2023.4.16~2023.4.30
文字数 2,191文字
鍵がうまく回らない。単に錆び付いているせいなのだが、親不孝な息子への抵抗のように思えて我知らず涙がこぼれた。あれこれ理由をつけて寄り付かなかった実家に、こんなタイミングで戻ってこようとは。解錠の音が響いた。様々な思いが胸をざわつかせるまま、呼吸を整え足を踏み入れる。
(2023.4.16)
スーパーマーケットは博覧会だ。あらゆる企業の商品が一同に介する場所。それらを自由に手に取って眺めることができる。謳い文句やデザインなど、細部に宿るこだわり。丸一日居ても飽きないエンターテイメントが、我々の身近に存在している……などと愉しんでいるのは私くらいのものか。
(2023.4.17)
雪の積もる町に行きたいと思う。曇天を背負った海辺で、港には春を待つ船舶が固く身を寄せ合っている。ひと気の絶えた交差点で、信号機が孤独なウインクを続けている。そんな場所にはきっと幸せも不幸せもない。考える余裕すらない。吹きすさぶ寒風が、生と向き合う厳しさを研いでいる。
(2023.4.18)
対流の絶えた海水は羊膜のように粘り、ダイバースーツを圧してくる。タンクの残量は残りわずか、しかし潜り込んだ隘路に出口の兆しは見えない。身体を反転させるだけの余裕はなく、引き返すには遅すぎた。恐ろしい想像を振り払いながらひたすらに水を蹴る。肩口がざりざりと擦れ始める。
(2023.4.19)
わたしたちは、どちらからともなく唇を離した。十秒にも満たない静寂に恋とか愛とかを考える隙間はなかった。ただお互いの放つ匂いが、嵐のようにざわめいていた。
「好き」
感嘆符も付けずに呟いた。彼は舌をもつれさせる。無言で急かす身じろぎに、早くも賢しいオンナが芽吹いている。
(2023.4.20)
マヨネーズをつけたセロリを食べたりハムときゅうりのサンドイッチを食べるような人間を、友人はハルキストだとからかう。ぼくからしたら味噌汁に卵を割り入れて飯を食ったりあさりと大根の鍋で酒を飲むようなやつはイケナミストとでも言えばいいか。読書好きのたわいもないじゃれ合い。
(2023.4.21)
カウンターで、飲みかけのジョッキを前に項垂れている男。ビールは気が抜けてしまい、まるで無作法を詫びているかのように見える。私は一礼し、ビールを取り替えようとした。その手を、男の骨ばった指が止めた。
「このままに」
男は再び頭を垂れた。私は祈りの時を妨げた無礼を詫びた。
(2023.4.22)
かつては大勢の来園者で賑わったのだろう、それが見る影もなく荒廃した光景の中で、うち捨てられた多肉植物だけが生き生きとしている。だらしなく繁茂する様はゴーギャンの描く娼婦のようで、見ているこちらが赤面するほどあけっぴろげだ。極彩色の肌に乗った夜露が、ただ一つの装飾品。
(2023.4.23)
収穫した野菜のうち、商品になるものは三分の一にも満たなかった。病害の影響は予想以上で、無農薬を謳ううちのような農家にとっては深刻な問題である。取れる対策は限られている。この苦難をいかに乗り切るか……無駄になった月日を思いながら、ぎゅうぎゅう詰めの段ボールに封をする。
(2023.4.24)
ボロ車に鞭打って、湖の外周をぐるぐる巡る。昔遊んだゲームを思い出す。タイムを競う友はなく、何に追い付こうとしているのか何を追い越そうとしているのか、自分でもわからない。ひょっとすると追い付かれようとしていて追い越されようとしているのかもしれない。大逆転もないままに。
(2023.4.25)
「あんた、ワケありだね」
フロントの老婆はぴしりと決めつけた。あっけに取られる。ただ出張で泊まるだけなんだが。
「何十年も宿泊客の受付してりゃすぐ分かるよ。男に借金負わされたまま逃げられて、放浪の果てに辿り着いたのがここでさ……」
老婆のほうがよっぽどワケありのようだ。
(2023.4.26)
雨に濡れた石畳に仏頂面が映っている。不機嫌さからではなく、膚一枚で涙の氾濫を圧し留めているのだ。親子の離別は損得の算盤を弾く生臭い商談だった。私は親として、敢えて損を掴む懐の深さを持ち得てはいなかった。だから我が子が隠し通す本心は、刃となって胸を抉ってくるのだった。
(2023.4.27)
榊立を覗き込む。新月のような虚に向けて唇を緩めると、泡混じりの唾液がどろりと流れ落ちた。上から水道水で蓋をして榊を挿し、神棚に置く。この恥知らずな一族が奉る神は、嫁いだ女の苦悩に黙りを極め込んでいる。だから私は呪う。献身の仮面を被り、生者の残滓で汚し続けてやるのだ。
(2023.4.28)
ホームに降り立った人影は私の姿を認めると、気安げに右手を挙げて見せた。左手を挙げて返しながら、胸に湧く暗雲が漏れないよう固く唇を引き締める。放蕩息子の帰郷は日常を掻き乱すだけで何の益もない。啖呵を切って出て行ったくせに甘すぎる――その言葉は返す刀で己を切り刻んでいる。
(2023.4.29)
