第101話、東南の風

文字数 11,802文字

 時。建安十三年の冬十一月であった。

 水軍の総大将毛玠(もうかい)于禁(うきん)のふたりが、曹操の前へ来て、謹んで告げた。


「江湾の兵船は、すべて五十艘六十艘とことごとく鎖をもって連ね、ご命令どおり連環(れんかん)の排列を成し終りましたれば、いつご戦端をおひらきあるとも、万端の手筈に狂いはございません」
 毛玠がいった。

「よし」


 曹操は、旗艦に上がって水軍を閲兵(えっぺい)し、手分けを定めた。

 中央の船隊はすべて黄旗(こうき)をひるがえし、毛玠(もうかい)、于禁のいる中軍の目印とする。

 前列の船団は、すべて紅旗を檣頭(しょうとう)に掲げ、この一手の大将には、徐晃(じょこう)が選ばれる。

 黒旗(こっき)の船列は、呂虔(りょけん)の陣。

 左備えには、翩々(へんぺん)と青旗が並んで見える。これは楽進のひきいる一船隊である。

 反対の右側へは、すべて白旗(びゃっき)を植え並べていた。その手の大将は夏侯淵(かこうえん)

 また。

 水陸の救応軍には、夏侯惇(かこうじゅん)曹洪(そうこう)の二陣がひかえ、交通守護軍、監戦使には、許褚(きょちょ)張遼(ちょうりょう)などの宗徒(むねと)(ともがら)が、さながら岸々(がんがん)の岩を重ねて大山をなすがごとく、水上から高地へかけて、固めに固めていた。

 曹操は小手をかざして、

「今日まで、自分もずいぶん大戦に臨んだが、まだその規模の大、軍備の充溢(じゅういつ)、これほどまで入念にかかった(ため)しはない」

 われながら(さかん)なる(かな)と思い、意中すでに呉を呑んでいた。


「時は来た」

 と、彼は、三軍に令した。

 即日、この大艦隊は、呉へ向って迫ることになった。

 三(つう)(つづみ)を合図に、水寨(すいさい)の門は三面にひらかれ、船列は一糸みだれず大江の中流へ出た。

 この日、風浪天にしぶき、三江の船路は暴れ気味だったが、連環の船と船とは、鎖のために、動揺の度が少なかったので、士気は甚だふるい、曹操も、

龐統(ほうとう)の献言はさすがであった」

 と、歓びをもらしていた。

 だが、風浪がやまないので、全艦艇は江を下ることわずか数十里の烏林の湾口(わんこう)に碇泊した。この辺までも陸地は要塞たることもちろんである。そしてここまで来ると、呉の本営である南の岸は、すでに晴天の日なら指さし得るほどな彼方にあった。

「丞相。不吉なりと、お気にさわるやも知れませんが、ふと、この烈風を見て、心にかかりだしたことがありますが」

 程昱(ていいく)がこう彼に云い出したのである。


「何が不安か」

 と、曹操が聞くと、


「なるほど、鎖をもって、船の首尾を相繋(あいつな)げばこういう日にも、船の揺れは少なく、士卒の間に船暈(ふなよい)も出ず、至極名案のようですが、万一敵に火攻めの計を謀られたら、これは一大事を惹起(じゃっき)するのではありますまいか」
「はははは。案ずるをやめよ。時いま十一月。西北(いぬい)の風はふく季節だが、東南(たつみ)の風は吹くことはない。わが陣は、北岸にあり、呉は南にある。敵がもし火攻めなど行えば自ら火をかぶるようなものではないか。――呉に人なしといえ、まさかそれほど気象や兵理にくらいものばかりでもあるまい」

「あ。なるほど」


 諸将は、曹操の智慮にみな感服した。何といっても、彼に従う麾下(きか)の将士は、その大部分が、青州、冀州(きしゅう)、徐州、燕州などの生れで、水軍に不馴れな者ばかりだったから、この連環の計に不賛成をとなえるものは少なかった。

 かくて、風浪のやや鎮まるのを待つうちに、もと袁紹(えんしょう)の大将で、いまは曹操に仕えている(えん)の人、焦触(しょうしょく)張南(ちょうなん)のふたりが、

「不肖、幼少から水には馴れている者どもです。ねがわくはわれわれに二十艘の船をかし給え、序戦の先陣を仰せつけ下されたい」
 と、自身から名乗って出た。

「そちたちは皆、北国の生れではないか。船二十艘を持って、何をやるというのだ。児戯に類した真似をして、敵味方に笑われるな」


 と、いっただけで、曹操は二人の乞いをゆるさなかった。

 焦触、張南は大いに叫んで、


「これは心外な仰せです。われらは長江のほとりに育ち、舟を操ること、水を(くぐ)ること、平地も異なりません。万一、打ち負けて帰ったら軍法に(ただ)して下さい」
「意気は()めてつかわすが、何もそう(はや)って生命を軽んじないでもいい。――それに大船、闘艦はすべて鎖をもってつなぎ、走舸(そうか)蒙衝(もうしょう)のほかは自由に行動できぬ」

「もとより大船や闘艦を拝借しようとは申しません。蒙衝五、六隻、走舸十数艘、あわせて二十もあればよいのです」


「それで何とする気か」


「張南と二手にわかれて、敵の岸辺へ突入し、呉の気勢をくじいて、このたびの大戦の真先に立ちたいのです」


 焦触は熱望してやまない。それほどにいうならばと、ついに曹操も彼の乞いを容れた。


「しかし、二十艘では危ない」


 と、大事をとって、別に文聘(ぶんぺい)に三十艘の兵船をさずけ、兵五百をそれに附した。


 

