2020.3.16~2020.3.31

文字数 2,465文字

 毎朝、妻の仏前にコーヒーを供える。今日はグアテマラ・ラクプラ。桃のように澄んだ風味を彼女は愛した。不思議なことに、いつのまにかカップは空になっている。怖いとは思わない。奇跡にしては控えめで、そんなところに妻らしさを覚える。洗い終えたカップをふたつ、並べて棚に仕舞う。
 (2020.3.16)


 不意に、闇が白く匂った。
(ああ、咲いているな)
 急ぎ足に角を曲がると、ひらり目の前を横切り、見上げれば花は満開だった。ひと気のない公園は、夜に淡く浮かんでいた。コンビニでワンカップを買って、ぶらんこに腰かける。ゆらり揺れながら酒精を含めば、春が滲んで目尻からこぼれた。
 (2020.3.17)


 疲れた身体を引きずり帰宅すると、出迎えた3歳の息子は画用紙を広げて見せた。仕事中の私だそうだ。以前妻が職場に連れて来たことがあった。絵の中の私は眉をつり上げ、口をへの字に曲げていた。
(こんな顔してたんだ)
 息子を誉めながら決意する。次は笑顔で描いてもらえるようにしよう。
 (2020.3.18)


「昼にするか(ガラッ)」
「シャッセー!ライライ、アーケーッス!」
「ガソスタか!定食ひとつ」
「レギュラー、ハイオク、軽油から選べますが」
「何を!?
「揚げ物の油です」
「食用だろうな……じゃあ軽油で」
「あの、窓は…」
「窓ってなんだよ!」
「えっと、社会の……」
「あっ……///」
 (2020.3.19)


 紙切れ三枚で買った娼婦の尻には、夥しい数の刺青があった。“正”――文字は肉を揉むたび、狂った蟻の群れのように歪んだ。
「買われたら一画ずつ増やすの。数えるのは途中で止めちゃったわ」
 彼女の肉体は肯定で満ちていく。いつかその命が尽きる時、生臭き経文は安らかな眠りを齎すだろう。
 (2020.3.20)


 ネズミの知略に負けたライオンは他の獲物を探した。しかし噂を聞いた動物たちはライオンに問答を仕掛けた。誇り高き王である彼は拒否も反故もせず、終に飢えて死んだ。その死は大衆の嘲りで迎えられた。
 次に即位した王は先代とは真逆の俗物だったので、動物たちは問答無用で食べられた。
 (2020.3.21)


 みつ豆の缶に入っている黄色い桃。幼い頃、それは特別な食べ物だった。いつか飽きるほど食べてみたいと幾度思ったことか。しかし大人になって、あの時の憧れはどこにもない。懐かしさより先に甘さに辟易してしまう。特別を失くしていくのが人生だ。そして新たな特別に出会うのも、また。
 (2020.3.22)


 久しぶりのデートだっていうのに、下ろし立てのパンプスがちくちくと邪魔をする。気合い入れすぎた。あなたはかわいいって褒めてくれたけど、その嬉しさも消えてしまいそう。下ばかり向いて歩きたくない。合わせてくれる歩幅が申し訳ない。パンプスが心を踏みにじる。絞り出る涙は苦い。
 (2020.3.23)


 三日ぶりのマルボロに手荒く迎えられる。メビウスなんかに浮気した罰だ。"Man Always Remember Love Because Of Romance Only" ……勝手なものね、男って。咳を鎮めて、フィルターを咥え直す。焦らして焦らして、穂先がいやらしく鳴いて爆ぜる。肺で抱き締めれば、昇天するのは俺のほうだ。
 (2020.3.24)


 日陰の桜に春は遠い。開花前線に沸く喧騒、しかしいまだ散らす花びらはなく、その姿に目をやるものはいない。桜は独り、冬に取り残されている。
 不意に一羽の鴬が枝に羽根を休め、ひと声鳴いた。と、人々は一斉に顔を上げた。
「あっ」
 桜はわずかに胸を張った。花ではなく、鳥のために。
 (2020.3.25)


 奇跡みたいに出逢った二人だから、奇跡みたいな別れが待っていると思っていた。けれども実際に訪れたのはありふれた別れだった。欠点を罵り合い、口にすべきではない言葉が交わされ、きらびやかだった思い出は色褪せた。人生は天秤だというのなら、何を喜び、何を悲しめばいいのだろう。
 (2020.3.26)


『ふぐ哀悼』
 思わず吹き出した。無垢なパソコンの悪戯。正しくは『不具合等』。
「ふぐ哀悼ありましたらご連絡下さい」
 ふぐ刺しの皿を前に湿っぽくなった宴会場を想像し、笑いが止まらなくなる。隣に座る同僚が訝しげな視線を投げてくる。ひくつく口許を押さえながら、業務に心を戻す。
 (2020.3.27)


「……ふふっ」
「なんですよぅ、気味が悪い」
「いやァなに、家に帰ェればべっぴんの女房にあったけェ酒……これ以上の幸せってなァあるのかと思ってよ」
「まあ」
「おめェはどうよ?」
「そうですねぇ、あとはお金があれば、文句なしですかね」
「はは、言えてらァ」
 (2020.3.28)


 建築を学びたい――初めは冗談かと思った。しかし口許を緩めない息子を見て、本気なのだと分かった。代々続く医者の家系、当然息子も後継ぎとして育ててきた。それなのに。理解できない。息子の姿をした何かは固く沈黙している。テーブルの天板が境界線のように、我々の前に横たわっている。
 (2020.3.29)


 生け垣から首を出した猫は、注意深く辺りを窺った。今日は珍しく人間の声がしない。うるさい声で鳴く四角い生き物の姿もない。息の音が近い。ふと彼は胸に“すき間”を感じる。それが孤独という感情だと知るにはあまりに遠く、獣だった。猫は大通りを足早に横切る。静寂に足跡が刻まれる。
 (2020.3.30)


『嘘』は世界の片隅で夜明けを待つ。間もなく、年に一度の免罪日がやってくる。しかし彼の心に喜びはない。以前もこんな気持ちになったことがあった。世界は悲しみに覆われている。涙に暮れる人々の前に、どんな顔をして出ればいいか……『嘘』は考える。自分にしかできないことを考える。
 (2020.3.31)
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