炭鉱で有毒ガスが漏れ、多くの死傷者が出た。ガスを検知するためにカナリアが持ち込まれていたが、生存者によると炭鉱夫が苦しみ出しても囀りが止まることはなく、自らも息絶えたそうだ。カナリアは被疑者死亡のまま書類送検されたが、劣悪な労働環境が明るみとなり、炭鉱は閉鎖された。
(2023.4.30)
(2023.4.16)
スーパーマーケットは博覧会だ。あらゆる企業の商品が一同に介する場所。それらを自由に手に取って眺めることができる。謳い文句やデザインなど、細部に宿るこだわり。丸一日居ても飽きないエンターテイメントが、我々の身近に存在している……などと愉しんでいるのは私くらいのものか。
(2023.4.17)
雪の積もる町に行きたいと思う。曇天を背負った海辺で、港には春を待つ船舶が固く身を寄せ合っている。ひと気の絶えた交差点で、信号機が孤独なウインクを続けている。そんな場所にはきっと幸せも不幸せもない。考える余裕すらない。吹きすさぶ寒風が、生と向き合う厳しさを研いでいる。
(2023.4.18)
対流の絶えた海水は羊膜のように粘り、ダイバースーツを圧してくる。タンクの残量は残りわずか、しかし潜り込んだ隘路に出口の兆しは見えない。身体を反転させるだけの余裕はなく、引き返すには遅すぎた。恐ろしい想像を振り払いながらひたすらに水を蹴る。肩口がざりざりと擦れ始める。
(2023.4.19)
わたしたちは、どちらからともなく唇を離した。十秒にも満たない静寂に恋とか愛とかを考える隙間はなかった。ただお互いの放つ匂いが、嵐のようにざわめいていた。
「好き」
感嘆符も付けずに呟いた。彼は舌をもつれさせる。無言で急かす身じろぎに、早くも賢しいオンナが芽吹いている。
(2023.4.20)
マヨネーズをつけたセロリを食べたりハムときゅうりのサンドイッチを食べるような人間を、友人はハルキストだとからかう。ぼくからしたら味噌汁に卵を割り入れて飯を食ったりあさりと大根の鍋で酒を飲むようなやつはイケナミストとでも言えばいいか。読書好きのたわいもないじゃれ合い。
(2023.4.21)
カウンターで、飲みかけのジョッキを前に項垂れている男。ビールは気が抜けてしまい、まるで無作法を詫びているかのように見える。私は一礼し、ビールを取り替えようとした。その手を、男の骨ばった指が止めた。
「このままに」
男は再び頭を垂れた。私は祈りの時を妨げた無礼を詫びた。
(2023.4.22)
かつては大勢の来園者で賑わったのだろう、それが見る影もなく荒廃した光景の中で、うち捨てられた多肉植物だけが生き生きとしている。だらしなく繁茂する様はゴーギャンの描く娼婦のようで、見ているこちらが赤面するほどあけっぴろげだ。極彩色の肌に乗った夜露が、ただ一つの装飾品。
(2023.4.23)
収穫した野菜のうち、商品になるものは三分の一にも満たなかった。病害の影響は予想以上で、無農薬を謳ううちのような農家にとっては深刻な問題である。取れる対策は限られている。この苦難をいかに乗り切るか……無駄になった月日を思いながら、ぎゅうぎゅう詰めの段ボールに封をする。
(2023.4.24)
ボロ車に鞭打って、湖の外周をぐるぐる巡る。昔遊んだゲームを思い出す。タイムを競う友はなく、何に追い付こうとしているのか何を追い越そうとしているのか、自分でもわからない。ひょっとすると追い付かれようとしていて追い越されようとしているのかもしれない。大逆転もないままに。
(2023.4.25)
「あんた、ワケありだね」
フロントの老婆はぴしりと決めつけた。あっけに取られる。ただ出張で泊まるだけなんだが。
「何十年も宿泊客の受付してりゃすぐ分かるよ。男に借金負わされたまま逃げられて、放浪の果てに辿り着いたのがここでさ……」
老婆のほうがよっぽどワケありのようだ。
(2023.4.26)
雨に濡れた石畳に仏頂面が映っている。不機嫌さからではなく、膚一枚で涙の氾濫を圧し留めているのだ。親子の離別は損得の算盤を弾く生臭い商談だった。私は親として、敢えて損を掴む懐の深さを持ち得てはいなかった。だから我が子が隠し通す本心は、刃となって胸を抉ってくるのだった。
(2023.4.27)
榊立を覗き込む。新月のような虚に向けて唇を緩めると、泡混じりの唾液がどろりと流れ落ちた。上から水道水で蓋をして榊を挿し、神棚に置く。この恥知らずな一族が奉る神は、嫁いだ女の苦悩に黙りを極め込んでいる。だから私は呪う。献身の仮面を被り、生者の残滓で汚し続けてやるのだ。
(2023.4.28)
ホームに降り立った人影は私の姿を認めると、気安げに右手を挙げて見せた。左手を挙げて返しながら、胸に湧く暗雲が漏れないよう固く唇を引き締める。放蕩息子の帰郷は日常を掻き乱すだけで何の益もない。啖呵を切って出て行ったくせに甘すぎる――その言葉は返す刀で己を切り刻んでいる。
(2023.4.29)
炭鉱で有毒ガスが漏れ、多くの死傷者が出た。ガスを検知するためにカナリアが持ち込まれていたが、生存者によると炭鉱夫が苦しみ出しても囀りが止まることはなく、自らも息絶えたそうだ。カナリアは被疑者死亡のまま書類送検されたが、劣悪な労働環境が明るみとなり、炭鉱は閉鎖された。
(2023.4.30)