2023.6.1~2023.6.15
文字数 2,180文字
ごめんなさいと言いながら振るわれる鞭は肉を抉り骨を刻む。短絡を起こした神経は苦痛と快楽に火花を散らす。あなたの唾よりも軽い言葉で蔑まれて、我慢できなくなった血管が吐精を始めた。赤い滴が跳ねて膚にかかり、一拍おいて、ひと際激しいごめんなさいが意識を真っ白に塗り潰した。
(2023.6.1)
「先週の数学のテストを返すぞー。すまんが問2の文章に記述ミスがあったので、それは全員正解とする」
「やったー!」
「先生」
「なんだ?」
「その問題、解けたんですけど」
「えっ、この文章だと公式が成り立たないぞ?」
「ここをこうやって……」
この日、数学界に新星が誕生した。
(2023.6.2)
好きになれよ。あたしがこんなに必死になってるんだからさ。どれだけ金と時間かけてると思ってるんだよ。一方通行の看板なんか全部ぶっ壊して、神さまに舌出してやろうよ。その気がないならあたしの前からとっとと消えてよ。あんたに注ぎ込んだ青春を自分の手で汚したくなんかないから。
(2023.6.3)
馬たちが怯えている。木立の暗闇から漏れる捕食者の気配に刺激されているのだ。厩舎に満ちる不安を祓うように、干し草を宙に投げる。馬たち一頭一頭の肌に頬を寄せ、鼓動を落ち着かせる。大丈夫、絶対に守るからな――戸口に控える相棒の唸りが、高まる緊張をガラスのように震わせている。
(2023.6.4)
私はいわゆるマスク美人だ。平凡な顔立ちなのに、目元から下を隠すだけで言い寄る男が後を絶たない。この私が選り取り見取りできるなんて、世界異変も悪いことばかりではないってか。そうなると欲が出てくるもので、内面が整っている相手を探し出したあたり、婚期は遠いんだろうな……。
(2023.6.5)
面倒くさくても学校に行くのは帰り道を歩くため――自転車を降りて、あこがれのあなたの後ろを歩くため。わたしじゃない誰かと話すあなたの背中はまぶしい。おんぼろの車輪が耳障りな音を立てて、幸せな時間を巻き取っていく。うるさい、うるさい、わたしは、あなたの声だけが聴きたいの。
(2023.6.6)
ごみ袋の中に食べかけのおにぎりを発見した。においを確かめ、ひと口に頬張る。残飯さえも私のような人種にとっては貴重な栄養源だ。しかし、おにぎりも哀れではある。こんな扱いをされるために作られたわけではなかろうに――ああ、しまった。不用意な自己投影が、私を雑踏に棒立たせる。
(2023.6.7)
不老不死の女の秘密を探ろうと、お偉方が彼女を捕らえあれこれ弄り回したら、あっけなく死んでしまった。結論として、細胞が成長を止めたせいで外見を保っていたことが分かり、さらにその原因が“死への強烈な忌避感”だったため、お偉方は今まで以上にビクビクしながら暮らしているとか。
(2023.6.8)
「妖精さん、ぼくはもうだめみたいだ……」
「人間さん、それは死ぬということなの?」
「そうさ。残念だな、ぼくたちの寿命は短すぎる。もっと妖精さんと仲良くなりたかったのにね……」
「心配しないで、人間さん」妖精は優しく微笑む。
「“次のあなた”は長生きできるように作るから」
(2023.6.9)
社長は革張りの椅子の中で身じろぎした。創業以来業績は右肩上がりを続け、都心の一等地にビルを構えるまでになった。順風満帆の一方で、その表情は暗い。創業時に苦楽を共にした面々は、急変する状況に付いていけず離れていった。経営者に徹することのできない甘さが、彼を苛んでいた。
(2023.6.10)
「刑事さん、私は無実なんだ。現場に連れて来ても無駄です」
「それは雨が証明してくれるよ」
やがて雨が降り始めた。アスファルトが濡れていくにつれ、男の顔色が変わっていく。
「逃げるときにお前は特殊な溶剤を踏んだ。水に濡れると色がつくんだ。あれはお前の靴跡に間違いないな?」
(2023.6.11)
「わしはこんな身分でなければ、百姓に生まれたかった」城主は稲穂を撫でながら言う。金色の実りはさわさわと鳴いた。
「見よ、この小さな粒が国を作るのだ。この不思議に触れて生きていけたら……などと言っていたら、百姓たちに叱られるか」
頭をかく城主に、臣下は朗らかに笑い返す。
(2023.6.12)
物欲しそうに見えるからやめなさい――唇をいらう私の癖に母は眉をひそめる。違う。見えるのではなくて物欲しいのだ。母の陰で無関心を装っている男、あれが欲しいのだ。情夫という人種は正直の化身で、こんな子供にも本音を隠せずにいる。ほら、舌を出してみせた途端、目の色が変わった。
(2023.6.13)
ショーウィンドウで化粧を直す女を誰一人咎めないのは若さだけのせいではない。鏡写しの二人が命を懸けてにらめっこしているのに、口を挟む野暮など持ち合わせているものか。恋に生き死にを重ねた記憶を掘り起こし羞恥に頬を染めるのは一人二人ではあるまい。今はただゆけ、愛のままに。
(2023.6.14)
人々が寝静まった町を作業服の一団が歩いている。腕章に刻まれた市のマーク。彼らは害獣担当課、市民を悩ます動物を捕獲駆除するのが仕事だ。そして今夜の目標は……。
