を通ってきた。周瑜は出て、賓礼(ひんれい)を執り、帳中に(しょう)じては劉備に上座を譲った。


「初めてお目にかかる。わたくしは劉備玄徳。将軍の名はひとり南方のみではなく、かねがね北地にあっても雷のごとく聞いていましたが、はからずも今日、拝姿を得て、こんな愉快なことはありません」


 劉備が、まずいうと、


「いやいや、まことに、区々たる不才。劉皇叔の御名こそ、かねてお慕いしていたところです。陣中、何のご歓待もできませんが」


 と、型のごとく、酒宴にうつり、重礼厚遇、至らざるなしであった。

 その日まで、孔明は何も知らなかったが、ふと、江岸の兵から、今日のお客は、夏口の劉皇叔であると聞いて、


「さては?」


 と、(おどろ)きをなして、急に、周瑜(しゅうゆ)の本陣へ急いで行った。――そして帳外にたたずみ、ひそかに主客の席をうかがっていた。

 本来、この席へ招かれていいわけであるが、孔明には、劉備が来たことすら、聞かされていないのである。

 以て、周瑜の心に、何がひそんでいるか、察することができる。

 (とばり)の外から宴席の模様をうかがっていた孔明の気持ちは、まさにわが最愛の親か子が、猛獣の(おり)に入っているのをのぞいているような不安さであった。

 ――が、劉備は、いかにも心やすげに、周瑜と話しているふうだった。

 ――ただ、その背後(うしろ)には、剣を把って、守護神の如く突っ立っている関羽が見える。――孔明はそれを見て、


「関羽があれに侍立しているからは……」


 と、少し安心して、そっと屋外へ出ると、飄然(ひょうぜん)、江岸にある自分の仮屋のほうへ立ち去った。

 よもや、孔明がついこの席の外にたたずんでいるとも知らない劉備は、周瑜との雑談の末、軍事に及び、ようやく話も打ち解けてきたので、そばにいた魯粛(ろしゅく)をかえりみて、


「時に、臣下の孔明が、久しくご陣中に留っておるそうですが、ちょうどよい折、これへ呼んでいただけますまいか」

 と、いってみた。

 すると、周瑜がすぐ返事を()って、

「それは造作もないことだが、どうせ一戦は目前に迫っておること。曹操を破って後、めでたく祝賀の一会という時に、お会いになったらいいではないか」

 と、すぐ話をわきへそらし、ふたたび、曹軍を討つ軍略や手配などを、しきりに重ねて云い出した。

 関羽は、主君の(たもと)をひいて、うしろからそっと眼くばせした。――そのことに触れないほうがご賢明ですよ、と注意するのであった。劉備もすぐさとって、


「そうですな。では今日の御杯も、これくらいでお預けしておきましょう。いずれ、曹操を討ち破った上、あらためて祝賀のお慶びに出直すとして――」

 と、うまく席を立つ機をつかんで別れた。

 余りにあざやかに立たれてしまったので、周瑜もいささかまごついた形だった。実は、劉備を酔わせ、関羽にも追々酒をすすめて、この堂中を出ぬまに、刺殺(しさつ)してしまおうと、四方に数十人の剣士力者を忍ばせておいたのであった。

 それを、つい、うまく座をはずされてしまったので、合図するいとますらなく、周瑜も倉皇と、轅門(えんもん)の外まで見送りに出て、空しく客礼ばかりほどこしてしまった。

 馬に乗って、本陣を去ると、劉備は、関羽以下二十余人の従者を具して、飛ぶが如く、江岸まで急いできた。

 ――と、水辺の楊柳の蔭から手をあげて、

「ご主君、おつつがもなく、お帰りでしたか」

 と、呼ぶ人がある。

 見れば、懐かしや、孔明ではないか。劉備は馬の背から飛び降りて、

「おお、孔明か」

 と、駈け寄り、相抱いて、互いの無事をよろこんだ。

 孔明は、その歓びを止めて、

「私の身はいま、その(かたち)においては、虎口の危うき中にいますが、しかし安きこと泰山の如しです。決してご心配くださいますな。――むしろこの先とも、お大事を期していただきたいのは、わが君の行動です。来る十一月の二十日は、まさしく甲子(きのえね)にあたります。お忘れなく、その日は、ご麾下趙雲(ちょううん)に命じて、軽舸(はやぶね)を出し、江の南岸にあって、私を待つようにお備えください。いまは帰らずとも、孔明は必ず東南の風の吹き起る日には帰ります」
「先生、どうして今から、東南の風の吹く日が分りますか」
「十年、隆中の岡に住んでいた間は、毎年のように、春去り、夏を迎え、秋を送り、冬を待ち、長江の水と空ゆく雲をながめ、朝夕の風を測って暮していたようなものですから、それくらいな観測は、ほぼはずれない程度の予見はつきます。――おお、人目にふれないうちに、わが君には、お急ぎあって」

 と、孔明は、主君を船へせきたてると、自分も忽然(こつねん)と、呉の陣営のうちに、姿をかくしてしまった。


 孔明に別れて、船へ移ると、劉備はすぐ満帆を張らせて、江をさかのぼって行った。

 進むこと五十里ほど、彼方に一群の船団が江上に陣をなしている。近づいて見れば、自分の安否を気づかって迎えにきた張飛と船手の者どもだった。

「おおよくぞ、おつつがなく」


 一同は、無事を祝しながら、主君の船を囲んで、夏口へ引揚げた。

 劉備の立ち帰った後――呉の陣中では、周瑜が、掌中の珠を落したような顔をしていた。

 魯粛は、意地わるく、わざと彼にこういった。

「どうして都督には、今日の機会を、みすみす逸して、劉備を生かして帰してしまわれたのですか」


 周瑜は自分の不機嫌を、どうしようもない――といったように、


「始終、関羽が劉備のうしろに立って、此方が杯へやる手にも、眼を離さず睨んでおる。下手をすれば、劉備を殺さないうちに、こっちが関羽に殺されるだろう。何にしても、あんな猛犬が番についていたんでは、手が出せんさ」


