2018.10.16~2018.10.31

文字数 2,586文字

 浮力を失った潜水士の身体は海の底へと落ちていく。既に陽光は彼を手離していた。鯨の声が真鍮(しんちゅう)の頭蓋に響く。母の胎内を想起して、潜水士は穏やかな心持ちで目を閉じた。
 地球の肚の底で、孤独な胎児は眠りに就く。いつの日かその身は冷たい棺と化し、海獣の子守唄は鎮魂歌に()り替わる。
 (2018.10.16)


 君はいつもジンを舐めながら私を抱く。だからこの松林の香りは情事の記憶と結び付いて、端なくも私の芯は疼きを抑えられない。君に会う前に、私は一度果ててしまう。
 だから抱かれる前にはシャワーを浴びる。記憶に抱かれた不貞を悟られないように。そして気怠(けだる)い身体に鞭を入れるために。
 (2018.10.17)


 落日が染める埠頭に、君の奏でるサキソフォンが響き渡る。紡がれるメロディは僕の心を熱く酔わせる。朗々とハイトーンを吹き終えて、君は静かに唇を放した。

 二人の視線が重なる。

 君は顔を背け、不自然に前髪を直した。潮風のせいにするなんてずるいよ。僕は君をぎゅっと抱き締める。
 (2018.10.18)


 夜の片隅で、兵士は頭陀(ずだ)袋を開いた。中には圧し殺された王女の亡骸がある。兵士は夢中で肉塊を掻き抱き愛撫した。穢れた情事だった。
 やがて兵士は身を起こし、緩々(ゆるゆる)露台(バルコニィ)に歩み寄った。月光が青褪めた面を濡らす。
 「首を、ヨカナーンの首をお()れ!」
 叫んだ声は、王女のそれであった。
 (2018.10.19)


 祖父は写真に撮られるのを嫌った。それは拒絶と云ってもいい程で、遂に死ぬまでその理由を口にすることはなかった。
 ある日遺品を整理していると、古い写真が出てきた。被写体は若き祖父だろう。
 しかし定かではない。
 写真は首から上が破り取られていた。
 祖父は何者だったのだろうか。
 (2018.10.20)


 亀に敗れた兎は世の嘲笑を浴び、一族の恥として追放された。
 正気を無くした兎は憎き亀に成り変わろうとした。耳を切り、歯を抜き、全身の毛を焼いた。亀を殺して甲羅を剥ぎ、己が背に縫い付けた。そうして変貌した自身の姿に、兎は大層満足した。
 しかし間も無く、感染症に(かか)り死んだ。
 (2018.10.21)


 あけきらぬ よるに
 ふゆ という つるぎを のむ

 しもに おおわれた つかを にぎり
 みねに かざはなを ちらしながら
 しずかに のどに すべらせる

 まぶた さえずり
 くちびる わななき

 きっさきが はらの そこに とどき
 くろき ねむりが じわり とけだして

 わたし という さやに みちる
 (2018.10.22)


 やはりおかあさまはゆるしてくれませんでした。いやしいおとこにむすめはやれぬと。

 きっとあめのせいです。このうつうつとした、あめ。

 だからてるてるぼうずをつるしました。
 おかあさまのかおをした、てるてるぼうず。
 あのぶなのきのしたでゆれています。

 あしたてんきになあれ。
 (2018.10.23)


 解剖台上の検体は不浄極まりない姿をしていた。
 節のある腹部から伸びる幾本もの脚。湾曲した背部には干乾びた林檎が一つめり込んでいる。巨大な毒虫としか言い表せないが、これは人間だ。鼻を刺す腐臭を堪えながら、私は検体の名前を確認する。

 Gregor Samsa

 狂っているのは、誰だ。
 (2018.10.24)


 暴虐な王に嫁いだ娘は夜ごと物語を紡ぎ続け、心を動かされた王は愚行を止める事を誓った。
 しかし最後の夜が明けた時、娘の姿は何処にもなかった。枕元には巻物が一つ、そこには今まで彼女が紡いだ物語が記されていた。
 この千と二夜めの物語は、ある時期を境に歴史から姿を消している。
 (2018.10.25)


 娘は蜘蛛を背負って女に成った。溢れる色香に(とら)われた清吉(せいきち)は、自ら乞うて情夫になった。女はいつも清吉に背を向けて跨がった。闇の中、己が彫った女郎蜘蛛が桃色の肌の上で悶えている。か細い喘ぎが床板の軋みと交わる。抱いているのは女か、蜘蛛か――清吉には最早どうでもいい事だった。
 (2018.10.26)


 山羊一家の反撃に遭い井戸の底に沈んだ狼は、仮死状態となって眠りに就いていた。奇しくも落雷により目を覚ました彼は、積年の恨みを晴らすべく復讐に乗り出す。
 時を同じくして仇敵の覚醒を感じ取った山羊一家の子孫は、かつて狼殺しとして名を馳せた、赤い頭巾の狩人に助けを求める……。
 (2018.10.27)


 結婚の報告にと、嫁を連れて墓参りをした。並んで座り手を合わせる。私がここに入ったら、改めてご挨拶しますね――嫁の言葉に、気の早いやつだと苦笑しつつ、俺が先に行って紹介しておくからゆっくり来いと私は言った。よろしくねと嫁は笑った。朗らかな秋の午後に、線香の煙が靡(なび)いている。
 (2018.10.28)


 今日の貴女は随分おしとやか。シックなカラーシャツにフレアスカート、切り揃えた毛先が秋風を撫でて揺れている。からかい半分で賛辞を贈ると、淑女の仕草で優雅にお辞儀。
 だけどそれも一瞬、
 「なーんてね!」
 大胆に裾を翻して、おてんばなお嬢さんはワルツのリズムで雑踏に踊るのだ。
 (2018.10.29)


 退屈な会議中、隣に座った後輩の腿を触る。違和感に気付き必死に意識を逸らそうとするが、私の指はそれを許さない。唇を噛み締め、鼻息はどんどん荒くなる。部長の質問にも上の空。横目で睨む表情が可哀想なくらい可愛い。非情な私はウィンクで応える。さぁて、いつまで我慢できるかな。
 (2018.10.30)


 「わたくしは、貴方をお慕い申しております!」佳乃(かの)の叫びは冬の夕暮れに(こだま)した。
 「啓二郎(けいじろう)さまは、いかがか!」
 男は返事に窮した。佳乃は背を向けて駆け出した。その後を追う声は無い。
 (いくじなし……)
 口に出せぬなら、その両腕で示してほしかった――止まらない涙が雪道に散っていく。
 (2018.10.31)
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