呉の陣営のほうでも、決戦の用意おさおさ怠りなかった。駈けちがい駈けちがい軽舸(けいか)のもたらしてくる情報はひきもきらない。

 また、附近の山のうえには、昼夜、物見の兵が江上に眼を光らし、(あくた)の流れるのも見のがすまいとしていた。

 今。――そこに監視していた部将と兵の一団が、突然、

「来たっ」

「おうっ、敵の船が」

 と、大きく叫んだかと思うと、だだっと駈け降りて来て、周都督の本陣のうちで呶鳴っていた。

「二列、二手にわかれた敵の蒙衝と走舸が、波をついて、こなたへ()せてきます。敵です! 敵です!」

 それと共に、山の上からは、物見のあげた狼煙(のろし)のひびきが、全軍へわたって、急を報らせていた。

「すわ」


 周瑜(しゅうゆ)もすぐ轅門(えんもん)に姿をあらわしたが、ひしめく諸将に向って、


「立ちさわぐには及ばん。たかの知れた小船隊だ。たれか進んで、江上に打砕き、序戦の祝いに手柄を立ててみる者はないか」

 といった。

 韓当(かんとう)周泰(しゅうたい)のふたりが、

「仰せ、承りました」


 と、すぐ江岸から十数艘の牛革船(ぎゅうかくせん)を解き放ち、左右から()を鳴らして敵船へ迫って行った。

 周瑜は陣後の山へ駈けのぼって行った。望戦台から手をかざして見る。江上の接戦はもう飛沫(しぶき)の中に開かれている。

 快速の舟艇ばかり三、四十が入り乱れて矢を射交わしている様子。魏の焦触(しょうしょく)、張南のふたりは、遮二無二、岸へ向って突進をこころみ、

「第一に陸地を踏んだ者には、曹丞相に申しあげて、軍功帳の筆頭に推すぞ。(ひる)むな面々」


 と、声をからして奮戦を励ました。

 呉の大将韓当は、それを防ぎ防ぎ自身、長槍を持って一艇の(みよし)に立ち現れ、


「さあ、参られい、みな好餌だ」

 と、横ざまに艇をぶつけて行った。

 焦触は、何をとばかり、(ほこ)をふるって両々譲らず十数合ほど戦ったが、風浪が激しいため、舟と舟は揉みに揉みあい、勝負はいつ果てるとも見えない。

 ところへ、呉の周泰がまた、船を漕ぎよせて、

「韓当韓当。いつまでそんな敵に手間どるのだ」


 と、手の一槍を風に乗って、ぶうんと投げた。

 敵の焦触は、見事、投げ槍に串刺しにされて、水中へ落ちた。彼の副将張南は、それと見るや、

「おのれっ」

 と、(いしゆみ)を張って、周泰の舟へ近づきながら、雨あられと矢を向けてきた。

 周泰は(ふなべり)の陰にひたと身を伏せたまま、矢面(やおもて)をくぐって敵艇へ寄せて行ったが、どんと、船腹と船腹のあいだに勢いよく水煙があがったせつなに、おうっと一()して、相手の船中へ躍りこみ、張南をただ一刀に斬りすてたのみか、その艇を分捕ってしまった。

 かくて水上の序戦は、魏の完敗に終り、首将ふたりまで打たれてしまったので、魏の船はみだれみだれて風波の中を逃げちらかった。

「――おう、おうっ、味方の大捷(たいしょう)だ。江上戦は有利に展開したぞ」
 望戦台の丘に立ってこれを見ていた周瑜(しゅうゆ)の喜色はたいへんなものである。――が、戦況の変はたちまち一喜一憂だ。やがて彼のその顔も暗澹(あんたん)として、毛穴もそそけ立つばかり不安な色を呈して来た。というのは、敗報をうけた曹操が、小癪(こしゃく)なる呉の舟艇、一気に江底の藻屑(もくず)にせん、と怒り立って、そのおびただしい闘艦、大船の艨艟(もうどう)をまっ黒に押し(ひら)き、天も(くろ)うし、水の()もかくれんばかり、呉岸へ向って動き出してくる様子なのである。

「ああ、さすがは魏。偉なるかな、その大船陣。われ水軍を督すること十年なれど、まだこんな偉容を水上に見たことはない。いかにしてこれを破るべきか」


 眼に見ただけで、周瑜はすでに気をのまれたかたちだった。懊悩戦慄(おうのうせんりつ)、ほどこすべき(すべ)も知らなかった。

 すると突然、江上の波は怒り、狂風吹き捲いて、ここかしこ数丈の水煙が立った。そして曹操の乗っている旗艦の「(すい)」字の旗竿が折れた。

「――あれよ」と、立ち騒ぐ江上の狼狽ぶりが眼に見えるようだった。臨戦第一日のことだ。これは誰しも()む大不吉にちがいない。間もなく連環の艨艟(もうどう)はことごとく帆をめぐらし(かじ)を曲げて、烏林(うりん)の湾口ふかく引っ返してしまった。

「天の(たす)けだ。天冥の加護わが軍にあり」


 と、周瑜は手をたたいて狂喜した。しかるに、江水を吹き捲いた龍巻は、たちまち一天をかき曇らせ、南岸一帯からこの山へも、大粒の雨を先駆として、もの凄まじく暴れまわって来た。


「あッ」


 と、周瑜が絶叫したので、まわりにいた諸大将が仰天して駈けよってみると、周瑜のかたわらに立ててあった大きな司令旗の旗竿が狂風のため二つに折れて、彼の体はその下に圧しつぶされていたのだった。


「おおっ、血を吐かれた」


 諸人は驚いて、彼の体をかかえ上げ、山の下へ運んで行ったが、周瑜は気を失ってしまったものらしく途中も声すら出さなかった。

 よほど打ち所が悪かったとみえる。周瑜(しゅうゆ)は営中の一房に安臥(あんが)しても、昏々(こんこん)とうめき苦しんでいる。

 軍医、典薬が駈けつけて、極力、看護にあたる一方、急使は、呉の主孫権の方へこの旨を報らせに飛ぶ。

「奇禍に遭って、都督の病は重態におちいった」

 と聞え、全軍の士気は、落莫(らくばく)沮喪(そそう)してしまった。

 魯粛(ろしゅく)はひどく心配した。呉魏(ごぎ)決戦の火ぶたはすでに開かれている折も折だ。早速、孔明の住んでいる船へ出かけ、


「はや、お聞き及びでしょうが、どうしたものでしょうか」

 と、善後策を相談した。

 孔明は、さして苦にする容子もなく、かえって彼に反問した。

「怪我の具合がそんなに悪いのですか」


「怪我自体は、それほどのことではありません。それがきっかけなのか、その後に残った病の方が問題でして、食事も喉を通らず、始終うなされ、めまいもするようです。医師も原因がわからぬと」