 噛んで吐き出すような返事であった。魯粛はむしろ呉のために、彼の計画の失敗したことを歓んでいた。

 この事あってからまだ幾日も経たないうちのことである。

「魏の曹操から書簡をたずさえて、江岸まで使者の船が来ましたが?」とのしらせに、


「通せ。――しかし曹操の直書か否か、その書簡から先に示せといえ」


 と、周瑜は、帷幕にあって、それを待っていた。

 やがて、取次ぎの大将の手から、うやうやしく彼の前へ一書が捧げられた。書簡は皮革をもって封じられ、まぎれもない曹操の親書ではあった。

 ――けれど周瑜は、一読するや否、面に激色をあらわして、


「使者を逃がすな」

 と、まず武士に云いつけ、書簡を引き裂いて、立ち上がった。

 魯粛が、驚いて、

「都督、なんとされたのです」


 と、訊くと、周瑜は、足もとへ破り捨てた書簡の断片を、足でさしながら罵った。


「それを見るがいい。曹賊め、自分のことを、漢大丞相(かんのだいじょうしょう)と署名し、周都督に付するなどと、まるで此方を臣下あつかいに(したた)めておる」

「すでに充分、敵性を明らかにしている曹操が、どう無礼をなそうと、怒るには足らないでしょう」


「だから此方も、使者の首を刎ねて、それに答えてやろうというのだ」


「しかし、国と国とが争っても、相互の使いは斬らないというのが、古来の法ではありませんか」


「なんの、戦争に入るに、法があろうか。敵使の首を刎ねて、味方の士気をふるい、敵に威を示すは、むしろ戦陣の慣いだ」


 云いすてて帳外へ濶歩して行った。周瑜は、そこへ使者を引き出させて、何か大声で罵っていたが、たちまち剣鳴(けんめい)(かつ)、首を打ち落して、


「従者。使いの従者。この首はくれてやるから、立ち帰って、曹操に見せろ」

 と、供の者を追い返した。

 そして、直ちに、

「戦備にかかれ」

 と、水、陸軍へわたって号令した。

 甘寧(かんねい)を先手に、蒋欽(しょうきん)韓当(かんとう)を左右の両翼に、夜の四更に兵糧をつかい、五更に船陣を押しすすめ、弩弓(どきゅう)、石砲を懸連(かけつら)ねて、「いざ、来れ」と、待ちかまえていた。

 果たせるかな曹操は、使者の首を持って逃げ帰ってきた随員の口々から、云々(しかじか)と周瑜の態度を聞きとって、

「そうか」
 と、最後の(ほぞ)をかため、水軍大都督の蔡瑁(さいぼう)張允(ちょういん)を召し出して、
「まず、周瑜の陣を破れ、しかる後に、呉の全土を席巻せん」

 と、いいつけた。

 江上は風もなく、四更の波も静かだった。時、建安十三年十一月。荊州(けいしゅう)降参の大将を船手の先鋒として、魏の大船団は、三江をさして、徐々南下を開始していた。

 夜は白みかけたが、濃霧のために水路の視野もさえぎられて、魏の艨艟(もうどう)も、呉の大船陣も、互いに、すぐ目前に迫りあうまで、その接近を知り得なかった。

「おうっ、敵の船だっ」

「かかれっ」

 突如として、魏の兵船は、押太鼓を打ち鳴らしながら、白波をあげて、呉船の陣列を割ってきた。

 時に、呉の旗艦らしい一艘の(みよし)に立って、一名の大将が、大音をあげて魏船(ぎせん)の操縦のまずさを嘲った。

「荊州の蛙、北国の(いたち)どもが、人真似して軍船に乗りたる図こそ笑止なれ。水上の戦とは、こうするものだぞ。冥土の土産にわが働きを見て行くがいい」


 と、まず船楼に懸け並べた弩弓(どきゅう)(つる)を一斉に切って放った。

 曹軍の都督蔡瑁(さいぼう)は、人もなげな敵の豪語に、烈火のごとく怒って自ら舳に行こうとすると、すでに弟の蔡薫(さいくん)が、そこに立って、敵へ云い返していた。

「龍頭の漁夫、名はないのか。われは大都督の舎弟蔡薫だ。遠吠えをやめて、船を寄せてこい。一太刀に斬り落して、魚腹へ葬ってくれるから」

 すると、遠くで、


甘寧(かんねい)を知らないのは、いよいよ水軍の(もぐ)りたる証拠だ。腰抜けな荊州蛙の一匹だろう。大江の水は、井の中とはちがうぞ」


 罵るやいな、甘寧は自身、石弩(せきど)(つる)を引きしぼって、ぶんと放った。

 数箇の石弾は、うなりを立てて飛んで行ったが、その一弾が、蔡薫の(おもて)をつぶした。あっと、両手で顔をおおったとき、また一本の矢が、蔡薫の首すじに突っ立ち、姿は真逆さまに、舳を噛む狂瀾の中に呑まれていた。

 まだ舷々(げんげん)相摩(あいま)しもせぬ戦の真先に、弟を討たれて、蔡瑁(さいぼう)は心頭に怒気を燃やし、一気に呉の船列を粉砕せよと声をからして、将楼から号令した。

 靄はようやくはれて、両軍数千の船は、陣々入り乱れながらも、一艘もあまさず見ることができる。真赤に昇り出ずる陽と反対に、大江の水は逆巻き、咬みあう黒波白浪、さけびあう疾風飛沫、物すさまじい狂濤石矢(きょうとうせきし)の大血戦はここに展開された。

 蔡瑁を乗せている旗艦を中心として、一隊の縦隊船列は、深く呉軍の中へ進んで行ったが、これは水戦にくらい魏軍の主力を、巧みに呉の甘寧が、味方の包囲形のうちに誘い入れたものであった。

 頃を計ると――

 たちまち、左岸から韓当の一船隊、右岸から蒋欽(しょうきん)の一船群、ふた手に、白い水脈をひきながら、敵の主力を捕捉し、ほとんど、前後左右から、鉄箭石弾(てっせんせきだん)の烈風を見舞った。