「来たぞ」
リーダーの合図で、一団は捕獲器を構える。街頭が明滅し、信号機が揺れて――姿の見えない何かが咆哮した。
(2023.6.15)
(2023.6.1)
「先週の数学のテストを返すぞー。すまんが問2の文章に記述ミスがあったので、それは全員正解とする」
「やったー!」
「先生」
「なんだ?」
「その問題、解けたんですけど」
「えっ、この文章だと公式が成り立たないぞ?」
「ここをこうやって……」
この日、数学界に新星が誕生した。
(2023.6.2)
好きになれよ。あたしがこんなに必死になってるんだからさ。どれだけ金と時間かけてると思ってるんだよ。一方通行の看板なんか全部ぶっ壊して、神さまに舌出してやろうよ。その気がないならあたしの前からとっとと消えてよ。あんたに注ぎ込んだ青春を自分の手で汚したくなんかないから。
(2023.6.3)
馬たちが怯えている。木立の暗闇から漏れる捕食者の気配に刺激されているのだ。厩舎に満ちる不安を祓うように、干し草を宙に投げる。馬たち一頭一頭の肌に頬を寄せ、鼓動を落ち着かせる。大丈夫、絶対に守るからな――戸口に控える相棒の唸りが、高まる緊張をガラスのように震わせている。
(2023.6.4)
私はいわゆるマスク美人だ。平凡な顔立ちなのに、目元から下を隠すだけで言い寄る男が後を絶たない。この私が選り取り見取りできるなんて、世界異変も悪いことばかりではないってか。そうなると欲が出てくるもので、内面が整っている相手を探し出したあたり、婚期は遠いんだろうな……。
(2023.6.5)
面倒くさくても学校に行くのは帰り道を歩くため――自転車を降りて、あこがれのあなたの後ろを歩くため。わたしじゃない誰かと話すあなたの背中はまぶしい。おんぼろの車輪が耳障りな音を立てて、幸せな時間を巻き取っていく。うるさい、うるさい、わたしは、あなたの声だけが聴きたいの。
(2023.6.6)
ごみ袋の中に食べかけのおにぎりを発見した。においを確かめ、ひと口に頬張る。残飯さえも私のような人種にとっては貴重な栄養源だ。しかし、おにぎりも哀れではある。こんな扱いをされるために作られたわけではなかろうに――ああ、しまった。不用意な自己投影が、私を雑踏に棒立たせる。
(2023.6.7)
不老不死の女の秘密を探ろうと、お偉方が彼女を捕らえあれこれ弄り回したら、あっけなく死んでしまった。結論として、細胞が成長を止めたせいで外見を保っていたことが分かり、さらにその原因が“死への強烈な忌避感”だったため、お偉方は今まで以上にビクビクしながら暮らしているとか。
(2023.6.8)
「妖精さん、ぼくはもうだめみたいだ……」
「人間さん、それは死ぬということなの?」
「そうさ。残念だな、ぼくたちの寿命は短すぎる。もっと妖精さんと仲良くなりたかったのにね……」
「心配しないで、人間さん」妖精は優しく微笑む。
「“次のあなた”は長生きできるように作るから」
(2023.6.9)
社長は革張りの椅子の中で身じろぎした。創業以来業績は右肩上がりを続け、都心の一等地にビルを構えるまでになった。順風満帆の一方で、その表情は暗い。創業時に苦楽を共にした面々は、急変する状況に付いていけず離れていった。経営者に徹することのできない甘さが、彼を苛んでいた。
(2023.6.10)
「刑事さん、私は無実なんだ。現場に連れて来ても無駄です」
「それは雨が証明してくれるよ」
やがて雨が降り始めた。アスファルトが濡れていくにつれ、男の顔色が変わっていく。
「逃げるときにお前は特殊な溶剤を踏んだ。水に濡れると色がつくんだ。あれはお前の靴跡に間違いないな?」
(2023.6.11)
「わしはこんな身分でなければ、百姓に生まれたかった」城主は稲穂を撫でながら言う。金色の実りはさわさわと鳴いた。
「見よ、この小さな粒が国を作るのだ。この不思議に触れて生きていけたら……などと言っていたら、百姓たちに叱られるか」
頭をかく城主に、臣下は朗らかに笑い返す。
(2023.6.12)
物欲しそうに見えるからやめなさい――唇をいらう私の癖に母は眉をひそめる。違う。見えるのではなくて物欲しいのだ。母の陰で無関心を装っている男、あれが欲しいのだ。情夫という人種は正直の化身で、こんな子供にも本音を隠せずにいる。ほら、舌を出してみせた途端、目の色が変わった。
(2023.6.13)
ショーウィンドウで化粧を直す女を誰一人咎めないのは若さだけのせいではない。鏡写しの二人が命を懸けてにらめっこしているのに、口を挟む野暮など持ち合わせているものか。恋に生き死にを重ねた記憶を掘り起こし羞恥に頬を染めるのは一人二人ではあるまい。今はただゆけ、愛のままに。
(2023.6.14)
人々が寝静まった町を作業服の一団が歩いている。腕章に刻まれた市のマーク。彼らは害獣担当課、市民を悩ます動物を捕獲駆除するのが仕事だ。そして今夜の目標は……。
「来たぞ」
リーダーの合図で、一団は捕獲器を構える。街頭が明滅し、信号機が揺れて――姿の見えない何かが咆哮した。
(2023.6.15)