第61話、金鈚箭
文字数 7,685文字
都へ還る大軍が、
その中から、一群れの老民が道に
「どうか、劉備玄徳様を、太守として、この地におとどめ願います。呂布の悪政をのがれて、平和に耕田の業や商工の営みができますことは、無上のよろこびでございますが、劉備様がこの国を去るのではないかと、みなあのように悲しんでおりまするで」
曹操は、馬上から答えた。
そう聞くと、沿道の民は、
ふかく民心の中に根をもっている劉備の信望に、曹操はふと
と、振向いていった。
――日を経て。
三軍は許都に凱旋した。
曹操は、例によって、功ある武士に恩賞をわかち、都民には三日の祝祭を行わせた。朝門
劉備の旅舎は
のみならず、翌日、朝服に改めて参内するにも、劉備を誘って、ひとつ車に乗って出かけた。
市民は軒ごとに、香を
そして、ひそかに、
「これはまた、異例なことだ」と、眼をみはった。
禁中へ伺候すると、帝は、階下遠く地に拝伏している劉備に対し、特に昇殿をゆるされて、何かと、勅問のあって後、さらに、こう訊ねられた。
劉備は、感泣のあまり、しばしは胸がつまって、うつ向いていた。――故郷
帝は、彼の涙をながめて、怪しまれながら、ふたたび下問された。
劉備は襟を正し、謹んでそれに答えた。
帝は、驚きの
と、急に朝廷の
朗々と、わが代々の先祖の名が耳をうってくる。
――その
漢家代々の系譜に照らしてみると、劉備が、景帝の第七子の裔であることは明らかになった。
つまり景帝の第七子
と、帝のおよろこびは一通りでない。御涙さえ流して、
改めて、
帝はいつになく杯を重ねられ、龍顔は華やかに染められた。こういう御気色はめずらしいことと侍側の人々も思った。――知らず、劉備を見て、帝のお胸に、どんな灯が
ここ
「それなのに、今日ばかりは、何という明るいご微笑だろう?」
と侍従たちにも怪しまれるほど、その日の宴は、帝にも心からご愉快そうであった。
帝の特旨に依って、劉備は、
また、それ以来、朝野の人々も、劉備をよぶのに「
――が、ここに、当然、彼の
それは、
と、或る時、
と、取合わなかった。
曹操は、なお、度量の大を示すように、笑い消して、
と、意にかける風もなかった。
そして彼と劉備との交わりは、日をおうほど親密の度を加え、朝に出るにも車を共にし、宴楽するにも、常に席を一つにしていた。
一日。
相府の一閣に、
程昱は、野心
と、なじった。
曹操は、そら
程昱のいう裏には、明らかに朝廷無視の叛意がふくまれている。――が、曹操は、それを否定もせず、たしなめもしなかった。
といっただけである。
程昱がかさねて、
帝は、お顔を振って、
と、にわかに
今朝方から、曹操の兵が城外におびただしく、禁門の出入りも何となく常と違うので、早くから衛府に詰めていた劉備は、それと見るや、自身、逍遥馬の口輪をとって、帝のお供に従った。
関羽、張飛、その余の面々も、弓をたばさみ、
「あれが、
などと、
この日。
曹操は、「
その曹操が前後には、彼の
かくて御料の
劉備は、
と、馬上ながら、鞍の前輪に顔のつくばかり、拝伏した。
ところへ、勢子の
帝は、眼ばやく、
と、早口にいわれた。
と、劉備は馬をとばして、逃げる兎と、併行しながら、弓に矢をつがえてぴゅっんと放した。
白兎は、矢を負って、草の根にころがった。帝は、その日、朝門を出御ある折から、始終、ふさぎがちであった御眉を、初めてひらいて、
と、劉備の手ぎわを賞し、
と堤のほうへ、先に駒をすすめて行かれた。
すると、
と堤のほうへ、先に駒をすすめて行かれた。
すると、
二度、三度まで、矢をつづけられたが、あたらなかった。
鹿は、堤から下へ逃げて行ったが、勢子の声におどろいて、また跳ね上がってきた。
帝が
公卿百官を始め、下、将校歩卒にいたるまで、金鈚箭の立った獲物を見て、いずれも、帝の射給うたものとばかり思いこんで、異口同音に万歳を唱えた。
万歳万歳の声は、山野を圧して、しばし鳴りも止まないでいると、そこへ曹操が馬を飛ばしてきて、
と、帝の御前に立ちふさがった。
そして
はっと、諸人みな色を失い興をさましてしまったが、特に、劉備のうしろにいた関羽の如きは、眼を張り、眉をあげて、曹操のほうをくわっとにらめつけていた。
その時、関羽は、
と、口にこそ発しなかったが、怒りは心頭に燃えて、胸中の激血はやみようもなかったのである。
無意識に、彼の手は、剣へかかっていた。劉備は、はっとしたように、身を移して、関羽の前に立ちふさがった。そして手をうしろに動かし、眼をもって、関羽の怒りをなだめた。
ふと、曹操の眸が、劉備のほうへうごいた。劉備は咄嗟に、笑みをふくんでその眼に応えながら、
曹操は高く打笑って、
と、功を天子の
それのみか、曹操は、忘れたように、帝の
猟が終ると、野外に火を
やがて、帝には還御となった。
劉備も洛中に帰った。その後、彼は一夜ひそかに、関羽を呼んで、
と、戒めた。
関羽は、頭を垂れて、神妙に叱りをうけていたが、静かに面をあげて、
劉備は、うなずいた。幾たびも同感のうなずきを見せた。
「――だが関羽。もしあの折、かりにそちが目的を仕遂げたところで、彼には十万の兵と無数の大将がひかえている。われらも共に許田の土と化さねばなるまい。そしてまたまた大乱のうちから、次の曹操が現われたら何にもならないではないか。あの場では、曹操は何かを試しているように見えた。我が力のなさに情けなくも思うが、ここは耐えて、夢、ことばの端にも、そんな激色を現わしてはならぬ」
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