 ずたずたに帆は破れ、船は傾き、魏の船団は一つ一つ崩れだした。船上いっぱい、(あけ)となって、船が人力を離れて、波のまにまに漂いだすのを見ると、

「それっ、あれへ」

 と、呉の船は、その鋭角を、敵の横腹へぶつけて、たちまち()()微塵(みじん)とするか、或いは飛び移って、皆殺しとなし、それを焼き払った。

 こうして、主力が叩かれたため、後陣の船は、まったく個々にわかれて、岸へ乗りあげてしまうもあるし、拿捕(だほ)されて旗を降ろすもあるし、そのほかは、帆を逆しまに逃げ出して、さんざんな敗戦に終ってしまった。

 甘寧は、鐘鼓(しょうこ)を鳴らして、船歌高く引きあげたが、戦がやんでも、黄濁な大江の水には、破船の旗やら、焼けた(かじ)やら、無数の死屍(しし)などが、洪水のあとのように流れていた。

 そのたくさんな戦死者は、ほとんど魏の将士であった――かくとその日の戦況を耳にした曹操の顔色には、すこぶる穏やかならぬものがあった。

「蔡瑁を呼べ。副都督の張允(ちょういん)も呼んでこい」


 大喝(だいかつ)、何が降るかと、召し呼ばれた二人のみか、侍側の諸将もはらはらしていた。

 敗戦の責任を問われるものと察して、蔡瑁(さいぼう)張允(ちょういん)の二人は、はや顔色もなかった。

 恟々(きょうきょう)として、曹操の前へすすみ、かつ百拝して、このたびの不覚を陳謝した。

 曹操は、厳として云った。

「過ぎ去った愚痴を聞いたり、また過去の不覚を(とが)めようとて、其方たちを呼んだのではない。――要は、将来にある。かさねて敗北の恥辱を招いたら、その時こそ、きっと、軍法に正してゆるさんが、この度だけはしばらく免じておく」


 意外にも、寛大な云い渡しに、蔡瑁は感泣してこういった。


「もとより、味方敗軍の責めは、われらの指揮の至らないためにもありますが、もっとも大きな欠陥は、荊州の船手の勢が総じて調練の不足なのに比して、呉の船手は、久しく鄱陽湖(はようこ)を中心に、充分、錬成の実をあげていたところにあります。――加うるにお味方の北国兵は、水上の進退に馴れず、呉兵はことごとく幼少から水に馴れた者どもばかりですから、江上の戦においても、さながら平地と異ならず、ここにも多分な弱点が見出されます」

 それは曹操も感じていることだった。しかし、この問題は、兵の素質と、長日月の訓練にあることなので、急場には如何ともすることができないのである。


「では、どうするか」
 との問いに、蔡瑁は次のような献策をもって答えた。
「攻撃を止めて、守備の(たい)をとることです。渡口を固め、要害を擁し、水中には遠くにわたって水寨を構え、一大要塞としておもむろに、敵を誘い、敵の虚を突き、そして彼の疲れを待って、一挙に、下江を(はか)られては如何(いかが)でしょう」

「ムム、よかろう。其方両名には、すでに水軍の大都督を命じてあるのだ。よしと信じることならいちいち計るには及ばん、迅速にとり行え」


 こういうことばの裏には、曹操自身にも、水上戦には深い自信のないことがうかがえるのである。両都督の責めを間わず、罪をゆるして励ましたのも、一面、それに代るべき水軍の智嚢がなかったからであるといえないこともない。

 いずれにせよ蔡瑁、張允のふたりは、ほっとして、軍の再整備にかかった。まず北岸の要地に、あらゆる要塞設備を施し、水上には四十二座の水門と、蜿蜒(えんえん)たる寨柵(さいさく)を結いまわし、小船はすべて内において交通、連絡の便りとし、大船は寨外に船列を布かせて、一大船陣を常備に張った。

 その規模の大なることは、さすがに魏の現勢力を遺憾なく誇示するものだったが、夜に入ればなおさら壮観であった。約三百余里にわたる要塞の水陸には(かがり)、煙火、幾万幾千燈が燃えかがやいて、一天の星斗(せいと)()がし、ここに兵糧軍需を運送する車馬の響きも絡繹(らくえき)と絶えなかった。

「近頃、上流にあたる北方の天が、夜な夜な真赤に見えるが、あれは(そも)、何のせいか」


 南岸の陣にある呉の周瑜は、怪しんで或る時、魯粛(ろしゅく)にたずねた。


「あれは、曹操が急に構築させた北岸の要塞で、毎夜、旺に焚いている篝や燈火(ともしび)が雲に映じているのでしょう」


 魯粛が、さらに、くわしく説明すると、周瑜はこのところ甘寧(かんねい)大捷(たいしょう)に甘んじて、曹軍怖るるに足らずと、大いに(おご)っていたところであったが、急に不安を抱いて、いちど要塞の規模を自身探ってみようと云いだした。


「敵を知るは、戦に勝つ第一要諦だ」


 と称して、一夜、周瑜はひそかに一船に乗りこみ、魯粛、黄蓋(こうがい)など八名の大将をつれて、曹軍の本拠を偵察に行った。

 もちろん危険な敵地へ入るわけなので、船楼には、二十(ちょう)の弩弓を張って、それぞれ弩弓手を配しておき、姿は、幔幕(まんまく)をめぐらしておおい隠し、周瑜や魯粛などの大将たちは、わざと鼓楽を奏して、敵の眼をくらましながら、徐々、北岸の水寨へ近づいて行った。

 星は暗く、夜は更けている。

 船は、石の(いかり)をおろし、ひそかに魏の要塞を、偵察していた。

 水軍の法にくわしい周瑜(しゅうゆ)も、四十二座の水門から寨柵、大小の船列、くまなく見わたして、

「いったい、こんな構想と布陣は、誰が考察したのか」


 と、舌を巻いて驚いた。

 魯粛は、


「もちろん荊州降参の大将、蔡瑁、張允の二人です。彼らの智嚢は、決して見くびったものではありません」

 と、いった。

 周瑜は、舌打ちして、

「不覚不覚。今日まで、曹操のほうには、水軍の妙に通じた者はないと思っていたが、これはおれの誤認だった。蔡瑁、張允を殺してしまわないうちは、水上の戦いだからといって、滅多に安心はできないぞ」