「では、病の根は他にあるのかもしれませんね」


「というと」
「これから二人してお見舞してみよう」

 孔明は先に立った。

 船を下り、()に乗って、二人は周瑜の陣営奥ふかく訪ねた。病室へ入って見ると、周瑜はなお衣衾(いきん)にふかくつつまれて横臥呻吟(おうがしんぎん)している。――孔明は、彼の枕辺へ寄って、小声に見舞った。

「いかがですか、ご気分は」


 すると周瑜は、(まぶた)をひらいて、渇いた口からようやく答えた。


「オオ、(りょう)先生か……」


「お加減は如何ですか」

「いかんせん、身をうごかすと、頭は昏乱し、薬を()れば、嘔気(はきけ)がつきあげてくるし……」


「何がご不安なのです。医師の見たところでは、貴体に何の異状も見られぬようですが」


「不安。……不安などは、何もない」


「起き上がれますか」

「いや、枕から頭を上げても、すぐ眼まいがする」


「おそらく、それが心病というものです。ただ心理です。ごらんなさい天体を。日々曇り日々晴れ、朝夕不測(ふそく)の風雲をくりかえしているではありませんか。しかも(かぜ)()るるといえ、天体そのものが病み(わずら)っているわけではない。現象です、気晴るるときはたちまち真を現すでしょう」

「……ウムム」


 病人は(うめ)きながら(えり)を噛み、眼をふさいでいた。孔明はわざと打ち笑って、


「こころ平らに、気順なるときは、一()(きゅう)のうちに、病雲は貴体を去ってゆきましょう。それ、さらに病の根を抜こうとするには、やや涼剤(りょうざい)を用いる必要もありますが」


「良き涼剤がありますか」


「あります。一ぷく用いれば、ただちに気を順にし、たちまち快適を得ましょう」


「――先生」


 周瑜は体を持ち上げ、

「ねがわくは、周瑜のため、いや、国家のために、良方を投じたまわれ」


「承知しました。……しかしこの秘方は人に漏れては効きません。左右のお人を払って下さい」
 侍臣をみな退け、魯粛をのぞくほか、房中無人となると、孔明は紙筆をとって、それへ、

曹公、火攻めで破らんとするに、東南の風が足りず

 こう書いて、周瑜に示した。


「都督。――これがあなたの病の根源でありましょう」


 周瑜は愕然としたように、孔明の顔を見ていたが、やがて笑い、


「おそれ入った。神通のご眼力。……ああ、先生には何事も隠し立てはできない」


 と、いった。

 季節はいま北西の風ばかり吹く時である。北岸の魏軍へ対して、火攻めの計を行なおうとすれば、かえって味方の南岸に飛火し、船も陣地も自ら火をかぶるおそれがある。

 孔明は、周瑜(しゅうゆ)の胸の憂悶が、そこにあるものと、図ぼしをさしたのである。周瑜としては、その秘策はまだ孔明に打ち明けないことなので、一時は驚倒せんばかり(おどろ)いたが、こういう達眼の士に隠しだてしても無益だとさとって、

「事は急なり、天象はままならず、一体、如何すべきでしょうか」

 と、かえって、彼の垂教(すいきょう)を仰いだのであった。

 孔明は、それに対して、こういうことをいっている。


「むかし、若年の頃、異人に会うて、八門遁甲(もんとんこう)天書(てんしょ)で伝授されました。それには風伯雨師(ふうはくうし)を祈る秘法が書いてある。もしいま都督が東南の風をおのぞみならば、わたくしが畢生(ひっせい)の心血をそそいで、その天書に依って風を祈ってみますが――」

  だが、これは孔明の心中に、べつな自信のあることだった。毎年冬十一月ともなれば、潮流と南国の気温の関係から、季節はずれな南風が吹いて、一日二日のあいだ冬を忘れることがある。その変調を後世の天文学語で貿易風(ぼうえきふう)という。

 ところが、今年に限って、まだその貿易風がやってこない。孔明は長らく隆中に住んでいたので年々つぶさに気象に細心な注意を払っていた。一年といえどもまだそれのなかった年はなかった。今年もやがて間近にその現象があるものと確信していたのである。

「十一月二十日は甲子(きのえね)にあたる。この日にかけて祭すれば、三日三夜のうちに東南の風が吹き起りましょう。南屏山(なんびょうざん)の上に七星壇(せいだん)を築かせて下さい。孔明の一心をもって、かならず天より風を借らん」

 と、彼は云った。

 周瑜は、病を忘れ、たちまち陣中を出て、その指図をした。魯粛、孔明も馬を早めて南屏山にいたり、地形を見さだめて、工事の督励にかかる。

 士卒五百人は壇を築き、祭官百二十人は古式にのっとって準備をすすめる。東南(たつみ)(かた)には赤土を盛って方円二十四丈とし、高さ三尺、三重の壇をめぐらし、下の一重には二十八宿の青旗を立て、また二重目には六十四面の黄色の旗に、六十四()の印を書き、なお三重目には、束髪の冠をいただいて、身に羅衣(うすもの)をまとい、鳳衣博帯(ほうえはくたい)朱履方裙(しゅりほうくん)した者を四人立て、左のひとりは長い竿に鶏の羽を挟んだのを持って風を招き、右のひとりは七星の竿を掲げ、後のふたりは宝剣と香炉とを捧げて立つ。

