2021.5.16~2021.5.31

文字数 2,355文字

 告げられた異動先は辺境の支店だった。
「報復人事ですか」
 あけすけに言うと、課長は顔をしかめた。定例会議で部長に噛みついたのは確かだ。
「頭を冷やしてこい」
「はい。あ、目障りなのが消えて良かったですね。巧いこと乗せられてしまいました」
 部屋を出る。課長の顔は見なかった。
 (2021.5.16)


 オギノ薬局の名物は、店主の荻野(おぎの)その人だ。米寿ながら店頭に立ち、効能を説明する姿は眩しいが、実は余命幾ばくもない。山ほどの薬に囲まれながら、己の病を治すものはなかった。荻野は、くたばるまでに一錠でも店から追い出してやろうと決意した。利己的な胸中は誰にも明かしていない。
 (2021.5.17)


「お前さ、何で寝る前に髭剃るの?どうせ朝も剃るのに、面倒じゃね?」
「はあ、マジで分かんないの?」
「だから訊いてんだよ」
「それはな、ベッドの中で、大切なダーリンの肌を傷つけたくないからさ」
「けっ、キザすぎるんだよ」
 だけどキライじゃない。おれは相棒の胸に飛び込んだ。
 (2021.5.18)


 ものの見事に待ちぼうけを食らったので、手近な喫茶店で暇を潰す。こんなときは岩波文庫のように、みっちり詰まった本が重宝する。一字一句掘り起こすように意味を拾っていくと、時が経つのはあっという間だ。やっと来た。だがしばし待ってもらおう。句切りをつけるのもコツがいるのだ。
 (2021.5.19)


 今年も庭のあじさいは、真っ赤な花を咲かせるはずだった。遺言に従って花の下に埋められた母が、土に溶けて弁を染めるのである。が、満開に咲き誇るそれは、海のような青だった。私は気づいた。母はもう、そこには居ないのだ。あじさいは問うように佇んでいる――それでも私を愛してくれる?
 (2021.5.20)


 人生は以外と易しく出来ていて、幹線道路から外れてもその先が続いていたり、迂回の果てに元に戻れたりするものだ。それほどの措置を以てしても救えないなら、俺はどうしようもなく人間失格なのだろう。何より恐ろしいのは、それでもこの生は終わらないということ。人でなければ、俺は。
 (2021.5.21)


 笑い方が下手だと言われる。それは自分でも分かっている。人は笑うとき、頬が自然と緩み、呼気は快活なリズムを刻む。これがどうにも出来ない。俯瞰視点の私が、緊張を強いるのだ。巧く笑え、巧く笑え、と。傍目の己は作為なく笑えているのに。他人には見せられない、おぞましい表情で。
 (2021.5.22)


 国王はテレビを見ている。画面では敵国の元首が熱弁を振るっている。勝てぬ――国王は思う。相手には人心を捉える力がある。自分に斯様な才はない。だがその演説は我が国を、民を侮辱する内容だ。同時通訳の声が震えている。許さぬ――国王は憤る。
「すぐに演説の準備を!」
 余は、理を覆す。
 (2021.5.23)


 私の姿を認める否や、父は財布を掴み中身をぶちまけた。小銭が転がり、札が散った。
「それ持って、さっさと帰れ!」
 父は背を向けて叫んだ。違う、今日は無心に来たんじゃない――言葉は喉の奥で消える。もう戻ることはできない。親不孝者の末路だ。ポケットの中で、初任給の重さが失せる。
 (2021.5.24)


 玄関を抉じ開けると、男が苦しげに呻いていた。手元には携帯電話。通報者本人のようだ。
「大丈夫ですか?」
 意識はある。応急処置を施し、担架で運び出す。
 すると突然腕を掴まれ、
「け、警察に……」
「え?」
「こ、殺した女房が、腹ん中で、自首しろと……」
 実は、珍しくない話である。
 (2021.5.25)


 突然飛び出してきたのは、大きなスズメバチだった。しかも真っ直ぐ顔に向かってくれば、振り払うのが普通の反応だ。しかしそのときの私は“普通”ではなかった。美術品の運搬業者は、命を捨ててでも守らねばならぬものがあった。なのに…。
 価値を損ね信頼を失い、私は路頭に放り出された。
 (2021.5.26)


 動けない。言葉も出ない。
 男児は感情の無い目で私を見上げている。『かぞく』――赤いクレヨンで描き殴られた両親は、鬼のような顔で何事かをわめいている。画用紙の隅で大粒の涙をこぼしているのは、彼に違いない。
「せんせい、できたよ」
 私は今、教育者としての岐路に立たされている。
 (2021.5.27)


 ボートレース場の入り口に車を停めて、中年のタクシー運転手が二人、談笑している。上着からはみ出たお腹、白髪混じりの下ぶくれ。話の内容までは聞き取れないが、表情は目まぐるしく、喜怒哀楽を行き来する。私はそのパントマイムに、名も知らぬ戦士の人生を垣間見た気になるのだった。
 (2021.5.28)


「……待って」妻は俺の腰を押し止めた。
「来てるわ」
 仰向けのまま、妻は壁の一点を凝視する。そこには“茉莉(まり)”がいる――らしい。一人娘を喪って1ヶ月前。妻は新たな子を欲しがり、房事の最中に“茉莉”を視るようになった。妻は腰を動かし始める。茉莉を視たまま、俺を見ずに、精を搾り取る。
 (2021.5.29)


 雪は粒を増し、破れ舟にうずくまる金次(きんじ)の簑は、はたく端から白く染まっていく。寒さも感じず、いまこの瞬間に流されている血を思っていた。荒事は不得手だが、引き込みだけは抜群に巧い。押し込みは仲間に任せ、完了の報せを待つ。得手一つ極めりゃ生きていける――それが金次の信条だった。
 (2021.5.30)


 川には近づくなと言われた。河童に尻子玉を抜かれるぞと。早熟な私は、ならばその面を拝んでやろうと勇んで川へ向かった。
 河童は居た。居たが、想像していたのとは違った。だらしなく肥えた身体は苔まみれで、厭な臭いがする。何もしないが、凝と私を見る。怖い――後悔したが、もう遅い。
 (2021.5.31)
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