 語りながら、なお船楼の(とばり)のうちで、酒を酌み、また(いかり)を移し、彼方此方(あなたこなた)、夜明けまではと、探っていた。

 ――と、早くも、魏の監視船から、このことは、曹操の耳に急達されていた。何の猶予やあらんである。それ捕擒(とりこ)にせよとばかり、水寨の内から一陣の船手が追いかけてきた。

 けれど、周瑜(しゅうゆ)の船は、いち早く逃げてしまった。水流にまかせて下るので船脚はいちじるしく早い。遂に、取逃がしたと聞いて、翌朝、曹操はひどく鋭気を()がれていた。

「敵に、陣中を見すかされては、またこの構想を一変せねばならん。こんな虚があるようなことで、いつの日か、呉を破ることができるものぞ」


 すると、侍列の中から、


「丞相、嗟嘆(さたん)には及びません。てまえが周瑜を説いて、お味方に加えてみせます」


 と、いった者がある。

 人々は、その大言に驚いて、誰かとみると、帳下の幕賓(ばくひん)蒋幹(しょうかん)(あざな)子翼(しよく)というものだった。


「おう、幹公か。貴殿は周瑜と親交でもあるのか」


「それがしは九江(きゅうこう)の生れなので、周瑜とは郷里も近く、少年時代から学窓の友でした」


「それはよい手がかりだな。もし呉から周瑜をはずせば、呉軍は骨抜きになる。大いに貴殿の労に(しょく)すが、行くとすれば、何を携えてゆくか」


「何もいりません。ただ一童子と一舟を賜わらば充分です」

「説客の意気、そうなくてはならん、では、早速に」


 と、彼のため一夕、(さかん)なる壮行会を設けて、江に送った。

 蒋幹は、わざと、綸巾(りんきん)をいただき、道服をまとい、一()の酒と、一人の童子をのせただけで、扁舟(へんしゅう)飄々(ひょうひょう)、波と風にまかせて、呉の陣へ下って行った。


「われは周都督の旧友である。なつかしさのあまり訪れて来た。――と称する高士風のお人が今、岸へ上がってきましたが?」


 と、聞いて、周瑜は、からからと笑った。


「ははあ、やって来たな、さては、曹操の幕賓になっている蒋幹あたりだろう。よしよしこれへ通せ」


 彼は、その間に、諸大将へ計りごとをささやいて、


「さて、どんな顔をして来るか」

 と、蒋幹を待っていた。

 やがて蒋幹は、それへ案内されてきて、眼をみはった。いや面喰らったといったほうが実際に近い。華やかな錦衣をまとい、花帽(かぼう)をいただいた四、五百人の軍隊が、まずうやうやしく轅門(えんもん)に彼を出迎え、さて営中に入ると、同じように綺羅(きら)な粧いをした大将が、周瑜の座を中心に、星の如く居流れている。

「やあ、幹公か。めずらしいご対面、おつつがないか」


「周都督にもご機嫌よう、慶祝にたえません」


 蒋幹は、拝を終ると、特に、親しみを示そうとした。

 周瑜も、意識的にくだけた調子で、


「途中、よく矢にも弾にも狙われず来られたな。こんな戦時下、はるばる、江を渡って、何しに来られたのだ。……曹操から頼まれてお越しになったのじゃないかな。あはははは、いや冗談冗談」

 と、相手の顔色が変ったのを見ながら、すぐ自分で自分のことばを打消した。

 蒋幹(しょうかん)は内心、どきとしたが、さあらぬ態で、


「これはどうも、迷惑なお疑いですな。近頃、閣下のご高名が呉に振うにつけても、よそながら慶祝にたえず、竹馬の友たりし頃の昔語りでもせんものと、お訪ねしてきたのに。――曹操の説客ならんとは、心外千万じゃ」

 と、わざと(つら)ふくらせて見せると、周瑜は笑って、その肩を撫で、かつなだめて、


「まあ、そう怒りたもうな。へだてなき旧友なればこそ、つい冗談も出るというもの。……何しろ、よく来てくれた。陣中、歓待(もてな)しもできないが、今夜は大いに久濶をのべて楽しもう」


 と、共に(ひじ)を組んで、酒宴の席へ誘った。

 堂上堂下に集まった諸将はみな錦繍の袖をかさね、卓上には金銀の(うつわ)瑠璃(るり)の杯、漢銅の花器など、陣中とも思われない豪華な設けであった。

 主客、席につくと、喨々(りょうりょう)得勝楽(とくしょうがく)という軍楽が奏された。周瑜は起って、幕下の人々へむかい、


「この蒋幹は、自分とは同窓の友で、今日、江北から訪ねてくれたが、決して、曹操の説客ではないから、心おきのないように」


 と、客を紹介したはいいが、変な云いまわしをして、いよいよ蒋幹の心を寒からしめた。

 のみならず、諸大将の中から、太史慈(たいしじ)を呼び出して、自分の剣を渡し、


「こよいは懐かしい旧友と共に、夜を徹して、楽しもうと思うが、もし遠来の客に非礼があってはならぬ。お客が第一の迷惑とされることは、曹操の説客ならずやと、白眼視されることである。だからもしこの席上で、曹操とわが国との合戦のことなど、かりそめにも口にする者があったら、即座に、この剣をもって斬って捨てい」

 と、命じた。

 太史慈は、剣をうけて、席の一方に立っていた。蒋幹はまるで針の(むしろ)に坐っているような心地だった。

 周瑜は、杯をとって、

「出陣以来、酒をつつしんで、陣中では一滴も飲まなかったが、今夜は、旧友幹兄のために、心ゆくまで飲むつもりだ。諸将も客にすすめて、共に鬱気(うっき)をはらすがいい」


