第1話、洛陽船
文字数 2,796文字
ゆるやかに、黄河を下ってくる船の影は、日を背負って黒く、徐々に眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い
船はスルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。
百戸ばかりの水村がある。
今日、洛陽船を待っていた人々が岸には沢山いた。ロバをひいた仲買人の群れだの、
なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城がある。珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。
幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村など、市の立つところに船を寄せて、交易した。
ここでも、夕方にかけて、おそろしく騒がしく、またあわただしい取引が始まった。
一人の青年がいた。
年の頃は二十四、五、腰に、剣を佩いているほか、身なりは見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな瞳や、豊な頬をしていて、総じて賤な様子がなかった。
市のやかましい人声と人影の中に立ちまじって、彼は、まごついていた。
青年は、劉備玄徳、
茶が、仲買人の手に渡ると莫大な値になって、とても自分の貧しい懐具合では、あがなえなくなるからであった。
劉備は、船の商人らしい男を見かけて、あわててそばへ寄って行った。
洛陽船の商人は、困ったような顔をした。
彼の声は、懸命だった。
茶がいかに貴重か、高価か、また、この辺りにはまだない物かは、彼もよくわきまえていた。
その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだと聞いている。
劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。
――だが、彼の懸命な態度を見ると、洛陽船の商人も、やや心を動かされたとみえた。
彼は、懐中の革嚢を取出し、銀や砂金を取りまぜて、相手の両掌へ、惜しげもなくそれを皆あけた。
洛陽の商人は、掌の上の目量を計りながら、
劉備は、剣の緒にさげている、ろうかんの珠を解いて出した。洛陽の商人はろうかんなどは珍しくない顔つきをして見ていたが、
と、船室から、錫の小さい壺を一つ持ってきて、劉備に与えた。
劉備は、錫の小壺を、両掌に持って、岸を離れてゆく船の影を拝んだ。瞼には、母のよろこぶ顔がちらついていた。
黄河は暗くなりかけていた。見上げると、西南に、妖猫の眼のような大きな星がまたたいていた。その星の光をよく見ていると虹色のかさが、ぼっとさしていた。
――世の中がいよいよ乱れる凶兆だ。と、近頃しきりと、世間の者が怖がっている星である。それが、よく見えた。
ここから故郷の
と、劉備は考えた。
彼方を見ると、水村の灯が二つ三つまたたいている。彼は村の木賃宿に泊まった。
すると夜半頃。
劉備は、すぐ剣を身につけた。
裏口へ出てみるともう近所は焼けていた。家畜は、異様なうめきを放ち、女、子供は、焔の下に悲鳴をあげて逃げまどっていた。
昼のように大地は明るい。
見れば、夜叉のような人影が、矛や槍や鉄杖をふるって、逃げ散る旅人や村の者らを手あたり次第に殺戮していた。眼をおおうような地獄が、えがかれていた。
それらの悪鬼は皆、結髪のうしろに、黄色の巾を巻いていた。黄巾賊の名は、そこから起ったものである。本来は支那の、この国のもっとも尊い色であるはずの国色も、今は、善良な民の眼をふるえ上がらせる、悪鬼の象徴になっていた。
劉備は思わず剣に手をかけたが思いとどまった。
剣の勇では、百人の賊を斬ることもむずかしい。たとえ百人の賊を斬れたとしても、天下は救われはしない。黄巾の乱賊はこの地方にだけいるわけではないのだ。イナゴのように天下いたるところに群をなして跳梁している。
それに、母がある。――自分には自分を頼みに生きているただ一人の母がある。
母を悲しませ、わずかばかりの賊を道ずれに、自分の一命と取換えたとて何になろう。
劉備は、眼をおおって、裏口からのがれた。
闇夜を駈けつづけ、村をはなれた山道までたどりついた。
汗をぬぐって振りかえると、焼きはらわれた水村は、荒野の果ての焚火よりも小さい火にしか見えなかった。
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