第137話、漢水の戦い
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夏侯淵の首を獲たことは、なんといっても老黄忠が一代の誉れといってよい。
彼はそれを携えて
と、見参に供えた。
劉備がその功を称揚してやまないこともいうまでもない。即座に彼を、征西大将軍に封じ、
と、その夜、大酒宴を張った。
ところへ、前線の将から注進があった。急使のことばによると、
「夏侯淵が討たれたと聞いた曹操の憤恨は、ひと通りなものでありません。自身二十万騎をひきい、先陣には
孔明は、すぐ情勢を判断して、劉備に対策を洩らした。
傍らで聞いていた黄忠は、
黄忠は老いの眼をぎらと光らした。そして、
と、黄忠を危ぶむかのような口ぶりでゆるした。
それでも、黄忠は勇躍して、席を退いた。
趙雲は、漢水まで来ると、黄忠に訊いた。
黄忠はそう云い残すと、一軍をひきいて敵境深く入って行った。趙雲はそれを見送った後、心もただならぬように、部下の張翼へこう告げていた。
一方――老黄忠はわずか五百の部下をつれて未明に漢水を渡り、夜明け頃には、敵の糧倉本部たる北山のふもとへ粛々と迫って、山上の兵気をうかがっていた。
錆びたる声で、老黄忠は、一令を下した。それを耳にするや否、蜀の兵は朝霧をついて諸所の柵を打ち破り、まだ眠っていたらしい魏兵の夢を驚かした。
はるか漢水の東に陣していた張郃は、その朝、北山の煙を見て、
と、仰天した。
にわかに兵を下知して、自身、真っ先に立ち、北山に駈けつけて来てみた頃は、すでに全山の糧倉は、炎につつまれ、諸所の山道や坂路では、黄忠の部下と、ここの守備の兵とが、入り乱れて戦いの最中であった。
と、部下を励ました。
山上山下、木も草も燃ゆるなかに、組む者、突きあう者、血みどろな白兵戦は、陽の高くなるまで続けられた。
早くもこのことは、曹操の本陣にも達したし、またそこからも、北山の黒煙がよく見えた。
曹操はさらに増援を送った。
このとき、すでに
云い残すや否、三千の兵をさし招き、野を馳せ、数条の流れを越えて、ひたぶるに北山の黒煙へ近づいた。
と趙雲は、ただ一突きに、突き殺して、血しぶきの中を、駈けぬけて行く。
北山の麓まぢかく、重厚な一軍を構えて、こう呼ばわり
趙雲は前へすすんで、
と、いった。焦炳は、
云いつつ馬上から鋭い三
とばかり、焦炳の胸いたへ、ぶすと槍を突きとおし、大空へ刎ねあげ、魏軍のまん中へ馬を突っ込んだ。
兵か煙か、渦巻く中に、ただひとつ、彼の影のみは、堂々無数の
そのうちに、張郃や徐晃の囲みも、意識せずに突破していたが、誰あって、趙雲の前に馬を立てることはできなかった。
「趙将軍だ。趙将軍だ」
北山のここかしこで、敵の重囲に陥ち、
五百の兵は、三分の一に討ちへらされていた。それでもその中に黄忠の顔が見えた。趙雲は黄忠の身を抱えんばかり鞍を寄せて、
と一散に走りだした。
黄忠はなお振り向いてばかりいて、部下の
曹操は高きに登って、その日の戦況を見ていたが、大いに
たち騒ぐ味方をまとめて、曹操は漢水のこなたに、陣容を
すでに首尾よく黄忠や張著を救いだして、わが
一息ついたところへ、
と、まるで雷鳴の下に耳をふさぐ女子のように打ち震えていう。
趙雲はこの騒動を耳にしたので、
と部下に問わせた。
張翼は趙雲のもとへ来て、
かくて、しばらくすると、まったく鳴りをしずめた城内から壕橋へかけて、
見れば、趙雲ただ一騎、槍を横たえてそこに突っ立っている。手をかざして彼方を眺めれば、里余にわたる黄塵の煙幕をひいて、魏の大軍がひたひたとこれへつめよせて来る。
――が、その
「いぶかしいものがあるぞ、敵の城には」
「人もないようにしんとしておる。大手の門を開け放して」
「誰かひとり濠橋の上に立っているようだが――よもや人形でもあるまいに」
「何か深く
魏兵の先鋒は、疑心暗鬼にとらわれてそこから進み得なかった。
中軍にいた曹操は、