 と、快飲し始めた。

 満座、酒に沸いて、興もようやくたけなわであった。佳肴杯盤(かこうはいばん)はめぐり、人々はこもごも立って舞い謡い、また(はや)した。


「長夜の(かん)はまだ宵のうち、すこし外気に酔をさまして、また飲み直そう」


 周瑜は、蒋幹と(ひじ)を組んで、帳外へ(らっ)して行った。そして陣中を逍遥しながら、武器兵糧の豊富にある所を見せたり、営中の士気の(さかん)なる有様をそれとなく見せて歩いた。

 そして、以前の席へ、戻って来たが、その途々(みちみち)にも、

「貴公とおれとは、同窓に書を読み、幼時から共に将来のことを語ったこともあるが、今日、呉の三軍をひきい、身は大都督の高きに在り、呉君は自分を重用して、自分の言なら用いてくれないことはない。こんなにまで、立身しようとは、あの頃も思わなかったよ。ゆえに今、古の蘇秦(そしん)、張儀のような者が来て、いかに懸河(けんが)の弁をふるってこの周瑜を説かんとしても、この心は金鉄のようなものさ。いわんやひと腐れ儒者などが、常套的な理論をもって、周瑜の心を変えようなんて考えてくる者があるとすれば、これほど滑稽なことはない」

 と、大笑した。

 蒋幹の体はあきらかにふるえていた。酔もさめて顔は土気いろになっている。周瑜はまた、宴の帳内へ彼を(らっ)して、

「やあ幹(けい)。すっかり酒気が醒めたようじゃないか。さあ、大杯でほし給え」


 と、杯を強い、さらに諸大将にも促して、後から後からと杯をすすめさせた。

 杯攻めに会っている蒋幹の困り顔をながめながら、周瑜はまた、


「今夜、ここにいるのは、みな呉の英傑ばかりで、群英の会とわれわれは称している。この会の吉例として、それがしの舞いを一曲ご覧に入れよう。――方々、歌えや」


 そういうと、彼は剣を抜いて、珠と散る燭の光を、一閃また一閃、打ち振りながら舞い出した。


大丈夫処世兮立功名(よにしょしてこうみょうをたつ)

功名既立兮王業成(すでにたっておうぎょうなる)

王業成兮四海清輝(なってしかいせいきす)

四海清兮(きよくして)天下泰平

天下泰平兮吾将酔(にしてわれまさによわんとす)

将酔兮舞霜鉾(まさによわんとしてそうぼうをまわす)


 周瑜は剣を振ってかつ歌いかつ舞い、諸将は唱和して、また拍手歓呼し、夜は更けるとも、興の尽くるを知らなかった。


「ああ、愉快だった。幹公、今夜はご辺と同じ床に寝て、語り明かそう」


 蹌踉(そうろう)として、周瑜は蒋幹の首にかじりつき、ともに寝所へ(まろ)びこんだ。

 ――と同時に、周瑜は、衣も脱がず帯も解かず、泥酔狼藉、(しょう)をよそに、床の上へ倒れて寝てしまった。


「都督、都督。……そんなところへ寝てしまわれてはいけません。お体の毒です。風邪(かぜ)でもひいては」

 と、蒋幹は幾度かゆり起してみたが、覚めればこそ、いびきを増すばかりで、房中もたちまち酒蔵のような匂いに蒸れた。

 ただただ(きも)を奪われて、宵のうちから酔えもせず、ただ恟々(きょうきょう)としていた蒋幹は、もちろんここへ入っても容易に眠りつくことができなかった。

 夜はすでに四更に近い。陣中を巡邏(じゅんら)する警板の響きがする。……周瑜はとみればなお前後不覚の(てい)たらくだ。残燈の光淡く、浅ましい寝すがたに明滅している。

「……おや?」


 蒋幹はむくと身を起した。卓上に多くの書類や書簡が取り散らかっている。下にこぼれ落ちている五、六通を拾ってそっと見ると、みな陣中往来の機密文書である。

 怪しく手がふるえた。――蒋幹の眼は細かに動いて、幾たびも、周瑜(しゅうゆ)の寝顔にそそがれ、また、書簡の幾通かを、次々に、迅い眼で読んで行った。

 愕然、彼の顔色を変えさせた一片の文字がある。見おぼえのあるような手蹟と思って、ひらいてみると、果たして、それは曹操の幕下で日常顔を見ている張允(ちょういん)の手簡ではないか。


蔡瑁(さいぼう)張允(ちょういん)啓白(けいはく)

それがしら、一旦、曹に降るは、仕禄を図るに非ず、みな時の勢いに迫らるるのみ。今すでに北軍を(なだ)めて寨中に籠めしむ。みな生らが復仇の意謀にもとづいてかく牽制(けんせい)するところの現われなり。

今し、南風に託し、一便の牒状(ちょうじょう)をもたらしたまわば、即ち、内に乱を発し、曹操の首を火中に挙げて呉陣に献ぜん。是れ、故国亡主の怨をすすぐ所にして、また天下の為なり。早晩人到り、回報疾風のごとくあらんことを。敬覆(けいふく)、深く照察(しょうさつ)を乞い仰ぐ。

「う、う。……うーむ」


 ふいに周瑜が寝返りを打った。蒋幹はあわてて燈火(ともしび)をふき消した。そしてしばらく様子を見ていたが、また大いびきをかいて寝入ったらしいので、自分もそっと、(ふすま)を打ちかついで(しょう)のうえに横たわっていた。

 ――すると、帳外の()を、誰かコツコツと叩く者がある。蒋幹は息をころしていた。やがて佩剣(はいけん)の音が入ってきた。周瑜の腹心の大将らしい。しきりにゆり起して、何かささやいている声がする。

 周瑜は、やっと起き上がった。そして蒋幹のほうを見て、

「この寝所へ、自分と共に寝こんだやつは、一体どこの何者だ」


 などと訊ねている。

 腹心の大将が、それは閣下のご友人とかいう蒋幹です、と答えると、非常に愕いた様子で、


「なに、蒋幹だと。それはいかん。……もっと静かにものをいわんか」


 と、急に、相手の声をたしなめながら、帳の外へ出て行った。

 二人は、かなり長い間、何か立ち話をしているようであったが、時々、張允とか、蔡瑁とかいう名が、会話のうちに聞えてきた。

 そのうちにまた、べつな声で、北国(なま)りの男が何かしゃべりだした。呉の陣中に北兵がいるのはいぶかしいと蒋幹はいよいよ聞き耳をそばだてていた。

 男はこの陣中の者ではない。江北から来た密使と見える。蔡大人(さいたいじん)とか、張都督とか、蔡瑁、張允のことを尊称していることばつきから見ても、彼の部下か、或いはそれに頼まれてきた人間ということは想像がつく。


