2022.6.1~2022.6.15

文字数 2,183文字

 裏口から出なさいと光代(みつよ)は言った。着付けた襟元から鎖骨が覗き、先刻までの痴態が脳裏をよぎる。悠長にしている暇はないのだが、初めて直面する間男の危機は妙に白々しくて芝居の匂いすら感じる。またなと気取って踏み出した足が非常階段を軋ませて、阿呆はぞっと冷や汗をかくのだった。
 (2022.6.1)


 目が覚めてしまった。今日が来なければと何度思ったことだろう。寝る前のお祈りも神さまには届かなかった。今日、ぼくはみんなに転校を告げる。重い身体を引きずって通学路を歩く。生徒の笑い声が聞こえてくる。涙がぼろぼろとこぼれ出す。学校に行きたくないと、生まれて初めて思った。
 (2022.6.2)


 晴れ渡る空の下、おんぼろの軽自動車は湾岸沿いをひた走る。冷房を止めて車窓を開け放つと、熱い潮風が汗を燃やした。昂る気分がカーステレオから流れるサザンを引き立てる。曲を聴いた数だけ、ありもしない恋を失った。いつか本当に恋をしたとき、ぼくは……。
 やがて海は遠く離れゆく。
 (2022.6.3)


 プレイボーイでならした俳優がいた。ある日生放送で若いアイドルに絡み、彼女が押し退けた途端、自慢の長髪が床に落ちた。カツラだったのだ。それ以来、俳優もアイドルも姿を消した。
「つまらん見栄だった」
 老いた元俳優は述懐する。禿げ上がった頭を撫でているのは、あのアイドルだ。
 (2022.6.4)


 梅雨前線から逃れるように、私は日本列島を北へと向かった。シャバには戻れないと思っていた。何人も人を殺めたのだから。脱獄を決めたのは、ただひとつ心残りがあったからだ。母の墓参り……良心の欠片もない人間にも、親を敬う気持ちがあるのが不思議でならない。行く手は晴れている。
 (2022.6.5)


 セイウチが賢い動物なのは知っていた。この水族館でもいろんな芸を見せてくれた。その一頭が目の前にいるのだが、
「……人が入ってないよね?」
「いいえ、本物です」
「ですよね……」
 仕草が完全におっさんだ。脇腹をぼりぼりやっている。あと目付きがいやらしい。賢いって何だろう。
 (2022.6.6)


 カッコよく生きようとしたけど、カッコわるくしか生きられなかった。あがく姿は、すり減った靴でタップを踊っているようだった。そんな俺を「カッコいいよ」と誉めてくれたひとがいた。いまだに信じられないけれど、まぶしい笑顔を見ていたらどうでもよくなる。とにかく、幸せにするよ。
 (2022.6.7)


 あの世に金は持っていけない。
「そんなものは迷信だ!」
 富豪は有り金すべてを棺桶に詰めて逝った。荼毘に付される際、その魂は金に染み込んだ妄念と絶妙にハイブリッドした。そして生成された人だか札束だか分からないモノは極楽はおろか地獄にも入れず、辺境をさまよう羽目になった。
 (2022.6.8)


 陽は中天に高く、地表から影という影を焼き尽くしている。外回りには最悪の日和だ。アスファルトの臭いを避けながら街路をゆく。誰も表を歩いていない。世界にはおれ一人。ふと陽炎に目がくらんで――。
「あの」
 振り返ると、息を乱した女がいた。
「匿ってくれませんか」
 これも陽炎か?
 (2022.6.9)


 人間が視ている世界は光の屈折が生み出した妄想に過ぎない……詩的にでもなりたくなるぜ。いや、さっきあんたがぶっ叩いてたゴキブリ、覚えてる?覚えてない?じゃあ思い出してみなよ。そんなことはどうでもいい、なぜ自分は牢屋にいるのかって?……なあ、ゴキブリの血って、赤いのか?
 (2022.6.10)


 商店街の小さなライブハウス。壁のあちこちが剥がれ、立て看板の文字もかすれている。ドアを潜ると、ムーディーなギターの調べに包まれる。出演者も観客も中高年だ。みな幸せそうな顔で、在りし日のヒットソングに合わせて身体を揺らしている。人はいつだって、青春に戻ることができる。
 (2022.6.11)


 納骨堂に入ると、香箱座りのゴンが居る。無言。この猫が鳴くところを見たことがない。
「人の慣わしを覚えたのだろう」住職は言う。
「仏に手を合わせる場所で、大声を出す者はおらんからな。賢いやつだが……畜生としての性は無くしておるのかもしれんな」
 その顔は少し哀しそうだった。
 (2022.6.12)


 ご祝儀を整理していた手が止まる。『寿』の文字が心なしか薄い。恐らく筆ペンで書いたものだろう。名前の部分は濃いから、途中で出が悪くなりペンを変えたのかもしれない。礼儀知らずだが気にすることではないと思う。思うが、おぞけを禁じ得ない。私も妻も、書かれた名前に覚えがない。
 (2022.6.13)


 追いつめられた強盗は、警察官に向けて銃を発射した。心臓めがけて一直線――その瞬間、世界の時間が停止した。煙と共に現れたのは神と悪魔。
「まだ生かしといたほうがいいと思うが、どうだい?」
「そうかな。わしはここまでだと思うぞ」
 二人は長考を始めた。人の運命はこうして決まる。
 (2022.6.14)


 大口を開けて笑うきみの歯には青のりが付いている。みっともないと隠すも全く気にしない。やれやれと思いつつ、そんな奔放な姿に惹かれていった。結局ぼくは告白したのだが、付き合いだしたとたん恥じらうようになるとは想像だにしていなかった。そしてぼくが二度めの恋に落ちることも。
 (2022.6.15)
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