2023.9.16~2023.9.30

文字数 2,194文字

 弥五郎(やごろう)は草むらに這いつくばっている。歯を食いしばり土を握りしめ、全身の震えを抑え込んでいる。頭を使わず腕力だけを頼りに生きてきた男に、密使など似合わぬ役目だったのだ。
(もう大丈夫か……?)
 弥五郎は顔を上げた。その眼前に、槍の穂先が突き出される。
「いたぞ、捕らえよ!」
 (2023.9.16)


 目を覚ますと、暁闇が寝室に満ちていた。ものの輪郭が薄紫に縁取られている。
(おや?)
 と政信(まさのぶ)が思ったのは、目に映る景色が靄がかっていたからだ。はっとして明かりを点け、その靄が晴れぬことを知ると、政信の顔色は失せた。視力の低下――それはパイロットという職業には致命的だった。
 (2023.9.17)


 髭面の男の死体を見て、人々は異口同音に叫んだ。
「将軍だ!」
 彼の見事な髭は誰もが知るところなのだ。人々は盛大な葬式を執り行った。この様子を陰から見ていたのは――遠征先から帰ってきた将軍だった。
 将軍は髭を剃り落とし、町を出ていった。途中、誰にも気づかれることはなかった。
 (2023.9.18)


 うつ伏せにされたまま、行為は終わった。しかし上になった男はいつまでも離れず、吐精を続けている。縁から溢れるのもそのまま、脈打つ感覚が体内で跳ね回っている。男の反応はない。もしや脱け殻になっているのではないか……不安に呼応するように襞が痙攣した。まるで笑い声のように。
 (2023.9.19)


 小さな怪獣は、ぼくの姿を認めると喜びもあらわに飛びついてきた。今日はエサをあげに来たんじゃない。母から渡された薬を器に注ぐ。
「ごめんよ」
 怪獣はそれを飲む。途端に咳き込み血を吐いた。しかし強靭な生命力で食欲を満たそうとする。胸が疼いて、ぼくの手は薬を注ぎ足している。
 (2023.9.20)


 おばあちゃんは元プロボウラー。全盛期はパーフェクト連発が当たり前だったけど、喜寿を迎えたいま、孫たちと楽しむことを第一に投げている。
「力を抜いて、ボールの重さに任せるのよ」
 その言葉どおり、ボールは静かにレーンを滑り、ピンを弾き飛ばす。そんなおばあちゃんが大好きだ。
 (2023.9.21)


 破裂音。そして漂う芳ばしい香り。口呼吸に切り替えながら、付き合いたての、お互いに生活臭を隠していたころを思い出す。最初にさらけ出したのはどちらだったっけ……ああ、わたしだった。あの瞬間のドン引きといったら。にやにや笑いに怪訝な顔をされながら、手際よく換気にいそしむ。
 (2023.9.22)


「知らん、聞いてないぞ!」
「そんな、私は確かに――」
「俺が嘘をついているとでも言うのか!!」
 忘れてるんだよ――経営会議の出席者全員が心中でツッコんだ。毎度のことである。社長は報告を急がせるくせに、肝心なときに記憶を失うのだ。新任課長が不眠で考えた企画もポシャりそうだ。
 (2023.9.23)


 横綱の巨体が土俵に沈んだ瞬間、歓声と共に座布団が飛んだ。番狂わせでよくある光景だが、当たれば怪我をしかない。
 と、座布団がくるくると回り、投げた客の元に戻った。アナウンスが響く。
「今場所から座布団の動きを電子制御しております。マナーを守っての観戦をお願いいたします」
 (2023.9.24)


 崇彦(たかひこ)の人生は常にスポーツと共にあった。厳しい練習を経て、心身は爽やかに保たれている。和美(かずみ)もそうやって生きてきた。だから愛し合っていても、いたずらに性欲を満たす必要はないのだった。異常だ純愛だと人は言う。どちらも違うと二人は言う。二人にとって、当たり前の愛のかたちだ。
 (2023.9.25)


 沙代(さよ)は懐剣を抜いた。指の一本も震えないのは武家の女の心得だった。見届け役を任ぜられた梶田(かじた)は、しがみつきそうになる手を必死に抑えている。
「よい日和ですこと」
 沙代は顔を上げ、障子から透かし入る陽を眺めた。梶田もつられた。再び顔を前に向けたとき、武家の女は息絶えていた。 
 (2023.9.26)


 編み笠から臨む往来は、中天であるにもかかわらず無人だった。吹きゆく塵埃が陰鬱な影を刷いているが、又之進(またのしん)は躊躇いなく足を踏み入れた。敵持ちになって十五年、神経を尖らせる日々は又之進の人間性を歪めた。今では発端となった理由すら忘れ、利己的な欲に溺れることに執心している。
 (2023.9.27)


 満員の女性専用車両に飛び込んできたのは、一人のおじいさん。手には杖、足元は覚束ない。
「すみません、乗せてもらえんですか」
 乗客は快く席を譲った。頭を下げ下げ座ろうとしたおじいさん。その腕が掴まれた。
「一日に何度もしたらそりゃあ怪しまれるでしょ」
「……ちくしょう!」
 (2023.9.28)


 傾城町の噂は早駆け、“役立たずの男”はたちまち人々の知るところとなり、如何ほどの聖人君子かと見世に押し寄せた。暖簾を割って現れたは筋骨隆々の偉丈夫。ハテこれは何かの間違いか?とぼとぼと去る背に楼主が浴びせる罵倒は、
「この役立たず!油虫一匹退治できずに何が用心棒だい!」
 (2023.9.29)


「ねえ!」
「どうされましたか、お客様」
「この料理、虫が入ってるぞ!」
「はい、その通りでございます」
「あ?」
「食用の昆虫を使った新作です」
 客は唖然として辺りを見回す。皆、料理から虫をほじくり出して口に運んでいる。脅迫者はひどく後悔したがもう遅い。
「さあ、どうぞ」
 (2023.9.30)
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