第28話、関羽、酒前の首
文字数 5,058文字
悲痛なる夜は明けた。
敗れた者の傷魂のように、その晩、残月のみが白かった。
「先鋒の味方は全滅したぞ」
「敵の大軍は、勝ちに乗って刻々迫って来つつある――」
後方の本陣は大動揺を起した。
総帥の
「いかがすべき?」と、いわんばかり、すっかり意気
それか、あらぬか。
袁紹、曹操を始めとして、十七鎮の諸侯は、その日、本営の一堂に会して、
総帥の袁紹も、はなはだ冴えない顔をしていた。
そもそもである。袁紹自身が、孫堅の成功を警戒し、兵糧を送るのを妨げたことが此度の敗戦の原因である。とはいえそれを言うわけにもいかなかった。
華雄軍は先頃からの勝ちに誇って、
と、その
すでに数十里を、風が木の葉を捲くごとく殺到し、鼓は雲にひびき、
「味方の二陣は、ついに、突破されました」
「三陣も!」
「中軍もかき乱され、危うく見えます」
刻々の敗報である。
そして、敵の華雄軍は、長い
ひきもきらぬ伝令が、みな味方の危機を告げるばかりなので総大将袁紹をはじめ、満堂の諸将軍もさすがに色を失って、
「いかがせん!」と、
曹操は、さすがに、
と、侍立の部下をかえりみて、
と、命じた。
酒杯は、各将軍の卓にも、一ツずつ置かれた。曹操は、杯をもつと、ぐびぐび飲んでいた。
わあっッ……
うわあっ
百雷の鳴るような
また、血まみれの斥候が一名、堂の階下へ来て、
絶叫してこときれてしまった。
すぐまた、次の二、三騎が、
「味方の中軍は、敵の鉄兵に
「本陣を、至急、ほかへ移さぬと危ないと思われます。包囲されます」
「あれあれ、あの辺りに、もはや敵の先駆が――」
告げ来り、告げ去り、もはやここの本陣も、さながら暴風の中心に立つ一木の如く、
曹操は、部下に酒をつがせ、なお腰をすえていたが、酔うほどに蒼白となった。
「包囲されては」と、早くも、本陣の退却を、ひそひそ議する者さえある。
酒どころか、諸将軍の顔の半分以上は、土気色だった。
万丈の黄塵は天をおおい、山川草木みな血に
――時に、突如席を立って、
と、
袁紹は、壮なりとして、彼に杯を与えた。
兪渉は、ひと息に飲んで、兵を引いて、敵軍のまっただ中へ駆け入ったが、またたく間に、彼の手勢は敗走して来て、
「兪渉将軍は、乱軍の中に、敵将華雄と出会って、戦うこと、六、七合、たちまち彼の刀に斬って落された」
とのことに、満堂の諸侯は、驚いていよいよ肌に
すると、太守
潘鳳は、召しに応じて手に大きな
袁紹の命に潘鳳はかしこまって、直ちに乱軍の中へはいって行ったが、間もなく潘鳳もまた、華雄のために討ち取られ、その首は、敵の凱歌の中に、手玉にとられて、敵を歓ばしめているという報らせに、満堂ふたたび興をさまし、戦意も失ってしまったかに見えた。
席を立って、地だんだを踏んだり、また席に返って、
と、一座は黙然。
袁紹の叱咤ばかり高かった。
とはいえ、総帥の彼自身が、すでに及ばぬ悔いばかり呶鳴って、焦躁に駆られているので、満座の諸侯とて言葉もなく、皆さしうつ向いているばかりだった。
すると、その沈痛を破って、
と、叫んだ者があった。
諸人、驚いて、
と、見ると、その人、身の丈は長幹の松の如く、髯の長さ
袁紹が訊ねると、
曹操が思い出した様子で言った。
劉備玄徳は答えた。
聞くなり袁紹は非常に怒って関羽を見下し、
劉備玄徳は平然と答えた。身分で人を見下す人間には、もはや慣れきっていた。
袁紹は青筋を立てた。
すると、曹操が
「待ち給え。味方同士、怒り合っている場合でない。この人物も、かく諸侯列座のまえで、大言をはくからには、よもいたずらのたわ
「笑わば笑え。曹操が見るところでは、この男、一馬弓手とはいえ、世の常ならぬ面だましいを備えおる。――はや敵も間近、時おくれては、この本陣も蹂躙されん。是非の軍法は後にして執り行えばよし。――関羽。関羽。この酒をひと息のんで、すぐ駆け向え。はや戦え」
曹操が、酒をついで与えると、関羽は、杯を眺めただけで、再拝しながら、
と、八十二斤と称する大青龍刀を横ざまに擁し、そこにあった一頭の馬をひきよせ、ぱっと腰を鞍上へ移すや否、
関羽の
はるかに、味方の陣を捨て、むらがる敵軍の中へ馳け入るなり、
と、呼ばわった。猛虎が羊の群れを追うように、数万の敵は浪打って散った。
と、袁紹、曹操をはじめ、国々の諸侯みな総立ちとなって、
すると、やがて。
敵も味方も、鳴りを忘れて、ひそとなった一瞬――まるで血の池を渡って来たような黒馬にまたがって、関羽は静々と、数万の敵兵をしり目に、袁紹、曹操たちの眼のまえに帰ってきた。
ひらと、馬を降りるや、
と、中央の卓の上に、まだ生々しい一個の首級を置いた。
それは、敵の大将、華雄の首であったから、満堂の諸侯も、階下の兵も、われをわすれて、
「おお、華雄だ」
「華雄の首をうった」
と、期せずして、万歳をさけぶと、その
関羽は、数歩すすんで、曹操の前に立ち、血まみれな手のまま、先に預けておいた
と、胸を張って、ひと息に飲みほした。
酒は、まだあたたかだった。
すると、玄徳のうしろから、
袁紹の弟、
と、叱った。
曹操が、なだめると、袁術はなおつむじを曲げて、
と、憤然としていった。
むずかしくなりそうなので、曹操は、
そして、夜になってから玄徳のところへ、ひそかに酒肴を贈って、悪く思わないようにと、三名の心事を慰めた。
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