「……さては何か(しめ)し合わせに」

 と、先刻、拾った書簡を思いあわせて、蒋幹は身の毛をよだてた。さても、油断のならぬことよ、心もおどおどして、もう空寝入りしているのも気が気ではない。

 やがてのこと――密使の男と、ひとりの大将は、用談がすんだとみえて、跫音ひそかに立ち去った。周瑜もすぐ寝室へもどってきた。そして今度は、(とばり)を引いて、寝床の中へ深々ともぐりこんだ。――夜明けの待ち遠しさ。蒋幹は薄目をあいて窓外ばかり気にしていた。いい按配に、周瑜は再び大きな寝息をかき始めている。そして、窓の辺りが、ほのかに明るくなりかけた。

「……うーむ。ああ、よく眠った」


 蒋幹はわざと大きく伸びをしながらそう呟いてみた。周瑜は眼を覚まさない。しめたと、厠へ立つふりをして、内房から飛び出した。外はまだ暁闇、わずかに東天(しののめ)の空が紅い。

 陣屋の轅門(えんもん)まで来ると、

「誰だっ?」

 番兵に見咎められて、一喝を浴びた。蒋幹はぎょっとしたが、強いて横柄に構えながら、

「周都督の客にむかって、誰だとは何事だ。わしは都督の友人蒋幹じゃが」


 と、肩を高くして振向いた。

 番兵らはあわてて敬礼した。蒋幹は悠々と背を向けたが、番兵たちの眼から離れると、風の如く駈け出して、江岸の小舟へ飛び乗った。


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登場人物紹介

劉備玄徳

劉備玄徳

ひげ

劉備玄徳

劉備玄徳

諸葛孔明《しょかつこうめい》

張飛

張飛

髭あり

張飛

関羽

関羽


関平《かんぺい》

関羽の養子

趙雲

趙雲

張雲

黄忠《こうちゅう》

魏延《ぎえん》

馬超

厳顔《げんがん》

劉璋配下から劉備配下

龐統《ほうとう》

糜竺《びじく》

陶謙配下

後劉備の配下

糜芳《びほう》

糜竺《びじく》の弟

孫乾《そんけん》

陶謙配下

後劉備の配下

陳珪《ちんけい》

陳登の父親

陳登《ちんとう》

陶謙の配下から劉備の配下へ、

曹豹《そうひょう》

劉備の配下だったが、酒に酔った張飛に殴られ裏切る

周倉《しゅうそう》

もと黄巾の張宝《ちょうほう》の配下

関羽に仕える

劉辟《りゅうへき》

簡雍《かんよう》

劉備の配下

馬良《ばりょう》

劉備の配下

伊籍《いせき》

法正

劉璋配下

のち劉備配下

劉封

劉備の養子

孟達

劉璋配下

のち劉備配下

商人

宿屋の主人

馬元義

甘洪

李朱氾

黄巾族

老僧

芙蓉

芙蓉

糜夫人《びふじん》

甘夫人


劉備の母

劉備の母

役人


劉焉

幽州太守

張世平

商人

義軍

部下

黄巾族

程遠志

鄒靖

青州太守タイシュ龔景キョウケイ

盧植

朱雋

曹操

曹操

やけど

曹操

曹操


若い頃の曹操

曹丕《そうひ》

曹丕《そうひ》

曹嵩

曹操の父

曹洪


曹洪


曹徳

曹操の弟

曹仁

曹純

曹洪の弟

司馬懿《しばい》仲達《ちゅうたつ》

曹操配下


楽進

楽進

夏侯惇

夏侯惇《かこうじゅん》

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

韓浩《かんこう》

曹操配下

夏侯淵

夏侯淵《かこうえん》

典韋《てんい》

曹操の配下

悪来と言うあだ名で呼ばれる

劉曄《りゅうよう》

曹操配下

李典

曹操の配下

荀彧《じゅんいく》

曹操の配下

荀攸《じゅんゆう》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

徐晃《じょこう》

楊奉の配下、後曹操に仕える

史渙《しかん》

徐晃《じょこう》の部下

満寵《まんちょう》

曹操の配下

郭嘉《かくか》

曹操の配下

曹安民《そうあんみん》

曹操の甥

曹昂《そうこう》

曹操の長男

于禁《うきん》

曹操の配下

王垢《おうこう》

曹操の配下、糧米総官

程昱《ていいく》

曹操の配下

呂虔《りょけん》

曹操の配下

王必《おうひつ》

曹操の配下

車冑《しゃちゅう》

曹操の配下、一時的に徐州の太守

孔融《こうゆう》

曹操配下

劉岱《りゅうたい》

曹操配下

王忠《おうちゅう》

曹操配下

張遼

呂布の配下から曹操の配下へ

張遼

蒋幹《しょうかん》

曹操配下、周瑜と学友

張郃《ちょうこう》

袁紹の配下

賈詡

賈詡《かく》

董卓

李儒

董卓の懐刀

李粛

呂布を裏切らせる

華雄

胡軫

周毖

李傕

李別《りべつ》

李傕の甥

楊奉

李傕の配下、反乱を企むが失敗し逃走

韓暹《かんせん》

宋果《そうか》

李傕の配下、反乱を企むが失敗

郭汜《かくし》

郭汜夫人

樊稠《はんちゅう》

張済

張繍《ちょうしゅう》

張済《ちょうさい》の甥

胡車児《こしゃじ》

張繍《ちょうしゅう》配下

楊彪

董卓の長安遷都に反対

楊彪《ようひょう》の妻

黄琬

董卓の長安遷都に反対

荀爽

董卓の長安遷都に反対

伍瓊

董卓の長安遷都に反対

趙岑

長安までの殿軍を指揮

徐栄

張温

張宝

孫堅

呉郡富春(浙江省・富陽市)の出で、孫子の子孫

孫静

孫堅の弟

孫策

孫堅の長男

孫権《そんけん》