 こうした祭壇の下にはまた、旌旗(せいき)宝蓋(ほうがい)大戟(たいげき)、長槍、白旄(はくぼう)黄鉞(こうえつ)朱旛(しゅはん)などを持った兵士二十四人が、魔を寄せつけじと護衛に立つなど――何にしてもこれは途方もない大形(おおぎょう)な行事であった。

 時、十一月二十日。

 孔明は前日から斎戒沐浴(さいかいもくよく)して身を(きよ)め、身には白の道服を着、素足のまま壇へのぼって、いよいよ三日三夜の祈りにかかるべく立った。

 ――が、その一瞬のまえに、

魯粛(ろしゅく)は、あるや」

 と、呼ばわった。

 壇の下からただちに、

「これにあり」

 と、いう声がした。

 孔明はさしまねいて、

「いまより、それがしは、祈りにかかるが、幸いに、天が孔明の心をあわれみ給うて、三日のうちに風を吹き起すことあらば、時を移さず、かねての計をもって、敵へ攻め()せられるように――ご辺はこの由を周都督に報じ、お手ぬかりのないように万端待機せられよ」
 と、念を押した。

 魯粛はたちまち馬をとばして、南屏山から駈けおりて行った。

 魯粛の去ったあとで、孔明はまた壇下の将士に戒めて云いわたした。
「われ、風を祈るあいだ、私語など、一切これを禁ず。また、いかなる怪しき事ありとも、(おどろ)き騒ぐべからず。(ぎょう)をみだし、法に(そむ)く者は立ちどころに斬って捨てん」

 彼は――そう云い終ると、(きびす)をめぐらし、緩歩(かんぽ)して、南面した。

 香を焚き、水を注ぎ、天を祭ることやや二(とき)

 口のうちで、祝文(しゅくもん)を唱え、(じゅ)を切ること三度(みたび)。なお黙祷やや久しゅうして、神気ようやくあたりにたちこめ、壇上壇下人声なく、天地万象また寂たるものであった。

 夕星(ゆうずつ)の光が白く空にけむる。いつか夜は更けかけていた。孔明はひとたび壇を降りて、油幕(ゆまく)のうちに休息し、そのあいだに、祭官、護衛の士卒などにも、

「かわるがわる飯を喫し、しばし休め」

 と、ゆるした。

 初更からふたたび壇にのぼり、夜を徹して孔明は「(ぎょう)」にかかった。けれど深夜の空は冷々(ひえびえ)と死せるが如く、何の(しるし)もあらわれて来ない。

 一方、魯粛は周瑜(しゅうゆ)に報じて、万端の手筈をうながし、呉主孫権にも、事の次第を早馬で告げ、もし今にも、孔明の祈りの(しる)しがあらわれて、望むところの東南(たつみ)の風が吹いてきたら、直ちに、総攻撃へ移ろうと待機していた。

 また、そうした表面的なうごきの陰には、例の黄蓋(こうがい)が、かねての計画どおり、二十余艘の兵船快舟を用意して、内に乾し草枯れ(しば)を満載し、硫黄(いおう)焔硝(えんしょう)を下にかくし、それを青布の幕ですっかり(おお)って、水上の進退に馴れた精兵三百余を各船にわかち載せ、

「大都督の命令一下に」


 と、ひそやかに待ち構えていた。

 もちろんこの一船隊は、初めから秘密に(はかりごと)を抱いているので、そこでは黄蓋と同心の甘寧(かんねい)闞沢(かんたく)などが、敵の諜者たる蔡和(さいか)、蔡仲を巧みにとらえて、わざと酒を酌み、遊惰(ゆうだ)の風を見せ、そしていかにもまことしやかに、

(どうしたら首尾よく味方を脱して、曹操の陣へ無事に渡り得るか)

 と、降伏(こう)の相談ばかりしていたのである。

 次の日もはや暮れて、日没の冬雲は赤く長江を染めていた。

 ところへ、呉主孫権のほうからも、伝令があって、

「呉侯の御旗下、その余の本軍は、すでに舳艫(じくろ)をそろえて溯江(そこう)の途中にあり、ここ前線をへだつこと、すでに八十里ほどです」と、告げてきた。

 その本陣も、ここ最前線の先鋒も中軍も、いまはただ周瑜大都督の下知を待つばかりであった。

 自然、陣々の諸大将もその兵も、固唾(かたず)をのみ、拳をにぎり、何とはなく、身の毛をよだてて、

「今か。今か」の心地だった。

 夜は深まるほど穏やかである。星は澄み、雲もうごかない。三江の水は眠れるごとく、魚鱗のような小波(さざなみ)をたてている。

 周瑜(しゅうゆ)は、あやしんで、

「どうしたということだ? ……いっこう祈りの(しるし)は見えてこないじゃないか。――思うにこれは、孔明の(いつわ)り事だろう。さもなければ、つい広言のてまえ、自信もなくやり出したことで、今頃は、南屏山(なんびょうざん)の七星壇に、立ち往生のかたちで、後悔しているのではないかな」

 呟くと、魯粛は、側にあって、


「いやいや、孔明のことですから、そんな軽々しいことをして、自ら禍いを求めるはずはありません。もうしばらく見ていてご覧なさい」


「……けれど、魯粛。この冬の末にも近くなって、東南(たつみ)の風が吹くわけはないじゃないか」


 ああ、その言葉を、彼が口に洩らしてから、実に、二刻(ふたとき)とて経たないうちであった。一天の星色次第にあらたまり、雲が動き、風が立ち始めてきた。しかもそれは東南に特有な生暖かい風であった。


「やっ? 風もようだが」


「吹いて来た」


 周瑜も魯粛も、思わず叫んで、轅門(えんもん)の外に出た。

 見まわせば、立て並べてある諸陣の千旗万旗は、ことごとく西北(いぬい)の方へ向ってひるがえっている。


「オオ、東南風(たつみかぜ)だ」


「――東南風」


 待ちもうけていたことながら二人は唖然としてしまった。

 突然、周瑜は身ぶるいして、


「孔明とは、そも、人か魔か。天地造化の変を奪い、鬼神不測(きしんふそく)の不思議をなす。かかる者を生かしておけば、かならず国に害をなし、人民のうちに禍乱を起さん。かの黄巾の乱や諸地方の邪教の害に照らし見るもあきらかである。()かず、いまのうちに!」


