2021.6.16~2021.6.30

文字数 2,196文字

 たまに見る夢。演奏会本番まで間もなくというのに、一回も練習していない状態。さらには手元に譜面すらない。曲目は知っているが、一、二度聴いた程度。楽器の搬送は着々と進むが、内心それどころではない。そんなこんなで必ず開演前に目が覚める。これは一体、いかなる由縁であろうか。
 (2021.6.16)


 ホテルから出てきた元カノと鉢合わせてしまった。相手は見るからに堅気ではない雰囲気。こんな娘じゃなかったのに……。
「誰と付き合おうと勝手でしょ」
「いつまでも彼氏ヅラしてんじゃねえよ!」
 そう吐き捨てて、二人は雑踏に消えていく。ぼくはただ、彼らの不幸を祈るばかりだった。
 (2021.6.17)


 雨に濡れた路面は、従順な鯨のように、体重を受け止める。肉は冷たく、沈みもしない。地べたに長く寝そべって、切り刻まれた海を浴びている。泳いだ記憶は、噴き上がった潮のように、風に流れて消えてゆくだろう。そんな悲しい獣の背を、明日の出世を夢見ながら、ひたひたと踏んでいく。
 (2021.6.18)


 引き裂くような悲鳴を残し、ライオンは地に斃れた。斬り破られた腹部から、どろりと腸が流れ出す。男は拳を天に突き上げた。猛獣を倒せたら無罪放免――彼は無謀な賭けに勝ったのだ。
「さあ、おれを自由に!」
「王の所有物を破損させた罪で、死刑に処す」
 英雄は、産まれる時代が肝心だ。
 (2021.6.19)


 天井の羽目板が開いて、ざんばら髪の落武者の顔が覗いた。私はスケッチブックに鉛筆を走らせる。出てくる顔は日によって違う。幽霊の類いは信じるが怖くないので、その姿を写し取り好事家に売って日銭を稼ぐなどということもできるのだ。罰当たりだが、あの世よりこの世のほうが大事だ。
 (2021.6.20)


 スポットライトが、紫煙に迷って揺れている。バーに客はまばら。彼らの視線の先には、年若い奏者に抱かれたコントラバスが一挺。ごつい弓に擦られて歌うのは、ひと昔前のプロテスト・ソング。まるで苦界を生き抜いてきた老人が、太い鼻筋を鳴らし、喉を震わせまどろんでいるかのように。
 (2021.6.21)


 人は敷かれたレールの上しか走れない……本当に?きみがそう思い込んでいるだけじゃない?過ぎゆく景色を美しく感じたなら、もっと近くで見たい、触りたいと思ったなら、一歩足を踏み出してごらんよ。レールだと思い込んでいたそれは案外、夢破れた誰かの背骨だったりするかもしれないよ。
 (2021.6.22)


 あなたは、あの日海に落ちた燃えるような太陽を覚えていますか?地球最後の日没は美しく、多くの人々が涙を流したものです。もしもまた陽が昇るなら、その姿を見に行きたいと願うところですが、悲しいかな、私たちの目は星の光に慣れてしまい、二度と太陽を映すことは叶わないでしょう。
 (2021.6.23)


 鍵を壊し部屋に入る。中には死体が一つ、心臓にナイフが刺さっている。全ての出入口は施錠されている。もう確かめるまでもない。
「推理を始めたまえ」
 声が聴こえる。これは探偵になるための試験。私はもう三回失敗している。三人めの死体は知人のような気もするが見て見ぬふりをする。
 (2021.6.24)


 ある作家が殺人罪で逮捕された。国民的人気のヒーローを作中で死なせたのだ。四面楚歌の中、判決は死刑。減刑の条件として続編を書くことを提示されたが、作家は断固として拒否、牢で憤死した。その後多くの続編が書かれたが全て廃れ、ヒーローと作家は、今も死んだまま生き続けている。
 (2021.6.25)


 田園地帯の片隅に、ひと筋の塹壕が残されている。補強はなく、地面を掘っただけの簡素な造りだ。しかし異様なのはその深さだ。大人の身の丈の倍はある。地元の話では、愚鈍な新兵が止め時を逸して使い物にならなくなったという。覗き込むと確かに、底に茶色くなった骨があるのが見える。
 (2021.6.26)


 最悪だ。初彼氏の誕生日と張り切ったのに、注文していたプレゼントは配送トラブルで間に合わず、そしてケーキは落としてぐちゃぐちゃ。意気消沈したまま作った料理はもう何がなんだか……。
「ありがとう。元気出して」
 大きな手が頭を撫でる。うれしくて、恥ずかしくて、また泣けてきた。
 (2021.6.27)


 信じるに値しない話かどうかは大抵分かる。益ばかり並べて損を隠すようなものは、まさにそれだ。しかし話の巧さはまた別で、よくもこんな与太を淀みなく語れるものだと感心する。気づけば私の手には朱の付いた印鑑があり、目の前には一丁上がりと契約書が広げられている。困ったものだ。
 (2021.6.28)


 犬はベンチの下に寝そべって、まどろんでいた。三歳の諒太(りょうた)はおぼろげに名前を知っていたので、勇気を出して声をかけた。
「らぶらどー!」
 犬はのそりと首を持ち上げた。諒太の姿を認めると、あくびをひとつ、前足に顔を埋めた。諒太は拳を握って、眠る犬を眺めた。初めての冒険だった。
 (2021.6.29)


 おじさんにはよく分からないが、TikTokはすごく流行っている。うちの娘にもご贔屓がいて、真剣に振付を練習している。後ろから覗き込んだら恐ろしい顔で睨まれた。
「見んなって!」
 そそくさと退散するが、まんざらでもない。お前がお熱の女の子、実はアプリで加工したパパなんだよな。
 (2021.6.30)
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