第101話、東南の風
文字数 11,802文字
時。建安十三年の冬十一月であった。
水軍の総大将
曹操は、旗艦に上がって水軍を
中央の船隊はすべて
前列の船団は、すべて紅旗を
左備えには、
反対の右側へは、すべて
また。
水陸の救応軍には、
曹操は小手をかざして、
われながら
と、彼は、三軍に令した。
即日、この大艦隊は、呉へ向って迫ることになった。
三
この日、風浪天にしぶき、三江の船路は暴れ気味だったが、連環の船と船とは、鎖のために、動揺の度が少なかったので、士気は甚だふるい、曹操も、
と、歓びをもらしていた。
だが、風浪がやまないので、全艦艇は江を下ることわずか数十里の烏林の
と、曹操が聞くと、
諸将は、曹操の智慮にみな感服した。何といっても、彼に従う
かくて、風浪のやや鎮まるのを待つうちに、もと
と、いっただけで、曹操は二人の乞いをゆるさなかった。
焦触、張南は大いに叫んで、
焦触は熱望してやまない。それほどにいうならばと、ついに曹操も彼の乞いを容れた。
と、大事をとって、別に
呉の陣営のほうでも、決戦の用意おさおさ怠りなかった。駈けちがい駈けちがい
また、附近の山のうえには、昼夜、物見の兵が江上に眼を光らし、
今。――そこに監視していた部将と兵の一団が、突然、
「来たっ」
「おうっ、敵の船が」
と、大きく叫んだかと思うと、だだっと駈け降りて来て、周都督の本陣のうちで呶鳴っていた。
「二列、二手にわかれた敵の蒙衝と走舸が、波をついて、こなたへ
それと共に、山の上からは、物見のあげた
といった。
と、すぐ江岸から十数艘の
周瑜は陣後の山へ駈けのぼって行った。望戦台から手をかざして見る。江上の接戦はもう
快速の舟艇ばかり三、四十が入り乱れて矢を射交わしている様子。魏の
と、声をからして奮戦を励ました。
呉の大将韓当は、それを防ぎ防ぎ自身、長槍を持って一艇の
と、横ざまに艇をぶつけて行った。
焦触は、何をとばかり、
ところへ、呉の周泰がまた、船を漕ぎよせて、
と、手の一槍を風に乗って、ぶうんと投げた。
敵の焦触は、見事、投げ槍に串刺しにされて、水中へ落ちた。彼の副将張南は、それと見るや、
と、
周泰は
かくて水上の序戦は、魏の完敗に終り、首将ふたりまで打たれてしまったので、魏の船はみだれみだれて風波の中を逃げちらかった。
眼に見ただけで、周瑜はすでに気をのまれたかたちだった。
すると突然、江上の波は怒り、狂風吹き捲いて、ここかしこ数丈の水煙が立った。そして曹操の乗っている旗艦の「
「――あれよ」と、立ち騒ぐ江上の狼狽ぶりが眼に見えるようだった。臨戦第一日のことだ。これは誰しも
と、周瑜は手をたたいて狂喜した。しかるに、江水を吹き捲いた龍巻は、たちまち一天をかき曇らせ、南岸一帯からこの山へも、大粒の雨を先駆として、もの凄まじく暴れまわって来た。
と、周瑜が絶叫したので、まわりにいた諸大将が仰天して駈けよってみると、周瑜のかたわらに立ててあった大きな司令旗の旗竿が狂風のため二つに折れて、彼の体はその下に圧しつぶされていたのだった。
「おおっ、血を吐かれた」
諸人は驚いて、彼の体をかかえ上げ、山の下へ運んで行ったが、周瑜は気を失ってしまったものらしく途中も声すら出さなかった。
よほど打ち所が悪かったとみえる。
軍医、典薬が駈けつけて、極力、看護にあたる一方、急使は、呉の主孫権の方へこの旨を報らせに飛ぶ。
「奇禍に遭って、都督の病は重態におちいった」
と聞え、全軍の士気は、
と、善後策を相談した。
孔明は、さして苦にする容子もなく、かえって彼に反問した。
孔明は先に立った。
船を下り、
すると周瑜は、
病人は
曹公、火攻めで破らんとするに、東南の風が足りず
こう書いて、周瑜に示した。
周瑜は愕然としたように、孔明の顔を見ていたが、やがて笑い、
と、いった。
季節はいま北西の風ばかり吹く時である。北岸の魏軍へ対して、火攻めの計を行なおうとすれば、かえって味方の南岸に飛火し、船も陣地も自ら火をかぶるおそれがある。
孔明は、
と、かえって、彼の
孔明は、それに対して、こういうことをいっている。
だが、これは孔明の心中に、べつな自信のあることだった。毎年冬十一月ともなれば、潮流と南国の気温の関係から、季節はずれな南風が吹いて、一日二日のあいだ冬を忘れることがある。その変調を後世の天文学語で
ところが、今年に限って、まだその貿易風がやってこない。孔明は長らく隆中に住んでいたので年々つぶさに気象に細心な注意を払っていた。一年といえどもまだそれのなかった年はなかった。今年もやがて間近にその現象があるものと確信していたのである。