 と、叫んで、急に丁奉(ていほう)徐盛(じょせい)の二将をよび、これに水陸の兵五百をさずけて、南屏山へ急がせた。

 魯粛は、いぶかって、


「都督、今のは何です?」


「あとで話す」


「まさか孔明を殺しにやったのではありますまいね。この大戦機を前にして」


「…………」


 周瑜は答えもなく、口をつぐんだ。その面を魯粛は「()(がた)き大将」と(さげす)むように睨みつけていた。その(らん)たる白眼(はくがん)にも刻々と生暖かい風はつよく吹きつのってくる。

 陸路、水路、ふた手に分れて南屏山へ迫った五百の討手のうち、丁奉の兵三百が、真っ先に山へ登って行った。

 七星壇を仰ぐと、祭具、旗など捧げたものは、方位の位置に、木像の如く立ちならんでいたが、孔明のすがたはない。

「孔明はいずこにありや」

 と、丁奉は高声にたずねた。

 ひとりが答えた。

「油幕のうちにお休み中です」と、いう。

 ところへ、徐盛の船手勢も来て、ともに油幕を払ってみたが、

「――おらんぞ」

「はてな?」


 雲をつかむように、捜しまわった。

 不意に討手の一人が、

「逃げたのだ!」と、絶叫した。

 徐盛は足ずりして、


「しまった。まだ、よも遠くへは落ちのびまい。者ども、追いついて、孔明の首をぶち落とせ」


 と、(わめ)いた。

 丁奉も、おくれじと、鞭打って馬を早めた。麓まで来て、一水の岸辺にかかると、ひとりの男に会った。かくかくの者は通らなかったかと(ただ)すと、男のいうには、

「髪をさばき、白き行衣(ぎょうえ)を着た人なら、この一水から小舟を拾って本流へ出、そこに待っていた一艘の親船に乗って、霞のごとく、北のほうへ消えました」

 徐盛、丁奉はいよいよあわてて、

「それだ。逃がすな」


 と、相励ましながら、さらに、長江の岸まで駈けた。

 満々と帆を張った数艘が、白波を蹴って上流へ追った。

 そしてたちまち先へ行く怪しい一艘を認めることができた。


「待ち給え、待ち給え。それへ急がるる舟中の人は、諸葛(しょかつ)先生ではないか。――周都督より一大事のお言づけあって、お後を追って参った者。使いの旨を聞きたまえ」


 と、手をあげて呶鳴った。

 すると果たして、孔明の白衣のすがたが、先にゆく帆の船尾に立った。そして呵々(かか)と笑いながら此方へ答えた。


「よう参られたり、お使い、ご苦労である。周都督のお旨は承らずとも分っておる。それよりもすぐ立ち帰って、東南(たつみ)の風もかく吹けり、はや敵へ攻めかからずやと、お伝えあれ。――それがしはしばらく夏口に帰る。他日、好縁もあらばまたお目にかからん」

 声――終るや否、白衣の影は船底にかくれ、飛沫(しぶき)は船も帆もつつんで、見る見るうちに遠くなってしまった。


「逃がしては!」
 と、徐盛(じょせい)は、水夫(かこ)や帆綱の番を励まして、
「追いつけ。孔明の舟をやるな」

 と、(ふなべり)を叩いて励ました。

 先へ舟を早めていた孔明は、ふたたび後から追いついて来る呉の船を見た。孔明は、笑っていたが、彼と船中に対坐していた一人の大将が、やおら起って、

「執念ぶかい奴かな。いで、一睨みに」


 と、身を現して、舷端(ふなばた)に突っ立ち、徐盛の舟へ向って呼ばわった。


「眼あらば見よ、耳あらば聞け。われは常山(じょうざん)子龍趙雲(しりゅうちょううん)である。劉皇叔(りゅうこうしゅく)のおいいつけをうけて、今日、江辺に舟をつないで待ち、わが軍の軍師をお迎えして夏口に帰るに、汝ら、呉の武将が、何の理由あって(はば)むか。みだりに追い来って、わが軍師に、何を働かんといたすか」

 すると、徐盛も(みよし)に立ち上がって、


「いやいや、何も諸葛亮(しょかつりょう)を害さんためではない。周都督のお旨をうけ、いささか亮先生に告ぐる儀あり。しばらく待ち給えというに、なぜ待たぬか」


「笑止笑止。その物々しい武者どもを乗せて、害意なしなどとは子どもだましの虚言である。汝らこれが見えぬか」

 と、趙子龍は、手にたずさえている強弓に矢をつがえて示しながら、


「この一矢を以て、汝を射殺すはいとやすいが、わが夏口の勢と呉とは、決して、対曹操のごときものではない。故に、両国の好誼(よしみ)を傷つけんことをおそれて、敢て、最前から放たずにいるのだ。この上、要らざる舌の根をうごかし、みだりに追いかけて来ぬがよいぞ」

 と、大音を収めたかと思うと、とたんに、弓をぎりぎりとひきしぼって、徐盛のほうへ、びゅっと放った。


「――あっ」

 と、徐盛も首をすくめたが、もともとその首を狙って放った矢ではない。矢は、彼のうえを通り越して、うしろに張ってある帆の親綱をぷつんと()きった。

 帆は大きく、横になって、水中に(ひた)った。そのため、船はぐると江上に廻り、立ち騒ぐ兵をのせたまま危うく顛覆(てんぷく)しそうに見えた。

 趙雲は、からからと笑って、弓を捨て、何事もなかったような顔して、ふたたび孔明とむかい合って話していた。

 水びたしの帆を張って、徐盛がふたたび追いかけようとした時は、もう遠い煙波の彼方に、孔明の舟は、一(ちょう)のように霞んでいた。

「徐盛。むだだ。やめろやめろ」


 江岸から大声して、彼をなだめる者があった。

 見れば、味方の丁奉である。

 丁奉は、馬にのって、陸地を江岸づたいに急ぎ、やはり孔明の舟を追って来たのであるが、いまの様子を(おか)から見ていたものと見え、

「とうてい、孔明の神機は、おれ達の及ぶところでない。おまけに、あの迎えの舟には、趙雲(ちょううん)が乗っているではないか。常山の趙子龍といえば、万夫不当の勇将だ。長坂坡(ちょうはんは)以来、彼の勇名は音に聞えている。この少ない追手の人数をもって、追いついたところで、犬死するだけのこと。いかに都督の命令でも、犬死しては何もならん。帰ろう、帰ろう、引っ返そう」

