2020.9.16~2020.9.30

文字数 2,201文字

 秋の冷たい雨は、鴉の身には耐え難い毒だった。黒より深く闇より淡いその羽は、透明なはずの雨に汚され、色を失っていく。鴉の珠のような眼が静かに伏せられて、羽が、肉が、いちじくのように剥け落ちていく。やがて雲が晴れ、陽が差す頃、そこに留まる鳥の正体を知るすべはないだろう。
(2020.9.16)


 内田(うちだ)愛翔(まなと)は年寄り臭い。平成生まれの二十代、名前も今風だが、仕草の端々にそれと見える瞬間がある。例えばバスに乗ったとき。座席に腰掛け、傘の柄に両手を載せて体重を預ける。その背の曲がり具合、口の絞り具合といったら、ない。まるで老いへの予行演習をしているように思えるのだ。
(2020.9.17)


「申し訳ございませんでした」
 深く腰を折る。こちらに非はなく、謝るべき罪などないのだ。しかし頭を下げなければ治まらない場というものがある。苦しい。胃が裏返りそうだ。引き結んだ口の中で、ぐっと歯を噛み締める。この苦しみは必ず力に変える。瞼は閉じず、じっと爪先を見据える。
(2020.9.18)


 破壊された寺院に首のない仏像が並ぶ。かつて起きた争乱のおり、敵国の兵士が働いた狼藉だ。持ち去られた頭部の行方は知れない。
 とある町の外れ。畦道に暴行を受け捨てられた死体がひとつ。その喉笛に食い込んだ銃弾は、固まった血で黒く凍りついている。
 さて、あなたは何を見ますか?
(2020.9.19)


 天気が良いので、秋の町歩きに繰り出す。お供にはシェイクスピアの悲劇を一冊。一見ちぐはぐだが、これがなかなかに合う。澄んだ風の流れるカフェテラスで読む、血なまぐさい人間模様。安らぎに振れた心を厳しさで振り戻す。何につけても偏りは好ましくない。私なりの調節の秘訣である。
(2020.9.20)


 服や靴を選ぶときは、ひと目惚れするかどうかにかかっている。「これいいな」ではなく「これしかない!」だ。説明不要の直感的好意は、試着によってより強固になる(どういうわけか、ぴたりと身幅に収まるのだ)。そうやって選んだものは飽きることがなく、長く私の生活に寄り添っている。
(2020.9.21)


 望むものは全て拒まれてきた。私が青い靴をねだったときも、 “お前にはこっちが似合うんだ” 大嫌いな赤い靴を買い与えられた。口答えをしたこともある。そのたびに酷く殴られた。ごめんなさい――謝罪の言葉だけは聞き入れられた。そして私は自分を失くし、親のための着せ替え人形になった。
(2020.9.22)


 拍も和音も
 何処へやら
 宵の汀を
 掻き乱し

 あわれ魚の四重奏
 今日も無惨に
 弓を引く

 だって全員
 酸欠なのだ
 喘ぎ吐き噎せ
 白目を剥いて
 ぎこぎこ
 きりきり
 弓を引く

 演奏なんか
 やめちまえ
 客の罵声も
 とどかない

 息も絶え絶え
 あの世は間近

 あわれ魚の四重奏
 今日も狂った
 弓を引く
(2020.9.23)


 傘が空に踊る。ふわり、スローモーション。紺の布地も鮮やかに身をひるがえす。こつりと柄が地にキスをして、演技は終了。持ち主の、いや持ち主だった女は糸が切れた人形のように横たわっている。赤い緞帳が下りていく。冷酷な雑踏が骨を皮を踏み砕いていく。雨は大声で笑い続けている。
(2020.9.24)


 去りゆく夏の悪あがきが、空に大きな入道雲を浮かべた。遥か田園に睨みを利かせ、気分に任せて雷雨を撒いた。やがて雲は山の彼方に消え、待ちに待った秋が来た。来たのだが、まあそのそっけなさと言ったら。鯖や鰯はさらさら流れ、羊ですらも足早に駆けていく。ほら、もう冬がちらほら。
(2020.9.25)


 依頼人は裕福な老人だった。二十年前に絶縁した息子を探してほしいと言う。
「会社の負債が膨らんでうんざりだ。社長を譲って引退したい。見つけて巧いこと丸めこんでくれ」
「わかりました」
 答えながら神に感謝する。身勝手な親への復讐を願った男は、ようやくその機会を手にしたのだ。
(2020.9.26)


 些細な躓きが一生を台無しにする――己の左手を見るたび、萩尾(はぎお)祐吾(ゆうご)の歯は軋み音を立てる。習慣の稽古、真剣を振り、鞘に納める…そのとき、僅かにずれた切っ先が指を傷つけた。指は鞘を握った形のまま動かなくなった。仕官の道は閉ざされ、萩尾家の冷や飯食いとしての人生が決定づけられた。
(2020.9.27)


 灰色に煙る夜空に、真っ黒な満月が浮かんでいる――一瞬身構えるが何のことはない、道路標識を見間違えただけだ。
(アルコールってのは怖いね)
 呟いてひとつ、げっぷを吐く。酔っぱらいの目の中にだけ存在する偽りの月……柄にもなくブンガクシャを気取ってみて、突き上げたえずきに膝を折る。
(2020.9.28)


 その人の本性が垣間見える機会、それは得意分野で完膚なきまでに叩き潰されたときだ。斃れて妬み言を垂れる骸になるか、砕けた身体に鞭打って蘇生するか……私?私は前者だ。心のあり方は誤魔化せないから正直に言おう。だって悔しいもの。恨めしいもの。立ち直れるわけがないじゃないか。
(2020.9.29)


 どう見ても恐竜――いや、恐竜の形をした“何か”だった。平和な港町に現れた怪異。妙な臭いを放つ黄色のそれは、動かないものの日ごと体積を増し、堤防を船舶を破壊した。誰もが諦めたとき、一人の少年が警察署を訪れた。
「あのおもちゃ、水に入れたら膨らむっていうから……ごめんなさい……」
(2020.9.30)
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