第121話、器
文字数 5,404文字
呉侯の妹、劉備の夫人は、やがて呉の都へ帰った。
孫権はすぐ妹に
いぶかる妹を、
「予の妹は、劉備の留守に、その家臣どもから追われ、今日、呉へ立ち帰った。かくなる上は、呉と荊州とは、事実上、なんらの縁故もないことになった。即時、大軍を起して、荊州を収め、多年の懸案を一挙に解決してしまおうと思う。それについて、策あらば申し立てよ」
すると、議事の半ばに、江北の
「曹操四十万の大軍を催し、赤壁の仇を報ぜんと、刻々、南下して参る由」と、あった。
俄然、軍議は緊張を呈した。
ところへまた、内務吏から、
「重臣の
折も折である。呉の建業以来の功臣。孫権は涙しながらその遺書を見た。
張紘の遺書には
孫権は、一方には、刻々迫る戦機を見ながら、一面直ちに、その居府を、建業(
かくてその地には、白頭城が築かれ、旧府の市民もみな移ってきた。
また、
もちろんこれは、やがて来るべきものに対する国防の一端である。来るべきもの、それは曹操の南下だ。
曹操はそれよりもずっと早くから宿望の南征と呉への報復にもっぱら軍備の拡充を計っていた。
すでに四十万の大編制は、
「いつでも」と、いう態勢を整えたので、いよいよ許都を発しようとすると、長史
どんな英傑でも、
むかし青年時代、まだ宮門の一警手にすぎなかった頃の曹操は、胸いっぱいの志は燃えていても、地位は低く、身は貧しく、たまたま、同輩の者が、上官に
実に、かつての曹操は、そういう颯爽たる気概をもった青年だった。
ところが、近来の彼はどうだろう。赤壁の役の前、観月の船上でも、うたた自己の老齢をかぞえていたが、老来まったく青春時代の逆境に
彼もいつか、むかしは
いま重臣
(この際、魏公の位に登って九錫を加えられては如何ですか)
と、すすめられると、曹操はなにをはばかる考えもなくすぐに、
と、すぐその気になって、朝廷にそのゆるしを求めた。もちろんその意のままになる。彼は以後、魏公と称し、出るも入るも、九錫の儀仗に護られる身となった。
それを知った
涙をふくんで
と、近侍へいいつけながら、大歩して去ってしまった。
以来、荀彧は、病と称して、自邸にひき籠ってしまった。建安十七年冬十月、いよいよ南下の大軍は都を出ることになったが、彼はなお、曹操から呼びに来ても、
と、参加を辞した。
荀彧のもとへ使者が来た。
「
食物を入れる器だった。
見ると、器の上には、
すでに南征の大軍は、水陸から続々と呉へ下っていた。
途中、曹操へ、都から知らせがあった。
「荀彧が毒をのみました」
曹操は瞼をとじた。ほろ苦い眉をひそめて。
しばらく黙っていたが、やがて、
それきり何もいわなかった。多少、悔ゆる色がないでもない。
日をかさねて、行軍は
曹操は、山へ登った。そして遥かに、呉の陣を見わたすと、長江の支流は百
敵はその辺りを
左右の大将を戒めながら彼が山を降りかけた時である。
山の麓近くの江から
曹操は、山を降りると、敢然、陣頭に出て乱れ立つ味方をととのえた。
すると彼方の堤の上に、
その声に、曹操は振り向いた。
わざと曹操は大喝した。自分よりはるかに若い孫権と、剣槍をもって闘う気はない。威だけを示して逃げようとした。
と、その気を察して、孫権の左右から、
危地に陥ったかと曹操の身が困難に見えたとき、彼の味方もまた、鼓を鳴らして、孫権のうしろを突きくずし、乱軍の
この晩、いちど退いたかとみえた呉軍が
遠征の疲労にあった魏の兵は、不覚にも不意をくって、呉の勢に馳け破られ、おびただしい死者をすてて総軍五十里ほど陣を退くのやむなきに立ち至った。
曹操は
なにか、天来の妙計を、それから求めようとしている悶えがわかる。
その晩、曹操は、ふしぎな夢を見た。
翌建安十八年、正月となっても、はかばかしい戦況の展開はなく、二月に入ると、毎日、ひどい大雨がつづいて、戦争どころでなくなってしまった。
人類がこの地上で遭遇した大雨の記録を破ったろうと思われるほどな雨量だった。日夜大雨はやまず、陣小屋も馬つなぎも、ことごとく流され、曹操の中軍すら、
次には当然、食糧難が起ってきた。兵はうらみを含み郷愁を思う。
諸将の意見もまちまちだった。硬論を主張するものは、陽春の候もやがて近し、死馬を喰って頑張っても、その時を待って一戦を決せずんば、遥かに南下した
こういう状態の中へ、呉侯孫権から一書が来た。文に
予モ君モ共ニ漢朝ノ臣タリ、マタ民ヲ
建安十八年春二月呉侯孫権書。
ふと、書簡の裏を見ると、
と、書いてある。
曹操は苦笑して、次の日、
あっさりと、引揚げを命令した。
呉軍も、それを見て、みな
孫権はすっかり自信を得て、
と、群臣に
宿老の張昭は、いつも若い孫権に歯止めの役割をしていたが、このときも次のようにいった。
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