 手合図して、馬をめぐらし、とことこと岸をあとへ帰って行く。

 徐盛もぜひなく、舟をかえした。そして事の仔細を、周瑜(しゅうゆ)へ報告すると、

「また孔明に出し抜かれたか」
 と、彼は急に、(ほぞ)をかむように(ののし)った。

「これだから自分は、彼に油断をしなかったのだ。彼は決して、呉のために呉の陣地へ来ていたのではない。――ああ、やはり何としてでも殺しておけばよかった。彼の生きているうちは、夜も安らかに寝られん」


 一度は、深く孔明に心服した彼も、その心服の度がこえると、たちまち、将来の恐怖に変った。いっその事、劉備を先に討ち、孔明を殺してから、曹操と戦わんか。――などと云い出したが、


「小事にとらわれて、大事を棄つる理がありましょうか。しかも眼前に、あらゆる計画はもうできているのに」
 と、魯粛に(いさ)められて、迂愚ではない彼なので、たちまち、

「それは大きにそうだ!」


 と、曹操との大決戦に臨むべく、即刻、手分けを急ぎだした。


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登場人物紹介

劉備玄徳

劉備玄徳

ひげ

劉備玄徳

劉備玄徳

諸葛孔明《しょかつこうめい》

張飛

張飛

髭あり

張飛

関羽

関羽


関平《かんぺい》

関羽の養子

趙雲

趙雲

張雲

黄忠《こうちゅう》

魏延《ぎえん》

馬超

厳顔《げんがん》

劉璋配下から劉備配下

龐統《ほうとう》

糜竺《びじく》

陶謙配下

後劉備の配下

糜芳《びほう》

糜竺《びじく》の弟

孫乾《そんけん》

陶謙配下

後劉備の配下

陳珪《ちんけい》

陳登の父親

陳登《ちんとう》

陶謙の配下から劉備の配下へ、

曹豹《そうひょう》

劉備の配下だったが、酒に酔った張飛に殴られ裏切る

周倉《しゅうそう》

もと黄巾の張宝《ちょうほう》の配下

関羽に仕える

劉辟《りゅうへき》

簡雍《かんよう》

劉備の配下

馬良《ばりょう》

劉備の配下

伊籍《いせき》

法正

劉璋配下

のち劉備配下

劉封

劉備の養子

孟達

劉璋配下

のち劉備配下

商人

宿屋の主人

馬元義

甘洪

李朱氾

黄巾族

老僧

芙蓉

芙蓉

糜夫人《びふじん》

甘夫人


劉備の母

劉備の母

役人


劉焉

幽州太守

張世平

商人

義軍

部下

黄巾族

程遠志

鄒靖

青州太守タイシュ龔景キョウケイ

盧植

朱雋

曹操

曹操

やけど

曹操

曹操


若い頃の曹操

曹丕《そうひ》

曹丕《そうひ》

曹嵩

曹操の父

曹洪


曹洪


曹徳

曹操の弟

曹仁

曹純

曹洪の弟

司馬懿《しばい》仲達《ちゅうたつ》

曹操配下


楽進

楽進

夏侯惇

夏侯惇《かこうじゅん》

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

夏侯惇

曹操の配下

左目を曹性に射られる。

韓浩《かんこう》

曹操配下

夏侯淵

夏侯淵《かこうえん》

典韋《てんい》

曹操の配下

悪来と言うあだ名で呼ばれる

劉曄《りゅうよう》

曹操配下

李典

曹操の配下

荀彧《じゅんいく》

曹操の配下

荀攸《じゅんゆう》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

許褚《きょちょ》

曹操の配下

徐晃《じょこう》

楊奉の配下、後曹操に仕える

史渙《しかん》

徐晃《じょこう》の部下

満寵《まんちょう》

曹操の配下

郭嘉《かくか》

曹操の配下

曹安民《そうあんみん》

曹操の甥

曹昂《そうこう》

曹操の長男

于禁《うきん》

曹操の配下

王垢《おうこう》

曹操の配下、糧米総官

程昱《ていいく》

曹操の配下

呂虔《りょけん》

曹操の配下

王必《おうひつ》

曹操の配下

車冑《しゃちゅう》

曹操の配下、一時的に徐州の太守

孔融《こうゆう》

曹操配下

劉岱《りゅうたい》

曹操配下

王忠《おうちゅう》

曹操配下

張遼

呂布の配下から曹操の配下へ

張遼

蒋幹《しょうかん》

曹操配下、周瑜と学友

張郃《ちょうこう》

袁紹の配下

賈詡

賈詡《かく》

董卓

李儒

董卓の懐刀

李粛

呂布を裏切らせる

華雄

胡軫

周毖

李傕

李別《りべつ》

李傕の甥

楊奉

李傕の配下、反乱を企むが失敗し逃走

韓暹《かんせん》

宋果《そうか》

李傕の配下、反乱を企むが失敗

郭汜《かくし》

郭汜夫人

樊稠《はんちゅう》

張済

張繍《ちょうしゅう》

張済《ちょうさい》の甥

胡車児《こしゃじ》

張繍《ちょうしゅう》配下

楊彪

董卓の長安遷都に反対

楊彪《ようひょう》の妻

黄琬

董卓の長安遷都に反対

荀爽

董卓の長安遷都に反対

伍瓊

董卓の長安遷都に反対

趙岑

長安までの殿軍を指揮

徐栄

張温

張宝

孫堅

呉郡富春(浙江省・富陽市)の出で、孫子の子孫

孫静

孫堅の弟

孫策

孫堅の長男

孫権《そんけん》

孫権

孫権

孫堅の次男