と、彼は云った。
周瑜は、病を忘れ、たちまち陣中を出て、その指図をした。魯粛、孔明も馬を早めて南屏山にいたり、地形を見さだめて、工事の督励にかかる。
士卒五百人は壇を築き、祭官百二十人は古式にのっとって準備をすすめる。
こうした祭壇の下にはまた、
時、十一月二十日。
孔明は前日から
――が、その一瞬のまえに、
と、呼ばわった。
壇の下からただちに、
と、いう声がした。
孔明はさしまねいて、
魯粛はたちまち馬をとばして、南屏山から駈けおりて行った。
彼は――そう云い終ると、
香を焚き、水を注ぎ、天を祭ることやや二
口のうちで、
と、ゆるした。
初更からふたたび壇にのぼり、夜を徹して孔明は「
一方、魯粛は
また、そうした表面的なうごきの陰には、例の
と、ひそやかに待ち構えていた。
もちろんこの一船隊は、初めから秘密に
(どうしたら首尾よく味方を脱して、曹操の陣へ無事に渡り得るか)
と、降伏
次の日もはや暮れて、日没の冬雲は赤く長江を染めていた。
ところへ、呉主孫権のほうからも、伝令があって、
「呉侯の御旗下、その余の本軍は、すでに
その本陣も、ここ最前線の先鋒も中軍も、いまはただ周瑜大都督の下知を待つばかりであった。
自然、陣々の諸大将もその兵も、
「今か。今か」の心地だった。
夜は深まるほど穏やかである。星は澄み、雲もうごかない。三江の水は眠れるごとく、魚鱗のような
呟くと、魯粛は、側にあって、
ああ、その言葉を、彼が口に洩らしてから、実に、
周瑜も魯粛も、思わず叫んで、
見まわせば、立て並べてある諸陣の千旗万旗は、ことごとく
待ちもうけていたことながら二人は唖然としてしまった。
突然、周瑜は身ぶるいして、
「孔明とは、そも、人か魔か。天地造化の変を奪い、
と、叫んで、急に
魯粛は、いぶかって、
周瑜は答えもなく、口をつぐんだ。その面を魯粛は「
陸路、水路、ふた手に分れて南屏山へ迫った五百の討手のうち、丁奉の兵三百が、真っ先に山へ登って行った。
七星壇を仰ぐと、祭具、旗など捧げたものは、方位の位置に、木像の如く立ちならんでいたが、孔明のすがたはない。
と、丁奉は高声にたずねた。
ひとりが答えた。
「油幕のうちにお休み中です」と、いう。
ところへ、徐盛の船手勢も来て、ともに油幕を払ってみたが、
雲をつかむように、捜しまわった。
不意に討手の一人が、
「逃げたのだ!」と、絶叫した。
徐盛は足ずりして、
と、
丁奉も、おくれじと、鞭打って馬を早めた。麓まで来て、一水の岸辺にかかると、ひとりの男に会った。かくかくの者は通らなかったかと
「髪をさばき、白き
徐盛、丁奉はいよいよあわてて、
と、相励ましながら、さらに、長江の岸まで駈けた。
満々と帆を張った数艘が、白波を蹴って上流へ追った。
そしてたちまち先へ行く怪しい一艘を認めることができた。
と、手をあげて呶鳴った。
すると果たして、孔明の白衣のすがたが、先にゆく帆の船尾に立った。そして
声――終るや否、白衣の影は船底にかくれ、
と、
先へ舟を早めていた孔明は、ふたたび後から追いついて来る呉の船を見た。孔明は、笑っていたが、彼と船中に対坐していた一人の大将が、やおら起って、
「執念ぶかい奴かな。いで、一睨みに」
と、身を現して、
すると、徐盛も
と、趙子龍は、手にたずさえている強弓に矢をつがえて示しながら、
と、大音を収めたかと思うと、とたんに、弓をぎりぎりとひきしぼって、徐盛のほうへ、びゅっと放った。
と、徐盛も首をすくめたが、もともとその首を狙って放った矢ではない。矢は、彼のうえを通り越して、うしろに張ってある帆の親綱をぷつんと
帆は大きく、横になって、水中に
趙雲は、からからと笑って、弓を捨て、何事もなかったような顔して、ふたたび孔明とむかい合って話していた。
水びたしの帆を張って、徐盛がふたたび追いかけようとした時は、もう遠い煙波の彼方に、孔明の舟は、一
江岸から大声して、彼をなだめる者があった。
見れば、味方の丁奉である。
丁奉は、馬にのって、陸地を江岸づたいに急ぎ、やはり孔明の舟を追って来たのであるが、いまの様子を
手合図して、馬をめぐらし、とことこと岸をあとへ帰って行く。
徐盛もぜひなく、舟をかえした。そして事の仔細を、
一度は、深く孔明に心服した彼も、その心服の度がこえると、たちまち、将来の恐怖に変った。いっその事、劉備を先に討ち、孔明を殺してから、曹操と戦わんか。――などと云い出したが、
と、曹操との大決戦に臨むべく、即刻、手分けを急ぎだした。
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