2019.10.1~2019.10.15

文字数 2,225文字

 三途の川のほとりで、懸衣翁(けんえおう)奪衣婆(だつえば)は浮かない顔だ。
「近頃は『すまほ』や『くれじっとかぁど』を持って来る輩が増えたのう」
「なんでも生前の増税騒ぎを引きずっておるそうじゃ」
「やれやれ、六文銭を電子決済する日が来るとは……」
 老人たちは今日も慣れない機械に手を焼いている。
 (2019.10.1)


 焼き捨てていてほしかった。届かない想いはごみと同じだから。遮二無二書いた恋文は一通も欠けることなく、段ボールの中で変色していた。きっと邪すぎたのだ。もういないきみに代わり、ぼくの手で海に沈めよう。燃やしたら煙が天に昇って、またきみの目に触れてしまうかもしれないから。
 (2019.10.2)


 なめらかな茶が身体に満ち、雑念は霧散した。障子から透ける秋の陽に包まれ、掌の茶碗は静かにまどろんでいる。
「嫌だったことほど覚えておくのです。同じことをしないようにすれば、自然と人に好かれます。苦い薬は身体に良いのです」
 亭主の言葉が染みる。私はまた前を向こうと思う。
 (2019.10.3)


 焼きたての身に箸を入れる。皮が割れ、じゅわりとあふれる脂。
「おおっ」
 私と夫、どちらともなく声が上がった。秋の恒例行事『さんま開き』。ポン酢と醤油はお好みで、大根おろしと一緒に頬張る。炊飯釜はあっという間に空っぽだ。会話も忘れるひと時は、代えがたき幸せに満ちている。
 (2019.10.4)


 好きで就いた仕事じゃなかった。敗け続きの就活で、やっと手にした内定。拾ってもらったという負い目があった。積まれるものを諾々と片づける日々……気がつけば8年が経っていた。
 いま、そんな僕が変わりつつある。やりたい。やってみたい。そう思うことが増えた。仕事に血が通い始めた。
 (2019.10.5)


「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら……」有名な例え話だが、これを模擬実験しようとした科学者がいた。しかし鼻の高さについての記述が見当たらない。文献探しに没頭するあまり本職を疎かにし、ついには学会を追われた。もし彼が研究を遂げていたら、歴史は変わっていたというのに。
 (2019.10.6)


 痩せこけた犬が月に吠えている。後ろ足こそ健全だが、この崇高なる符合におれの頬は緩んだ。君は朔太郎を愛するか――おれは犬に問う。犬は口を噤むと、胡乱な一瞥をくれた。低く垂れた尾が路地を掃き、冷笑に似た毛先が膚をなぞった。『ふしあはせ』は言葉なく、おれのもとから去ってゆく。
 (2019.10.7)


 慈愛の化身のようなあなたの眉間に刻まれた皺――抱かれながら気づいたその事実は衝撃的で、一方胸の芯は甘く燃え上がった。快楽は人間の仮面を容易く剥ぎ取る。彼も一匹の雄だった。行儀が悪いのは承知の上で、唇を貪りながら、愛撫に悶えながら、私は薄目を開けてあなたの眉間を窃み見る。
 (2019.10.8)


 少年の手は銃を握る
 細い指は引鉄を絞る
 彼らの知らない所で
 知らない誰かが死ぬ。

 少年よ
 君たちの手は
 知らない誰かと繋ぎ合える
 君たちの指は
 知らない誰かの涙を拭える
 銃を捨て
 明日を生きよう
 君たちで
 いのちを育もう。

 ……

 そんなきれいごとを言う大人を
 ぼくは撃ち殺したい。
 (2019.10.9)


 ピストルが鳴り、僕はトラックに射ち出される。周りの景色は消え去り、世界に独りきりになる。息が風を裂く。筋肉が軋み吼える。肺が酸素を乞う――。
 ゴールを越えて、僕は世界に緩々と着地する。耳許までせり上がった心臓が静まるころ、

 きみの声が聴こえて、

 僕は青くさい17歳に戻る。
 (2019.10.10)


 真夜中の高架下に停まるBMWは大人の揺りかご。情欲の腕は外国製のサスペンションすら軋ませる。ひと際雄々しく上下して、黒い車体は沈黙する。やがて化粧の剥げた女をひとり吐き出し、BMWは環状道路を猛スピードで駆けていく。その後部座席には子供たちを遊園地に運ぶ予定が入っている。
 (2019.10.11)


 僕は空を見ない。たとえどれほど晴天だろうとも。あの日――猛烈な台風が襲った夜。白い女の顔が空一面に広がっていた。此方に向いた虚ろな目。弛緩した口許から唾液が伸びてきて、僕は夢中で逃げた。もうあんなものは見たくない。もう一度見てしまったら――きっと僕はその糸を掴んでしまう。
 (2019.10.12)


 彼女を駅まで送るには、必ずこのホテルの前を通らなければならない。毎度目の隅にちらつくどぎついネオンサイン。いつか見てろ――いくじなしの彼氏は筋違いの怒りを燃やす。
 そしてついにその日が来た。意気揚々と入口に向かった彼の前に、一枚の貼り紙が立ち塞がる。
『改装のため休業中』
 (2019.10.13)


 正しいのか正しくないのか
 決めるのは僕以外の誰か。
 狂っているのかいないのか
 決めるのは僕以外の誰か。

 そんな世界に絶望したら
 白粉を塗れ、紅をつけろ。
 シケた面など脱ぎ捨てて
 飛びっきりの笑顔を被れ。

 笑えるか、笑えないか。
 それだけのことなんだ。

 さあ、喜劇を始めよう。
 (2019.10.14)


 首のない駝鳥(だちょう)が一羽、檻の中を徘徊している。床は垂れ流した糞尿が積もり沼と化している。大昔、駝鳥は同居していた(ひらめ)と闘い首を失くした。鮃も顔を剥がされ瀕死の体で床に潜んだ。やがて鮃は死んだが、駝鳥はその事実を知らない。閉鎖された動物園で、駝鳥は独り仇敵を探し続けている。
 (2019.10.15)
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