2020.5.1~2020.5.15

文字数 2,312文字

 老いた鮫は深海の洞窟に身を潜めていた。一時に死を悟り、潮の向くままここに辿り着いたのだ。奇しくも新鮮な海流が魚群を運び、口を開くだけで腹が満ちた。肥え太った身体は、今や動くことすらままならない。鮫は、ただ生きている。強欲な蟹たちが(ひれ)を齧っていることにすら気づかない。
(2020.5.1)


 箱根芦ノ湖の“逆さ杉”。遥か昔、地震による地滑りで岸の杉が湖底に沈んだものである。今は船の運行を妨げぬよう切断され、その姿は湖水に紛れてしまっている。 しかし地元の人によると、数年置きに“逆さ杉”が目撃されているそうな。水の中を動いていたと言う者もいるらしい。はたして……。
(2020.5.2)


 弥太郎(やたろう)は獣道を進む。陰険な上役を斬り、潔く腹を切ろうとしたが、出来なかった。自室に整えていた白鞘の短刀を握れず、そのまま出奔した。卑怯な振る舞いだ。武士にあるまじき……では武士とは?弥太郎は思う。家か、刀か、魂か。
(いずれにせよ、私にはもうない)
 男は独り、深山を踏む。
(2020.5.3)


 泣くふりをするのは得意だった。俯いて鼻の奥に力を入れれば、自然と涙が流れた。みんな、面白いくらいに騙された。労り、慰めてくれた。嫌なこと、やりたくないことはそうやって避けてきた。人生なんて、コツさえ掴めばちょろいものだ。ぬるく、ゆるく、命を私は消費する。これからも。
(2020.5.4)


 デイヴ・ブルーベック・カルテット『テイク・ファイブ』。私はこの曲で、ジョー・モレロに出逢った。抜群のスティック捌きが5/4の変拍子を淀みなく耳に響かせる。心地よいキレ。大仰な身振りはせずに音を並べていくさまは、太鼓という野性的な楽器が持つエレガントな側面も見せてくれる。
(2020.5.5)


 今年も、役目を終えた鯉のぼりが畳まれようとしている。皆、満腹だった。彼らは人々が寝静まった後、空を泳ぎ、星の光を食べるのだ。ふと持ち主の少年が鯉の身体にほのかな煌めきを見たが、口にしてはいけない気がして、そのまま箪笥に仕舞いこんだ。暗がりの奥で、鱗が淡く輝いている。
(2020.5.6)


 腹が減った――勇作(ゆうさく)は新聞から顔を上げた。胃が疼く。陽が落ちてから、時計の短針は二度回っている。
「婆さん、飯はまだか?」
 勇作は台所に声をかけた。返事はない。立ち上がるのも億劫で、再び新聞の文字を目で追い始める。

 台所には誰もいない。

 結局勇作は、今日も飯を食わなかった。
(2020.5.7)


 強い雨が路面を叩き、塵芥の匂いが濃く漂う。私たちはふたり、窓から煙る街を眺めている。
「こんな天気の何がいいのよ。気が滅入っちゃう」
 ミチルは口を尖らせる。
「きみも大人になれば分かるよ」
「大人になんかなりたくないわ」
 ふた回りも違う私たちの関係……それはまた別の機会に。
(2020.5.8)


 街の一角に突然現れる絵画……それは匿名の路上芸術家の仕業だった。
“Art or Crime?”
 ある夜、商店の壁に絵を描こうとした芸術家は店主と鉢合わせてしまった。しかし店主は言った。
「どうぞご自由に!きみのキャンバスに選ばれて光栄だ」
 途端、芸術家の創作意欲は失せた。
“ lt's Crime.”
(2020.5.9)


 娘夫婦からカーネーションのプレゼント……ここまでは例年どおりだが、今日は二人とも妙に畏まっている。
「どうしたのよ?」
「もうひとつ、プレゼント」
 そう言って、娘は封筒を差し出した。役所からのものだ。中身を出す。
 母子手帳。
 顔を上げる。頷く“母”の姿が、不意に滲んだ。吉日。
(2020.5.10)


 驚くべきことに、人類最初の殺人者カインの化石が発見された。実りを失った土地、頭蓋骨の刻印……『創世記』は真実を語っていたのだ。その手には、おそらく弟を殺した凶器が握られていた。立体にも平面にも見える物体は、地球上のどの元素とも合致しなかった。管轄は国防総省に移された。
(2020.5.11)


 食堂に集った人々は、1942年のざらついた夜の中にいる。食器の触れ合い、ひそひそ話、あるいは煙草のくすぶる音。彼らは未来永劫、この時、この場所に留まり続ける。明けることのない夜を過ごし、来るはずのない朝を待つ。私たちが決して手の届かない世界で、彼らは静かに息をしている。
(2020.5.12)


「こないだ初めて『レオン』観たよ」
「よかったやろ?」
「うん、ヒロインの子めっちゃ可愛かった。誰だっけ、ナタリー・ポールドマン?」
「混じってる混じってる」
「レオンを救おうと人食い豚の群れに身を投げ出すシーンは涙を禁じ得なかったね」
「それいちばん混ぜたらいかんやつ」
(2020.5.13)


 躑躅が咲いたら帰ってくる――貴方はそう言って出ていった。私はその言葉を信じて待っている。季節が何度も巡って、貴方は不意に戻ってきた。だけど、ごめんなさい、今はまだその時じゃないの。躑躅が咲いたら帰ってきて。躑躅が咲いたら……。
 干からびた花壇を前に、女は静かに狂っている。
(2020.5.14)


「あまりにも、満ち足りていたからです」
 財閥の御曹司として生まれ何不自由なく育ってきた男は、ある日突然、赤の他人を惨殺して逮捕された。俯き訥々と語る男を前に、取調の刑事は黙している。
「……あんたさ」やがて刑事は言った。
「笑ってるだろ」
「そんな……」
 男の肩が震え出した。
(2020.5.15)
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