2022.10.16~2022.10.31

文字数 2,353文字

「主人がいつもお世話になっております」
 香苗(かなえ)はたおやかに辞儀をした。貞淑さは外面だけ、濡羽色の紬の下に荒縄の蛇を抱いているのを僕だけが知っている。不惑を過ぎ、夫は妻の躰に関心を失くした。奥手そうな部下は格好の捌け口だと思ったのだろうが、主従の逆転には一夜で十分だった。
 (2022.10.16)


 大輪のひまわりが咲いている。野にではない、空にだ。夕陽がたなびく雲を染め上げて、やがて来る夜を前に咲いているのだ。それはゴッホの再現だった。人が至った極地に自然が追いついた瞬間だった。不意に大気が動き、ひまわりが崩れていく。まるで遅れを取ったことを恥じるかのように。
 (2022.10.17)


 いつまでこんな暮らしを続けるつもり――母の言葉がよみがえる。確かな成功を捨てて夢を追う子は、親からしてみれば狂人に他ならないだろう。だが落ちなければ見えない世界がある。不孝者となった私が胸に刻むのは、何があろうと信念を曲げないこと、そして窮屈な生活に順応しないことだ。
 (2022.10.18)


 森で見つけた不思議な石。とても綺麗で、保育園を始め町中の人に見せびらかした。しばらくして、物陰から覗く人影に気づいた。きっと石を見たいのだ。遠慮しなくてもいい、僕は人影に近づいた。
「どうぞ」
 手が伸びる。
「坊主、ありがとよ」
 ぼくの、くびに、
「証拠は消さなくちゃな」
 (2022.10.19)


「いらっしゃいませ!」
 初めて、ママの働くレストランに来た。あっちに行ったりこっちに行ったり大忙しだ。たくさんのお客さんがママに話しかけている。みんな笑顔だ。
「ママは人気者だね」
 パパが言った。なんだかうれしくなった。わたしは手を高く挙げて、
「ちゅーもんしまーす!」
 (2022.10.20)


「頼むよう、白萩(しらはぎ)に会わせてくれよう」
 情けない声は見世の裏まで聞こえてくる。何度袋叩きにされても懲りない。金が尽きれば想いも尽きる、それが色街の掟だというのに。どうしてあんなのに惚れてしまったのか。白萩は布団を頭から被った。脂の臭いは檻となって、遊女の行く末を閉ざす。
 (2022.10.21)


「あっ、申し訳ありません!」
 (とおる)が水差しを倒してしまった。
「よい、片付けなさい」
 徹は粗忽者だ。それゆえに長兵衛(ちょうべえ)は身近に置いている。若い頃の彼は完璧を求め、過ちを忌避した。それがいかに非人間的な考えだったか、隠居するまで分からなかった。気づかせてくれたのが、徹だった。
 (2022.10.22)


 浪人伊牟田(いむた)左門(さもん)は鼻があるべきところに鼻がない。壮絶な斬り合いの末に失ったと言い、肝の小さな者は相対しただけで萎縮してしまう。
 しかしそれは嘘であった。昔日の修行の折に、師の剣に怯え身をよじり鼻先を斬り飛ばされたのである。左門はしぶとかった。恥を武器に変えて生きていた。
 (2022.10.23)


 缶ビールを買う。500ml。独りのころは350mlだったけど、きみと暮らし始めてから、いつのまにか変わった。ふたりでひとつを半分こ、だからちょっと足りない。でも足りないくらいがちょうどいい。ほどよくほろよい。満たされることが怖くなっている。それは、幸せだからだと思うとしよう。
 (2022.10.24)


「臆病者め!」拘束されながら、過激な活動家は叫ぶ。
「凡人は正しき行いを拒絶する。怖いのだ、己の常識が揺らぐのが怖いのだ。見よ、我らの正しさは、時が必ず証明する!」
「そうだな」警官は応えた。
「だからしっかり罰を受けろ。今この時、お前らの行いはただの犯罪なんだからな」
 (2022.10.25)


 合戦まで間もない。檄を飛ばす大将を足軽たちが眺めている。
「俺も大将をやりてえなぁ」
「務まるもんか」
「うるせえ」
「考えてもみろ、おめえ、何百人もの人間を指揮できんのか?命預かれんのか?」
「……いんや」
「それができるからこその大将よ」
「なぁる」
「じゃ、あとでな」
 (2022.10.26)


 大聖堂に鳴り響く巨大なパイプオルガン。作曲家ストラヴィンスキーは『呼吸をしない怪物』と表現した。強弱変化への難をついた巧言であるが、今の私は『怪物』、その言葉だけをひしと感じている。神の御元に巣食い、聖歌を吠える異形。私はこれから、この怪物を手懐けねばならないのだ。
 (2022.10.27)


 酒でなめらかになった舌から溢れる言葉は、たいていその場限りの浅いもの。しかしどうして私たちはこの世の真理みたいに錯覚して、夢を見たり恋に落ちたりしてしまう。ゆめゆめ忘れるなかれ、酒が悪いのではない、人間が悪いのだ。所詮一夜の戯れ、朝が来る前に排水溝に流してしまおう。
 (2022.10.28)


「こんにちは」
 崖の縁に立つ人影に声をかけた。監視員の証を掲げて、
「そこは危ないですよ。こちらでひと息つきませんか」
 人影は応えず地面を蹴った。私は崖下を覗く。何もない。やはり……まだ成仏できないのだろう。自殺などするべきではない。厭な思いをするのは生きているほうだ。
 (2022.10.29)


 覆面作家の正体は担当者すら知らない。やりとりは全て親族だという若者を介している。マスコミは若者の自作自演ではないかと疑った。若者はマスコミを自宅に招き、堆く積まれた自筆の原稿を見せた。そして仏壇を開いた。老女の遺影が微笑んでいる。
「無口なので、取材はご遠慮ください」
 (2022.10.30)


 街はハロウィンの仮装を楽しむ人々で賑わっている。ま、私には無縁の世界だが……。
 次の瞬間、ぐいと袖を引かれた。
「写真いいですか!」
「!?」
 フラッシュの明滅。訳がわからず何とか逃げ出した。

 その夜、SNSに私の写真があふれていた。
『サラリーマンのコスプレ似合いすぎ!』
 (2022.10.31)
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