孫権

孫権

孫堅の次男

朱治《しゅち》

孫堅の配下

呂範《りょはん》

袁術の配下、孫策に力を貸し配下になる

周瑜《しゅうゆ》

孫策の配下

周瑜《しゅうゆ》

周瑜

張紘

孫策の配下

二張の一人

張昭

孫策の配下

二張の一人

蒋欽《しょうきん》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

孫権を守って傷を負った

陳武《ちんぶ》

孫策の部下

太史慈《たいしじ》

劉繇《りゅうよう》配下、後、孫策配下


元代

孫策の配下

祖茂

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

韓当

孫堅の配下

黄蓋

孫堅の部下

黄蓋《こうがい》

桓楷《かんかい》

孫堅の部下


魯粛《ろしゅく》

孫権配下

諸葛瑾《しょかつきん》

諸葛孔明《しょかつこうめい》の兄

孫権の配下


呂蒙《りょもう》

孫権配下

虞翻《ぐほん》

王朗の配下、後、孫策の配下

甘寧《かんねい》

劉表の元にいたが、重く用いられず、孫権の元へ

甘寧《かんねい》

凌統《りょうとう》

凌統《りょうとう》

孫権配下


陸遜《りくそん》

孫権配下

張均

督郵

霊帝

劉恢

何進

何后

潘隠

何進に通じている禁門の武官

袁紹

袁紹

劉《りゅう》夫人

袁譚《えんたん》

袁紹の嫡男

袁尚《えんしょう》

袁紹の三男

高幹

袁紹の甥

顔良

顔良

文醜

兪渉

逢紀

冀州を狙い策をねる。

麹義

田豊

審配

袁紹の配下

沮授《そじゅ》

袁紹配下

郭図《かくと》

袁紹配下


高覧《こうらん》

袁紹の配下

淳于瓊《じゅんうけい》

袁紹の配下

酒が好き

袁術

袁胤《えんいん》

袁術の甥

紀霊《きれい》

袁術の配下

荀正

袁術の配下

楊大将《ようたいしょう》

袁術の配下

韓胤《かんいん》

袁術の配下

閻象《えんしょう》

袁術配下

韓馥

冀州の牧

耿武

袁紹を国に迎え入れることを反対した人物。

鄭泰

張譲

陳留王

董卓により献帝となる。

献帝

献帝

伏皇后《ふくこうごう》

伏完《ふくかん》

伏皇后の父

楊琦《ようき》

侍中郎《じちゅうろう》

皇甫酈《こうほれき》

董昭《とうしょう》

董貴妃

献帝の妻、董昭の娘

王子服《おうじふく》

董承《とうじょう》の親友

馬騰《ばとう》

西涼の太守

崔毅

閔貢

鮑信

鮑忠

丁原

呂布


呂布

呂布

呂布

厳氏

呂布の正妻

陳宮

高順

呂布の配下

郝萌《かくほう》

呂布配下

曹性

呂布の配下

夏侯惇の目を射った人

宋憲

呂布の配下

侯成《こうせい》

呂布の配下


魏続《ぎぞく》

呂布の配下

王允

貂蝉《ちょうせん》

孫瑞《そんずい》

王允の仲間、董卓の暗殺を謀る

皇甫嵩《こうほすう》

丁管

越騎校尉の伍俘

橋玄

許子将

呂伯奢

衛弘

公孫瓉

北平の太守

公孫越

王匡

方悦

劉表

蔡夫人

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

蒯良

劉表配下

蒯越《かいえつ》

劉表配下、蒯良の弟

黄祖

劉表配下

黄祖

陳生

劉表配下

張虎

劉表配下


蔡瑁《さいぼう》

劉表配下

呂公《りょこう》

劉表の配下

韓嵩《かんすう》

劉表の配下

牛輔

金を持って逃げようとして胡赤児《こせきじ》に殺される

胡赤児《こせきじ》

牛輔を殺し金を奪い、呂布に降伏するも呂布に殺される。

韓遂《かんすい》

并州《へいしゅう》の刺史《しし》

西涼の太守|馬騰《ばとう》と共に長安をせめる。

陶謙《とうけん》

徐州《じょしゅう》の太守

張闓《ちょうがい》

元黄巾族の陶謙の配下

何曼《かまん》

截天夜叉《せってんやしゃ》

黄巾の残党

何儀《かぎ》

黄巾の残党

田氏

濮陽《ぼくよう》の富豪

劉繇《りゅうよう》

楊州の刺史

張英

劉繇《りゅうよう》の配下


王朗《おうろう》

厳白虎《げんぱくこ》

東呉《とうご》の徳王《とくおう》と称す

厳与《げんよ》

厳白虎の弟

華陀《かだ》

医者

鄒氏《すうし》

未亡人

徐璆《じょきゅう》

袁術の甥、袁胤《えんいん》をとらえ、玉璽を曹操に送った

鄭玄《ていげん》

禰衡《ねいこう》

吉平

医者

慶童《けいどう》

董承の元で働く奴隷

陳震《ちんしん》

袁紹配下

龔都《きょうと》

郭常《かくじょう》

郭常《かくじょう》の、のら息子

裴元紹《はいげんしょう》

黄巾の残党

関定《かんてい》

許攸《きょゆう》

袁紹の配下であったが、曹操の配下へ

辛評《しんひょう》

辛毘《しんび》の兄

辛毘《しんび》

辛評《しんひょう》の弟

袁譚《えんたん》の配下、後、曹操の配下

呂曠《りょこう》

呂翔《りょしょう》の兄

呂翔《りょしょう》

呂曠《りょこう》の弟


李孚《りふ》

袁尚配下

王修

田疇《でんちゅう》

元袁紹の部下

公孫康《こうそんこう》

文聘《ぶんぺい》

劉表配下

王威

劉表配下

司馬徽《しばき》

道号を水鏡《すいきょう》先生

徐庶《じょしょ》

