2022.3.16~2022.3.31

文字数 2,340文字

 ちっとも要領を得ないと友人は言った。
「寄り道する、振り出しに戻る、普段から迷走はなはだしいのに、今日は輪にかけて酷いじゃないか。寝癖のことなんてどうでもいいから、さっさと結論を言え」
「うん」私は居住まいを正し、
「結婚するんだ」
 友人はひっくり返った。してやったり。
 (2022.3.16)


 用を足して個室を出ると、風景に違和感があった。壁際に整然と並ぶこれは…小便器!?ここ女性用トイレじゃないの?!
 不意に人の気配を感じて、慌てて個室に飛び込む。声を殺したまま独り錯乱する。ここからどうやって出ればいいのか……私は人生最大の危機を、男性用トイレで迎えている!
 (2022.3.17)


「また要らない買い物して!」
 妻はカンカンだが、的外れなことを言うなといつも思う。買いたいと思ったら、それは必要なものなのだ。だから買うのである。もちろんこんなことを言ったらただでは済まないので、大人しく黙っているが。
「返品しなさい!」
 命が下り、臣下はしぶしぶ頷く。
 (2022.3.18)


 一同に介したスタッフを前に、私は閉店の報告をした。業績の低迷を打開することはできなかった。努めて冷静を保とうとしたが無理だった。不甲斐なさに涙が溢れてくる。スタッフは呆気にとられて言葉もない様子だ。罵られたほうがどれほど気が楽だろうか。重苦しい沈黙が喉を締め上げる。
 (2022.3.19)


 枝に一羽のカラスが留まり、私たちを視ている。気味が悪いと相棒は言い、私は素直に頷いた。普段はカラスがいようが黒猫が横切ろうがどうということはないが、さすがに時と場合によるわけで、とりわけ今のような状況ならどんな凶兆でも恐れ戦こうというものだ。
「さっさと埋めちまおう」
 (2022.3.20)


「先生、ありがとうございました」患者は礼を述べた。
「あんなに辛かった不眠症が嘘みたいだ」
「お大事にね」
 患者が帰り、私は検体を眺める。それは患者の脳から摘出した腫瘍だ。丸く太り、短い管が伸びている。眠りを養分に肥大するこれは『獏』と呼ばれ、近年増えている症例である。
 (2022.3.21)


 息子とサシ飲み。
「芋焼酎のロックで」
 おお、一杯目からいくじゃないか。
「飲むようになったなぁ。昔はビールで苦い苦い言ってたのに」
「もう子供じゃないんだよ。父さんは?」
「生ビールの中」
「えー、昔は麦焼酎のロックだったじゃん」
「もう若くないんだよ」
 親子、笑い合う。
 (2022.3.22)


「おつかれ」
 同僚に肩を叩かれ、視界が輪郭を取り戻す。些細なつまづきに、信じられないくらいにヘコんでしまったのだ。
「そんなときもあるって」
「うん……お前はポジティブでうらやましいよ」
「良し悪しさ。いつか取り返しのつかないことをしそうで恐い」
 悩みのかたちは人それぞれ。
 (2022.3.23)


 経理課長はネチネチと小言を垂れ続ける。レジの不足を手出しで補ったのは確かに悪い。だけど、どの店舗でもやっていることだ。経理課長も当然知っている。タイミングで叱られたんじゃたまったもんじゃない。こっちも接客で余裕ないんだ、本気で改善したいなら自動精算機を買ってくれよ。
 (2022.3.24)


 はるか昔、地球は平らだった。神さまが隅々まで見渡せるようにするためだ。しかし好奇心を持った人間が端まで行って落ちてしまい、苦情を受けた神さまは仕方なく地球を丸めた。すると人間は目が届かないのをいいことに、好き勝手やり始めた。神さまはついに匙を投げ、青い星を見捨てた。
 (2022.3.25)


 彼氏の部屋着がひどい。襟がヨレヨレになったスウェット、ゴムの伸び切ったジャージ……外に出る時はオシャレだし、性格容貌に非の打ち所はない。部屋着くらい何を着ていてもいいじゃないかと思うが、一方で好きなひとの前ではちゃんとしててほしいとも思う。私の理想、高すぎるのかな……。
 (2022.3.26)


 高層マンションから住人が転落死した。向かいのビルから目撃した女性の証言では、ベランダに走り出て、ひと息に柵を乗り越えたという。
「……ちょっと署までご同行願えますか」
「えっ?!」
 混乱する女性。警察もやむを得ない措置だった。被害者は手術で膝から下を切断していたのだから。
 (2022.3.27)


 誰でもアイドルになれる時代、希少性は失われたかもしれないけれど、有象無象との差ははっきりするようになった。私はかわいい――鏡の前でしゃもじをマイクにしたあの日から、自負は一度も揺らいだことがない。胸を張ってステージに向かう。みんな、見ていて。私は死ぬまでアイドルだから。
 (2022.3.28)


 大切なひとが辱しめられたとき、自分ならどうするだろう。殴る勇気はない。かといって受け流せるとも思えない。気の利いた返しなんてもっての他だ。感情が混線し、結果、言葉なく立ち尽くすことになってしまいそうだ。それは何より恐い。大切なひとを守るとは、どういうことなのだろう。
 (2022.3.29)


 畑違いの総務に異動して初日、初めて自分の給与明細をまともに見た。総支給からどれほどの保険料や税金が引かれていたかを知り、愕然とする。給与処理担当の後任として、この先正気を保っていられるだろうか。
「今のうちよ」先輩は笑う。
「そのうち数字の羅列にしか見えなくなるから」
 (2022.3.30)


 クリーニングを終えたリクルートスーツがホッとしているように見えたのは、自分の心が重なったからだろう。明日から始まる社会人生活。インターンで感じた雰囲気は良かったけれど、社員になってもそうとは限らない。全てはこれから。今日までありがとね――戦友はクローゼットで眠りに就く。
 (2022.3.31)
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