朱治《しゅち》

孫堅の配下

呂範《りょはん》

袁術の配下、孫策に力を貸し配下になる

周瑜《しゅうゆ》

孫策の配下

周瑜《しゅうゆ》

周瑜

張紘

孫策の配下

二張の一人

張昭

孫策の配下

二張の一人

蒋欽《しょうきん》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

湖賊だったが孫策の配下へ

周泰《しゅうたい》

孫権を守って傷を負った

陳武《ちんぶ》

孫策の部下

太史慈《たいしじ》

劉繇《りゅうよう》配下、後、孫策配下


元代

孫策の配下

祖茂

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

程普

孫堅の配下

韓当

孫堅の配下

黄蓋

孫堅の部下

黄蓋《こうがい》

桓楷《かんかい》

孫堅の部下


魯粛《ろしゅく》

孫権配下

諸葛瑾《しょかつきん》

諸葛孔明《しょかつこうめい》の兄

孫権の配下


呂蒙《りょもう》

孫権配下

虞翻《ぐほん》

王朗の配下、後、孫策の配下

甘寧《かんねい》

劉表の元にいたが、重く用いられず、孫権の元へ

甘寧《かんねい》

凌統《りょうとう》

凌統《りょうとう》

孫権配下


陸遜《りくそん》

孫権配下

張均

督郵

霊帝

劉恢

何進

何后

潘隠

何進に通じている禁門の武官

袁紹

袁紹

劉《りゅう》夫人

袁譚《えんたん》

袁紹の嫡男

袁尚《えんしょう》

袁紹の三男

高幹

袁紹の甥

顔良

顔良

文醜

兪渉

逢紀

冀州を狙い策をねる。

麹義

田豊

審配

袁紹の配下

沮授《そじゅ》

袁紹配下

郭図《かくと》

袁紹配下


高覧《こうらん》

袁紹の配下

淳于瓊《じゅんうけい》

袁紹の配下

酒が好き

袁術

袁胤《えんいん》

袁術の甥

紀霊《きれい》

袁術の配下

荀正

袁術の配下

楊大将《ようたいしょう》

袁術の配下

韓胤《かんいん》

袁術の配下

閻象《えんしょう》

袁術配下

韓馥

冀州の牧

耿武

袁紹を国に迎え入れることを反対した人物。

鄭泰

張譲

陳留王

董卓により献帝となる。

献帝

献帝

伏皇后《ふくこうごう》

伏完《ふくかん》

伏皇后の父

楊琦《ようき》

侍中郎《じちゅうろう》

皇甫酈《こうほれき》

董昭《とうしょう》

董貴妃

献帝の妻、董昭の娘

王子服《おうじふく》

董承《とうじょう》の親友

馬騰《ばとう》

西涼の太守

崔毅

閔貢

鮑信

鮑忠

丁原

呂布


呂布

呂布

呂布

厳氏

呂布の正妻

陳宮

高順

呂布の配下

郝萌《かくほう》

呂布配下

曹性

呂布の配下

夏侯惇の目を射った人

宋憲

呂布の配下

侯成《こうせい》

呂布の配下


魏続《ぎぞく》

呂布の配下

王允

貂蝉《ちょうせん》

孫瑞《そんずい》

王允の仲間、董卓の暗殺を謀る

皇甫嵩《こうほすう》

丁管

越騎校尉の伍俘

橋玄

許子将

呂伯奢

衛弘

公孫瓉

北平の太守

公孫越

王匡

方悦

劉表

蔡夫人

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

劉琦《りゅうき》

劉表の長男

蒯良

劉表配下

蒯越《かいえつ》

劉表配下、蒯良の弟

黄祖

劉表配下

黄祖

陳生

劉表配下

張虎

劉表配下


蔡瑁《さいぼう》

劉表配下

呂公《りょこう》

劉表の配下

韓嵩《かんすう》

劉表の配下

牛輔

金を持って逃げようとして胡赤児《こせきじ》に殺される

胡赤児《こせきじ》

牛輔を殺し金を奪い、呂布に降伏するも呂布に殺される。

韓遂《かんすい》

并州《へいしゅう》の刺史《しし》

西涼の太守|馬騰《ばとう》と共に長安をせめる。

陶謙《とうけん》

徐州《じょしゅう》の太守

張闓《ちょうがい》

元黄巾族の陶謙の配下

何曼《かまん》

截天夜叉《せってんやしゃ》

黄巾の残党

何儀《かぎ》

黄巾の残党

田氏

濮陽《ぼくよう》の富豪

劉繇《りゅうよう》

楊州の刺史

張英

劉繇《りゅうよう》の配下


王朗《おうろう》

厳白虎《げんぱくこ》

東呉《とうご》の徳王《とくおう》と称す

厳与《げんよ》

厳白虎の弟

華陀《かだ》

医者

鄒氏《すうし》

未亡人

徐璆《じょきゅう》

袁術の甥、袁胤《えんいん》をとらえ、玉璽を曹操に送った

鄭玄《ていげん》

禰衡《ねいこう》

吉平

医者

慶童《けいどう》

董承の元で働く奴隷

陳震《ちんしん》

袁紹配下

龔都《きょうと》

郭常《かくじょう》

郭常《かくじょう》の、のら息子

裴元紹《はいげんしょう》

黄巾の残党

関定《かんてい》

許攸《きょゆう》

袁紹の配下であったが、曹操の配下へ

辛評《しんひょう》

辛毘《しんび》の兄

辛毘《しんび》

辛評《しんひょう》の弟

袁譚《えんたん》の配下、後、曹操の配下

呂曠《りょこう》

呂翔《りょしょう》の兄

呂翔《りょしょう》

呂曠《りょこう》の弟