単福と名乗る

劉泌《りゅうひつ》

徐庶の母

崔州平《さいしゅうへい》

孔明の友人

諸葛均《しょかつきん》

石広元《せきこうげん》

孟公威《もうこうい》

媯覧《ぎらん》

戴員《たいいん》

孫翊《そんよく》

徐氏《じょし》

辺洪

陳就《ちんじゅ》

郄慮《げきりょ》

劉琮《りゅうそう》

劉表次男

李珪《りけい》

王粲《おうさん》

宋忠

淳于導《じゅんうどう》

曹仁《そうじん》の旗下《きか》

晏明

曹操配下

鍾縉《しょうしん》、鍾紳《しょうしん》

兄弟

夏侯覇《かこうは》

歩隲《ほしつ》

孫権配下

薛綜《せっそう》

孫権配下

厳畯《げんしゅん》

孫権配下


陸績《りくせき》

孫権の配下

程秉《ていへい》

孫権の配下

顧雍《こよう》

孫権配下

丁奉《ていほう》

孫権配下

徐盛《じょせい》

孫権配下

闞沢《かんたく》

孫権配下

蔡薫《さいくん》

蔡和《さいか》

蔡瑁の甥

蔡仲《さいちゅう》

蔡瑁の甥

毛玠《もうかい》

曹操配下

焦触《しょうしょく》

曹操配下

張南《ちょうなん》

曹操配下

馬延《ばえん》

曹操配下

張顗《ちょうぎ》

曹操配下

牛金《ぎゅうきん》

曹操配下


陳矯《ちんきょう》

曹操配下

劉度《りゅうど》

零陵の太守

劉延《りゅうえん》

劉度《りゅうど》の嫡子《ちゃくし》

邢道栄《けいどうえい》

劉度《りゅうど》配下

趙範《ちょうはん》

鮑龍《ほうりゅう》

陳応《ちんおう》

金旋《きんせん》

武陵城太守

鞏志《きょうし》

韓玄《かんげん》

長沙の太守

宋謙《そうけん》

孫権の配下

戈定《かてい》

戈定《かてい》の弟

張遼の馬飼《うまかい》

喬国老《きょうこくろう》

二喬の父

呉夫人

馬騰

献帝

韓遂《かんすい》

黄奎

曹操の配下


李春香《りしゅんこう》

黄奎《こうけい》の姪

陳群《ちんぐん》

曹操の配下

龐徳《ほうとく》

馬岱《ばたい》

鍾繇《しょうよう》

曹操配下

鍾進《しょうしん》

鍾繇《しょうよう》の弟

曹操配下

丁斐《ていひ》

夢梅《むばい》

許褚

楊秋

侯選

李湛

楊阜《ようふ》

張魯《ちょうろ》

張衛《ちょうえい》

閻圃《えんほ》

劉璋《りゅうしょう》

張松《ちょうしょう》

劉璋配下

黄権《こうけん》

劉璋配下

のち劉備配下

王累《おうるい》

王累《おうるい》

李恢《りかい》

劉璋配下

のち劉備配下

鄧賢《とうけん》

劉璋配下

張任《ちょうじん》

劉璋配下

周善

孫権配下


呉妹君《ごまいくん》

董昭《とうしょう》

曹操配下

楊懐《ようかい》

劉璋配下

高沛《こうはい》

劉璋配下

劉巴《りゅうは》

劉璋配下

劉璝《りゅうかい》

劉璋配下

張粛《ちょうしゅく》

張松の兄


冷苞

劉璋配下

呉懿《ごい》

劉璋の舅

彭義《ほうぎ》

鄭度《ていど》

劉璋配下

韋康《いこう》

姜叙《きょうじょ》

夏侯淵《かこうえん》

趙昂《ちょうこう》

楊柏《ようはく》

張魯配下

楊松

楊柏《ようはく》の兄

張魯配下

費観《ひかん》

劉璋配下

穆順《ぼくじゅん》

楊昂《ようこう》

楊任

崔琰《さいえん》

曹操配下


雷同

郭淮《かくわい》

曹操配下

霍峻《かくしゅん》

劉備配下

夏侯尚《かこうしょう》

曹操配下

夏侯徳

曹操配下

夏侯尚《かこうしょう》の兄

陳式《ちんしき》

劉備配下

杜襲《としゅう》

曹操配下

慕容烈《ぼようれつ》

曹操配下

焦炳《しょうへい》

曹操配下

張翼

劉備配下

王平

曹操配下であったが、劉備配下へ。

曹彰《そうしょう》

楊修《ようしゅう》

曹操配下

夏侯惇

費詩《ひし》

劉備配下

王甫《おうほ》

劉備配下

呂常《りょじょう》

曹操配下

董衡《とうこう》

曹操配下

李氏《りし》

龐徳の妻

成何《せいか》

曹操配下

蒋済《しょうさい》

曹操配下

傅士仁《ふしじん》

劉備配下

徐商

曹操配下


廖化

劉備配下

趙累《ちょうるい》

劉備配下

朱然《しゅぜん》

孫権配下


潘璋

孫権配下

左咸《さかん》

孫権配下

馬忠

孫権配下

許靖《きょせい》

劉備配下

華歆《かきん》

曹操配下

呉押獄《ごおうごく》

典獄

司馬孚《しばふ》

司馬懿《しばい》の弟

賈逵《かき》


曹植


卞氏《べんし》

申耽《しんたん》

孟達の部下

范疆《はんきょう》

張飛の配下

張達

張飛の配下


関興《かんこう》

関羽の息子

張苞《ちょうほう》

張飛の息子

趙咨《ちょうし》

孫権配下

邢貞《けいてい》

孫桓《そんかん》

孫権の甥

呉班

張飛の配下

崔禹《さいう》

孫権配下

張南

劉備配下

淳于丹《じゅんうたん》

孫権配下

馮習

劉備配下


丁奉

孫権配下

傅彤《ふとう》

劉備配下

程畿《ていき》

劉備配下

趙融《ちょうゆう》

劉備配下

朱桓《しゅかん》

孫権配下


常雕《じょうちょう》

曹丕配下

吉川英治


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