セリフ詳細

「いや、あなた方のお眼に、そう映るのは無理もありません。大鵬(たいほう)という鳥がある。よく万里を翔破(しょうは)します。しかし大鵬の志は燕雀の知る限りではない。古人もいっている――善人が(くに)を治めるには百年を期して良く(ざん)()(さつ)を去って()す――と。たとえば重い病人を治すには、まず(かゆ)を与え、やわらかな薬餌(やくじ)から始める。そして臓腑(ぞうふ)血気の調(ととの)うのを待って、徐々、強食をすすめ、精薬を以てその病根をきる。――これを逆にして、気脈もととのわぬ重態に、いきなり肉食猛薬を与えたら、病人の生命はどうなりましょう。いま天下の大乱は、重病者の気脈のごとく、万民の窮状は、瀕死の者の気息にも似ている。これを医し(いや)さんに、なんで短兵急にまいろうか。――しかも天下の医たるわが劉予州の君には、汝南(じょなん)の戦にやぶれ、新野の僻地に(かが)み、城郭(かた)からず、甲兵(まった)からず、粮草(ろうそう)なおとぼしき間に、曹操が百万の強襲をうけ給う。これに当るはみずから死を求めるのみ。これを避けるは兵家の常道であり、また百年の大志を後に期し給うからである。――とはいえ、白河の激水に、夏侯惇(かこうじゅん)、曹仁の(ともがら)を奔流の計にもてあそび、博望の谿間(たにま)にその先鋒を焼き(ただら)し、わが軍としては、退()くも堂々、決して醜い潰走はしていません。――ただ当陽の野においては、みじめなる離散を一時体験しましたが、これとて、新野の百姓老幼数万のものが、君の徳を慕いまいらせ、陸続ついて来たために――一日の行程わずか十里、ついに江陵(こうりょう)に入ることができなかった結果です。それもまた主君劉備の仁愛を証するもので、恥なき敗戦とは意義が違う。むかし()項羽(こうう)は戦うごとに勝ちながら、垓下(がいか)の一敗に倒るるや、高祖に亡ぼされているでしょう。韓信(かんしん)は高祖に仕え、戦えど戦えど、ほとんど、勝ったためしのない大将であるが、最後の勝利は、ついに高祖のものとしたではありませんか。これ、大計というもので、いたずらに晴の場所で雄弁を誇り、局部的な勝敗をとって功を論じ、社稷(しゃしょく)百年の計を、坐議立談するが如き軽輩な人では、よく解することはできますまい」

作品タイトル:三国志

エピソード名:第94話、呉、紛糾

作者名:畑山  hatakeyama

126|歴史|完結|156話|1,238,935文字

三国志

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青空文庫より、吉川英治、三国志をチャットノベル化
幾分、内容文章を変えています。