2021.8.1~2021.8.15

文字数 2,189文字

「無理はしないで」
 気づいている?そんな優しい言葉が、ぼくに小さな傷をつけるんだ。傷口から滲んだ血が、指を滑らせ、目を霞ませる。行く道を阻む。無理はするよ。成し遂げたいことが、辿り着きたい場所があるんだから。ぼくのことを思っているなら、どうか黙って、信じていてほしい。
 (2021.8.1)


 笛が鳴った。試合終了、チームは勝利に届かなかった。悔し涙を流すあなたを見て、私も胸が熱くなる。だけどそれは気持ちが同調したからでなく、恋しい相手の素顔に触れたことへの感動だ。ただそのために、私はマネージャーとしてここに居る。スポーツの神さま、不信心をお許しください。
 (2021.8.2)


 義父は日がな一日、向かいの窓の外を眺めている。元刑事というのが嘘のような好好爺だ。
「今日は隣の若夫婦が静かだね。いつも喧嘩しててうるさいのに」
「出かけてるんじゃないですか?」
「車はあるよ」
「ああ……」
「それに雨戸も締め切ってる。変だねえ」
 急にきな臭くなってきた。
 (2021.8.3)


 伸び放題になっていた公園の芝生が手入れされていた。さっぱりと刈られて、見通しも良くなっている。不意に鋭い気配を感じて、辺りを見回す。木陰に、一匹の茶トラが佇んでいた。伸びた草の中で遊んでいたやつだ。芝生にひたと据えられた視線には、怒りとも悲しみとも取れる光があった。
 (2021.8.4)


 投げ込まれた変化球は、わずかにゾーンから逸れた。が、
「ストライク!」
 私は声高くコールする。バッターの不審な視線も意に介さず、プレー続行を告げる。まだ若いが、いい目をしていると思う。だがそれだけではダメだ。この世界には、私のような邪な輩もいることを知ったほうがいい。
 (2021.8.5)


 植物に心は無いとでも?とんでもない!あの日、過ちの火で焼かれた記憶はその身に蓄えられ、果実は次の世代へ遺恨を繋いでいる。彼らはこの世に満ちる人間を恨む。そこに個はない。我々が蛇という生き物を忌むように、種族自体を呪っている。葉擦れが聴こえるか?許さぬ許さぬと叫ぶ……。
 (2021.8.6)


 献体は、初恋の相手だった。
 悲しみはない。私が知る彼女は10歳の少女だ。転校を見送ったのが最後、私のなかで彼女は、あの遠い日のままなのだ。目の前に横たわっているのは、彼女の名前と身体をした中年女性の遺体だ。私は躊躇うことなくメスを入れる。
 指先に、かすかな反発が伝わる。
 (2021.8.7)


 行方不明の主婦は、自宅の押入の奥、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた蒲団の中で発見された。死因は窒息。生前、何かに怯える素振りを見せていたらしい。見つかってしまう、と。
「見つかっちゃったんでしょうか」
 不用意に発言する部下を叱りつつも、刑事の鼻はそこに真実を嗅ぎ取っていた。
 (2021.8.8)


 毎日は喜びや幸せで満ちている。花が咲いている、同僚が優しい、ごはんが美味しい……私はそれらを見つける才に長けていて、他人にはつまらなく思える日々を楽しく生きている。それを向上心がないと責められるのは不愉快だ。私は手元のきらめきで満足している。その何がいけないのだろう。
 (2021.8.9)


「まただ」
 雑居ビルの一階、路地に面した一角。小洒落たパン屋は週末を挟んで、若者向けのスムージーショップに変わっていた。もう何度めだろう。ここに入った店は長続きした試しがない。評判は良くないはずなのにそれでも空きが出ることがないのは、よほど大家の口が巧いか、はたまた。
 (2021.8.10)


 便器に腰掛け用を足す。今日も快腸だ。終えてふと見れば、出したものが水の中に屹立していた。脳裏に群れて眠る鯨たちが想い起こされて、我ながらバカだなと声もなく笑えば、代わりに屁が出てもうどうしようもない。渦に消える彼らを見送り、ズボンを上げて、はっと気づく。拭いてない。
 (2021.8.11)


 ヤバい、エモい……若者が使う言葉は難解だ。だけど私たちの若い頃だって、当時の大人には理解できない言葉を使っていたし、もっと遡れば、あなわびしや、いとをかしの世界になってくるだろう。その時代には、その言葉でしか表せない感情がある。廃れ生まれの連なりの先に、私たちがいる。
 (2021.8.12)


 肩まで伸ばしていた髪をばっさりと切った。初めてのシースルーマッシュ。鏡の中に新しいわたしがいる。これなら……と意地悪な知人が、
「なに、フラれたの?」
 来ると思った。わたしは用意していた弾を撃つ。
「彼氏からどうしてもって言われて!」
 効果てき面。さあ、彼に会いに行こう。
 (2021.8.13)


 迎え火を終え、仏壇に手を合わせる。我が家の盆棚に精霊馬はいない。というのも先祖代々○○乗りなのだ。単車、船、電車、飛行機……そんな面々に馬や牛はなかろうというわけだ。私が向こうに行くときは、また新たな乗り物な加わることになる。が、さすがにスペースシャトルは速すぎるか。
 (2021.8.14)


 世界にひとつ、私だけの喫茶店――そんなもの存在しないのだけれど、宵の散歩道、一軒だけ灯りのついた入り口を見つけたときには、幼稚な幻想すら信じてしまいたくなるのだ。あの日、雨上がりのアスファルトが匂って、私は恋を失くしたばかりだった。下ろし立ての靴が踵に血を滲ませていた。
 (2021.8.15)
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