と、みずから陣前へ出て、かかれかかれとばかり、下知した。
日は暮れかけていた。
だが、橋上の趙雲は、なおびくとも動かないので、徐晃も張郃もいよいよ気味悪く思ったか、急にまた、途中から馬を返そうとした。
すると初めて、趙雲が、
と、呼びかけた。
はや曹操までが後から続いてきたので、張郃や徐晃も、ふたたび勇を鼓して、濠ぎわへと馳け向ってきた。――今や、矢頃と見たか、趙雲が下へ向って何か呶鳴ると、とたんに濠の蔭から無数の矢が大地とすれすれに射放して来た。
魏の人馬は、嘘のように、バタバタ倒れた。曹操は
横道から米倉山の一端へ出て、
これらの別働隊は、もちろん孔明のさしずによって、遠く迂回し、敵も味方も不測な地点から、
それにしても、二人の功は大きい。わけて趙雲のこんどの働きには、平常よく彼を知る劉備も、
と、今さらのように嘆称した。
その後、敵状を探るに、さしもの曹操も、予想外な損害に、すぐ立ち直ることもできず、遠く
と、ひたすら軍の増強を急ぎつつあるという。
ここに
と、互いに、意見を異にしていた。
けれど徐晃は、
と、ついに浮橋を渡して、漢水を越えてしまった。
一歩対岸を踏んだらば、必ず蜀の
この日、敵のなすままにさせていた黄忠や趙雲は、
と、呟いて、その退路をおびやかすのは今だが、と身をむずむずさせていた。
黄忠と趙雲は、やがて薄暮の野に兵をうごかし始めた。
敵の旗じるしを見て、彼は奮迅した。黄忠の部下は、一時、鼓を鳴らし、喊声をあげ、甚だ旺んに見えたが、もろくも潰えて、蜘蛛の子のように夕闇へ逃げなだれた。
徐晃はわざと敵を
はっと、驚いて、振り向くと、漢水の浮橋が、炎々と燃えているのだった。不覚不覚、退路を敵に断たれている。徐晃は急に引っ返し、全軍へ向って、
と
「ひとりも生かして帰すな」と、叫びに叫ぶ。
徐晃はようやく危地を切り抜け、ほとんど身一つで、漢水の向うまで逃げてきた。その敗戦の罪を、あたかも副将の罪でもあるかのごとく当りちらして、味方の王平へ罵った。
王平は黙然と、彼の
と、劉備は彼を容れて、
徐晃のしたまずい戦は、すべて王平の罪に
一水をへだてて、劉備は孔明と共に、冷静にそのうごきを眺めていた。
孔明がいう。
「この上流に、七
次の日、孔明はまた、べつな一峰へ登って、魏の陣勢をながめていた。この日、魏の一部隊は、渡渉してきて、しきりに、矢を放ち、
魏兵も、より以上、軽々しく進出はしなかった。夜に入るとことごとく陣に収まり、
すると突然
「すわっ、夜襲だぞ」
「いや、敵は見えぬ」
「近くもなし、遠くもない?」
上を下への騒動である。曹操は安からぬ思いを抱いて、四方の闇を見まわしていたが、彼にも何の発見もなかった。
曹操も枕についたが、またまた、爆音がする。
三日のあいだ、毎晩である。曹操は士卒がみな寝不足になった容子を昼の彼らの顔に見て、
兵を五界山までひいて、陣を営み直した。
夜ごとの銅鑼は、もちろん上流の盆地にひそんだ趙雲軍の仕業であったこというまでもない。
四日目の夜が明けてみると、蜀の軍は、その先鋒から中軍もみな河を渡り、漢水をうしろに取って陣容を展開していた。
曹操は、策を疑い攻めあぐねた。
次の日、蜀の軍は軍楽と旌旗に誇示しながら、前進した。
魏も、
五界山の麓で両者は対峙した。
鞭をあげて、曹操が馬上からさしまねいている。蜀の陣から劉備は、劉封、孟達の二人を左右に従えて、騎をすすめた。
曹操は怒って云い返した。
戦線数里にわたる大野戦はここに展開された。
曹操は急に、軍を収めた。なぜかと、魏の諸将は疑った、曹操は、蜀兵の潰走が、ほんとでないとみたので、大事をとったものだった。
ところが、魏が軍を退くと、果然、蜀は攻勢に転じてきた。
智者はかえって智に
かくて、曹操が自負していた智謀も、かえって曹操の黒星を増すばかりとなって、ここ甚だしく生彩を欠いた魏軍は、
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