李孚《りふ》

袁尚配下

王修

田疇《でんちゅう》

元袁紹の部下

公孫康《こうそんこう》

文聘《ぶんぺい》

劉表配下

王威

劉表配下

司馬徽《しばき》

道号を水鏡《すいきょう》先生

徐庶《じょしょ》

単福と名乗る

劉泌《りゅうひつ》

徐庶の母

崔州平《さいしゅうへい》

孔明の友人

諸葛均《しょかつきん》

石広元《せきこうげん》

孟公威《もうこうい》

媯覧《ぎらん》

戴員《たいいん》

孫翊《そんよく》

徐氏《じょし》

辺洪

陳就《ちんじゅ》

郄慮《げきりょ》

劉琮《りゅうそう》

劉表次男

李珪《りけい》

王粲《おうさん》

宋忠

淳于導《じゅんうどう》

曹仁《そうじん》の旗下《きか》

晏明

曹操配下

鍾縉《しょうしん》、鍾紳《しょうしん》

兄弟

夏侯覇《かこうは》

歩隲《ほしつ》

孫権配下

薛綜《せっそう》

孫権配下

厳畯《げんしゅん》

孫権配下


陸績《りくせき》

孫権の配下

程秉《ていへい》

孫権の配下

顧雍《こよう》

孫権配下

丁奉《ていほう》

孫権配下

徐盛《じょせい》

孫権配下

闞沢《かんたく》

孫権配下

蔡薫《さいくん》

蔡和《さいか》

蔡瑁の甥

蔡仲《さいちゅう》

蔡瑁の甥

毛玠《もうかい》

曹操配下

焦触《しょうしょく》

曹操配下

張南《ちょうなん》

曹操配下

馬延《ばえん》

曹操配下

張顗《ちょうぎ》

曹操配下

牛金《ぎゅうきん》

曹操配下


陳矯《ちんきょう》

曹操配下

劉度《りゅうど》

零陵の太守

劉延《りゅうえん》

劉度《りゅうど》の嫡子《ちゃくし》

邢道栄《けいどうえい》

劉度《りゅうど》配下

趙範《ちょうはん》

鮑龍《ほうりゅう》

陳応《ちんおう》

金旋《きんせん》

武陵城太守

鞏志《きょうし》

韓玄《かんげん》

長沙の太守

宋謙《そうけん》

孫権の配下

戈定《かてい》

戈定《かてい》の弟

張遼の馬飼《うまかい》

喬国老《きょうこくろう》

二喬の父

呉夫人

馬騰

献帝

韓遂《かんすい》

黄奎

曹操の配下


李春香《りしゅんこう》

黄奎《こうけい》の姪

陳群《ちんぐん》

曹操の配下

龐徳《ほうとく》

馬岱《ばたい》

鍾繇《しょうよう》

曹操配下

鍾進《しょうしん》

鍾繇《しょうよう》の弟

曹操配下

丁斐《ていひ》

夢梅《むばい》

許褚

楊秋

侯選

李湛

楊阜《ようふ》

張魯《ちょうろ》

張衛《ちょうえい》

閻圃《えんほ》

劉璋《りゅうしょう》

張松《ちょうしょう》

劉璋配下

黄権《こうけん》

劉璋配下

のち劉備配下

王累《おうるい》

王累《おうるい》

李恢《りかい》

劉璋配下

のち劉備配下

鄧賢《とうけん》

劉璋配下

張任《ちょうじん》

劉璋配下

周善

孫権配下


呉妹君《ごまいくん》

董昭《とうしょう》

曹操配下

楊懐《ようかい》

劉璋配下

高沛《こうはい》

劉璋配下

劉巴《りゅうは》

劉璋配下

劉璝《りゅうかい》

劉璋配下

張粛《ちょうしゅく》

張松の兄


冷苞

劉璋配下

呉懿《ごい》

劉璋の舅

彭義《ほうぎ》

鄭度《ていど》

劉璋配下

韋康《いこう》

姜叙《きょうじょ》

夏侯淵《かこうえん》

趙昂《ちょうこう》

楊柏《ようはく》

張魯配下

楊松

楊柏《ようはく》の兄

張魯配下

費観《ひかん》

劉璋配下

穆順《ぼくじゅん》

楊昂《ようこう》

楊任

崔琰《さいえん》

曹操配下


雷同

郭淮《かくわい》

曹操配下

霍峻《かくしゅん》

劉備配下

夏侯尚《かこうしょう》

曹操配下

夏侯徳

曹操配下

夏侯尚《かこうしょう》の兄

陳式《ちんしき》

劉備配下

杜襲《としゅう》

曹操配下

慕容烈《ぼようれつ》

曹操配下

焦炳《しょうへい》

曹操配下

張翼

劉備配下

王平

曹操配下であったが、劉備配下へ。

曹彰《そうしょう》

楊修《ようしゅう》

曹操配下

夏侯惇

費詩《ひし》

劉備配下

王甫《おうほ》

劉備配下

呂常《りょじょう》

曹操配下

董衡《とうこう》

曹操配下

李氏《りし》

龐徳の妻

成何《せいか》

曹操配下

蒋済《しょうさい》

曹操配下

傅士仁《ふしじん》

劉備配下

徐商

曹操配下


廖化

劉備配下

趙累《ちょうるい》

劉備配下

朱然《しゅぜん》

孫権配下


潘璋

孫権配下

左咸《さかん》

孫権配下

馬忠

孫権配下

許靖《きょせい》

劉備配下

華歆《かきん》

曹操配下

呉押獄《ごおうごく》

典獄

司馬孚《しばふ》

司馬懿《しばい》の弟

賈逵《かき》


曹植


卞氏《べんし》

申耽《しんたん》

孟達の部下

范疆《はんきょう》

張飛の配下

張達

張飛の配下


関興《かんこう》

関羽の息子

張苞《ちょうほう》

張飛の息子

趙咨《ちょうし》

孫権配下

邢貞《けいてい》

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