2021.7.16~2021.7.31

文字数 2,346文字

 熱波が凝る夜、会えなくて久しい彼を想って枕を濡らす。どれだけ文字を音声を交わしても、この耐え難い距離は埋められない。しかし頬を伝う滴はぬるく、涙は心の化身と聞くから、私の想いなど所詮その程度なのだ。哀れなスマホは八つ当たりの的になる。科学よ、お前の進歩はその程度か。
 (2021.7.16)


 一枚の紙を、各国の首脳たちがペンを片手に囲んでいる。戦火によって森林が消え、あらゆる記録媒体が電子に取って代わった。しかし粘り強い再生活動が実を結び、古の記録媒体は数百年ぶりに蘇ったのだ。首脳たちは紙の表面に署名を連ねていく。条約は締結され、世界平和はここに成った。
 (2021.7.17)


 勇敢か、無謀か――その差は結果の有無にあるのだが、彼は結果を出さずに勇者となった。不満を持てども諾々と従ってきた民衆は、行動それ自体を評価したわけだ。さてそうなると、事をし遂げられなかった彼の無念は、誰が汲んでくれるのだろう。己を責めるは己のみ、勇者は内から壊れていく。
 (2021.7.18)


 忘れたかい?にきびの痕が残る青年を撃ち殺したことを。そばかすの娘を突き殺したことを。ほら、いま札束を数えているその手だよ。血にも濡らさず、お前は二人の命を奪ったんだよ。いいなあ、私はどうして縊り殺しなどしてしまったのだろう。どれだけ洗っても、肉の臭いが消えないんだ。
 (2021.7.19)


 有名な芸術家にスキャンダルが発覚し、企業は次々とスポンサーを降りた。芸術家は叫んだ。
「ポーがクズだからって『大鴉』の価値は下がるか?個人と才能を混同するな、愚か者どもめ!」
 企業主は答えた。
「愚かで結構、我々はきみの才能を拒絶する。ポーの例もある、気長に待つんだな」
 (2021.7.20)


「嵐が来るね」
 ビリィは西の空を指して言った。その先には雲の影ひとつないが、確かだ。視力を失って以来、彼は天気を読むことができるようになった。私は頷く。と、
「そのとき、僕たちは別れなきゃならない」
 私はビリィを見る。ビリィも私を見ていた。光の消えた瞳の中に嵐が視えた。
 (2021.7.21)


 夜明け前。群青に染まる埠頭の片隅で、野良犬が眠りから覚めた。湾内に善くないものが這入り込んだ――日陰暮らしの中で、彼は不思議な感覚を身に付けていた。老いた身体を引きずり、防波堤から水面を覗く。滞留した潮の裏側。野良犬は牙を剥き、唸った。応えるように、潮は渦を巻き始めた。
 (2021.7.22)


 あなたがグラスを傾けるあいだだけ、時間は消え去る。底から縁、唇から喉へと流れる優雅な曲線が、大いなる支配者を骨抜きにしてしまうのだ。私はため息すら忘れ、あなたが起こす奇跡から目が離せない。からり、氷のいななきが魔法を解く。動き出した世界に、美しいひとの微笑みが咲く。
 (2021.7.23)


 議事堂の跡から声がするとの通報で、警官は恐る恐る足を踏み入れた。見ると議席には黒い影、聞けば議題は侵略戦争。50年前、多くの死者を出して終結した悲劇。憤った警官は叫んだ。
「いい加減にしろ!戦争は終わった!あんたらは敗けたんだ!」
 影が一斉にこちらを見た。そして消えた。
 (2021.7.24)


「た、助けて!」
 カップルは必死に泳いでいた。背後に迫るのは黒い背ビレ――サメだ。
「あれだ!」
 目の前に岩礁があった。二人はなんとかよじ登る。サメは周囲を泳ぎ回っていたが、急に姿を消した。
「助かった……」
 安堵した二人の足元が、ぐらりと揺れた。轟音が響き、海が隆起する……。
 (2021.7.25)


 吸い慣れているはずの煙草に噎せた。吐き散らした煙が、顔に纏わり付いて消えない。涙で霞んだ視界に一人の女の姿が揺れる。娼婦だった。愛など無く、欲で抱いただけ。それが何を傲ったか添い遂げると言い出したので、捨てた。売女め――手を振って影を引き裂く。煙草は赤く燃え、白く散る。
 (2021.7.26)


 座席の中で何度も尻の位置を直す。私はこれからハイジャックをする。懐の銃を握り、立ち上がろうとして、
「若いひと」隣の紳士が話しかけてきた。
「半端な覚悟なら、しないほうがマシだよ」
 心が折れた。紳士は私の肩を抱き、その腕を首に回し、
「動くな!この機は私が乗っ取った!」
 (2021.7.27)


 庭で昼寝をしているムク。うちに来たときは抱っこができるくらいの子犬だったのに、今ではすっかり大きくなっちゃった。でも注射嫌いはおじいちゃんになっても治らないままだ。私はちょうちんを浮かべる鼻に手を伸ばす。ムク、これからも元気で長生きしてね。叶わなかった私のぶんまで。
 (2021.7.28)


 自室を“三重密室”に改造するほどのミステリ好きが急死した。その後、家の中に不気味な声が響くようになり、恐れた親族は霊媒師を呼んだ。霊媒師は声に耳を傾け、
「失くした失くしたと嘆いています」
「一体何を……?」
「密室です。霊魂となった今、どんな遮蔽物も意味をなしませんから」
 (2021.7.29)


 川の堤防を海へと歩く。河口は目と鼻の先で、川と名は付いているものの、風は潮の香りがするし、水は海の色をしている。どちらでもありどちらでもない流れは、かもめの姿を借りて悲しげに歌っている。都市高の橋桁をくぐり、開けた視界に大洋を見れば、私の目は涙に潤んでいたのだった。
 (2021.7.30)


 目覚めたらベッドから貴方が消えていた。いつものことだ。ふらりと戻ってきて、抱いて、またどこかへ行ってしまう。共に朝を迎えたことはない。それがドンファンの礼儀というなら、くだらないと思う。そろそろ仕事に行かなくては。頭とは裏腹に、手は冷え切ったシーツをまさぐっている。
 (2021.7.31)
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