2018.7.14~2018.8.15

文字数 2,484文字

 暗い森を思う。陽の光すら拒む常世(とこよ)の異界。その奥底で、(かび)の王様は陰気な家臣と宴を繰り返す。見飽きた顔、聞き飽きた話、食べ飽きた料理、味わい尽くして味は無い。退屈で退屈で、だけど退屈を終わらせるのが怖くて、黴の王様は作り笑いを浮かべながら愉悦の脱け殻をしゃぶるのだ。
 (2018.7.14)


 老後の話。妻に「もし俺が先に死んだら悲しんでくれるか?」って訊いたら「そんなことしてる暇はない」って答えた。冷たいやつだと()ねたら「あんたのこと忘れないように嫌でも長生きするんだから悲しんでる暇なんかないんだよ」って返された。本当にごめんなさい。全力で愛します。
 (2018.7.31)


「ねえママ、どうしておほしさまは、上からおっこちてくるの?」
「うーん、きっとミィちゃんと遊びたくなって、お空から降りてくるんだよ」
「ミィちゃんのおうち、わかるかな?まいごにならないかな?」
「よし、今度お迎えに行こっか」
「わあ、行く行く!」
 娘と私の、しあわせな時間。
 (2018.8.2)


 雪乃(ゆきの)は物思いに耽ると、唇に指を添える癖がある。瑠璃の瞳は夢想に游ぎ、脱力した肢体は艶かしく匂い立つ焔のようだ。
 私の窃視(せっし)に気付いた雪乃は(いぶか)しげな顔で問い質してくるが、狡い恋人は詭弁を並べ立ててその場を取り繕ってしまう。この甘やかな犯罪は、決して気取られてはならないのだ。
 (2018.8.3)


 暴力的な夕立が、男と女を四阿(あずまや)に足留めていた。長き恋に終止符を打った矢先だった。戻らない二人の距離を雨音が埋めていた。
 やがて雲間から降り注いだ光が、男と女の頬に七色の橋を架けた。顔を見合せた二人は、思わず声を立てて笑った。そして雨上がりの街に向かって一歩を踏み出した。
 (2018.8.4)


 佐平(さへい)が深く腰を沈めた刹那、中空に三日月の軌跡が(はし)った。
 刃は既に鞘中(しょうちゅう)に滑り込んでいる。
 相対した男は血を噴いて地面に崩折れた。手向けのように、鍔鳴りが(おごそ)かに響いた。
 身を起こした佐平は襟を掻き合わせると、小雪のちらつく夜を家路へと急いだ。
 師走の暮六つ、仕事納めであった。
 (2018.8.5)


 物語の登場人物は結末を書くことにより、各々の役割から解放される。
 しかし物語が絶筆や放棄によって未完の憂き目に遭うと、彼らは物語の中に縛られ続けることになる。
 浮かばれぬ登場人物たちの魂を救うため、未完作品の補筆を行う組織が暗躍しているというが、定かな話ではない。
 (2018.8.5)


 仕事から戻ると、2歳になる娘が大号泣している。嫁に事情を訊くと、保育園から帰るバスの中で初めてお年寄りに席を譲り、感極まっているとのこと。
「わだじ、やざじぐでぎだー!!」としがみついてくる娘を思いっきり抱きしめる。ありがとう。いい子に育ってくれて、パパはうれしいよ。
 (2018.8.6)


 男は敬虔(けいけん)な信者だった。清貧を貫き日々神に祈る姿は、教徒の鑑と讃えられていた。やがて彼は一人の女を愛し、二人は共に信仰の道を歩み出した。
 ()る日、男は己の祈りが神にではなく、女との幸福に向けられている事に気が付いた。
 信心の瑕疵(かし)と捉えた男は、何も云わずに女の元を去った。
 (2018.8.7)


 珊瑚の(かんざし)は、長屋暮らしの女房の頭で居心地悪そうにしている。
「どうしたのさ、これ」
 狼狽(うろた)えながらも、

は鏡の前を動かない。与助(よすけ)はその肩を抱いて、
「一目惚れよ。お前を見初めたときと同じさ」
「ばか……」
 おまさは赤面して夫の袖を打つが、その口の端には笑みが溢れている。
 (2018.8.8)


 紗奈(さな)のグラスをマスターが静かに下げた。ルージュの付いた吸殻を残し、彼女は宗太の下を去った。自業自得の別れ。宗太(そうた)の胸の内は晴れやかだった。
 脳裏に紗奈の顔が浮かんだ。一心に惹かれた笑顔。しかし瞬きすると、それは呆気なく消えた。宗太は苦笑して、マスターにチェックを告げた。
 (2018.8.9)


 母は縁側で茶を啜っている。智子はその隣に腰を下ろした。猫の額ほどの庭に春が満ちていた。
「お父さんと、寄り戻すの?」智子(ともこ)は切り出した。
「……どうだろうね」
「もう。決めてるくせに」
 母は無言で俯いた。智子は意地悪な自分を恥じた。誤魔化すように、桜餅を口一杯に頬張った。
 (2018.8.10)


 君の唇があいつの名を綴るとき、胸の芯が灼けるように痛む。
 気付かれないように呼吸を整え、僕は平静の仮面を被って相槌を打つ。
 僕の苦しみなんか知らないで、君はあいつの話を続けている。あいつの話なんかどうでもいい。
 どうでもいいけど、楽しそうに話す君を見ているのは好き。
 (2018.8.11)


 妹の結婚が決まり、二人だけの祝いの席を設けた。居酒屋の古時計が零時を告げて、(ようや)く勘定となった。
 立ち上がった妹の足元がふらつき、私は慌てて抱き止めた。腕にあたたかな重みが乗った。
 「ありがと」
 妹は笑った。その顔が妙に眩しく、私は顔を背けた。鼻の奥が痺れ、視界が滲んだ。
 (2018.8.12)


 暮れゆく夏の空に雷鳴だけが響いている。生温い風に雨の気配を感じて、子供達は三々五々我が家に飛び込んでいく。軒下で空を恨めしげに見上げ、少年は虫取り網を手放せずにいる。雷鳴を十度数えて我慢ならず、ひっ被った麦藁のつばに雨粒が跳ねた。夕立が町を撃つ中、人知れず夜が来た。
 (2018.8.13)


 強いあなたは脇目もふらず、自分の道を歩いていく。私がどれだけ必死に走っても、遠ざかる背中に追いつくことはできない。
 だから私は、ここで独り待つことにした。あなたの足枷(あしかせ)にはなりたくないし、いつかあなたが戻ってきたとき、心を込めた「おかえりなさい」をプレゼントしたいから。
 (2018.8.14)


 火葬場の立会人の話。
 骨上(こつあ)げの最中、故人の妻が突然叫んだ。指差す先には溶けた金属片。生前、頑なに譲るのを拒んだ高価な指輪だった。渡したくない一心で飲み込み道連れにしたらしい。悔し涙の妻。最早故人は何も語らないが、二つに割れた下顎骨がまるで笑っているように見えたという。
 (2018.8.15)
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