(三)

文字数 2,311文字

 三歳馬の競争を応援していた人たちが戻ってくるのとすれ違いながら、ようやくゴールの近くに来た時には、もう人がいっぱいで、リョウはさらに走って、ゴールよりは二里ほど手前で見物することにした。その辺にも、たくさん人はいるが、何しろ広い草原のこと、視界を邪魔するほどではない。もしかしたら、この辺で浴びる砂埃は、あまりご利益(りやく)がないのかな、とリョウは思った。

 四歳馬の競争は、祭り広場の東にある出走地点から、右回りにぐるりと一周して戻ってくるのだと、シメンは言っていた。草原地帯と言っても、この辺は沙漠といった方が良い荒地である。「沙漠」というのは、遠くから見ると緑がかって見えるのだが、近づくにつれ、あちらこちらに草がパラパラと生えている程度で、小石や土の地肌の方が目につくような場所だ。乾燥地帯のこの辺では、それでも立派な草原である。
 その沙漠を南西に向かって走ると、そこには砂漠が待ち構えている。こちらの「砂漠」は本当に白い砂に覆われた土地で、小高い砂丘を巻くようにその外側を走るのだが、馬よりはラクダの方が速く走れる場所だ。そこを抜けて北西に向かうと、谷があり、川が前を横切っている。さほど大きくはない川だが、早く渡るためには浅くて狭い「馬渡(うまわたり)」と呼ばれる場所が有利なので、各馬はそこに殺到するだろう。そして次の難関は、馬渡から北東に向かった岩山である。それほど険しい岩山ではないので、これを上って短い距離を行く方が、大きく迂回するよりも少し速いのだが、馬の向き不向きもあり、また狭い道しかないので、先頭で山に入らないと、簡単には前を抜けないし、妨害にあう危険性も高い。状況判断が求められるところだ。そして最後は、緑の濃い草地の直線で、この周囲には多くの見物人がいる最大の見せ場となる。

 草原の傍らで競走馬の帰還を待っているリョウの耳に、歩きながら話している二人の男の突厥語が聞こえて来た。
「今年は、ゲイック・イルキンの息子のアユンと、クルト・イルキンの息子のカプランの一騎打ちだろうな。毎年二人は競ってきたが、今年は最後の年だし、気合が入っているだろう。それに馬もいいしな」
「確かに、二人ともいい馬に乗っている。アユンの馬は、突厥馬の中でも特に足の速い北方産の芦毛(あしげ)だし、カプランのは西域の大宛(フェルガーナ)産の名馬だから、甲乙つけがたいな。ただ、カプランはあのとおり、負けず嫌いな奴だから、取り巻き連中を使って、アユンの妨害をさせるだろうから、アユンに勝ち目は無いな」
「いや、乗馬の腕はアユンの方が上だし、突厥馬は沙漠も岩場も強いから、おれはアユンが勝つと思うな」
「よし、それでは毛皮の帽子を一つ賭けよう。俺はカプランだ」

 笑いながら過ぎ去る二人を見送り、リョウはシメンの心配をした。カプランのずる賢さは、アトからも聞いていた。まじめそうにしていながら、人から見えないところでは平気で悪さをするというのである。もっともそんな噂が聞こえてくるくらいだから、もはや公然の秘密なのかもしれない。もともとはカプランの父親であるクルトにそういう噂が絶えず、ゲイックの一族ともあまり仲は良くないのだと、アトは教えてくれていた。

 大きな歓声が上がったので、リョウは草原のかなたに眼をやった。リョウにはまだ何も見えなかったが、目の良い遊牧民たちには、もう四歳馬の先頭集団が戻ってきたのが見えているようだった。しばらくして、リョウにもようやく遠くの砂塵が見えて来た。その砂塵の中から姿をあらわした先頭集団には、アユンやその仲間たちゲイック一族がかぶる青い帽子、カプラン達クルト一族がかぶる赤い帽子が数頭ずつ、それに黄色や緑の帽子も見えている。
 そこからはあっという間だった。甲高い裏声の「ヒャー」、「ホー」という掛け声が聞こえて来たかと思うと、目の前をもうもうたる土埃を上げながら、十頭ほどの馬が猛烈な勢いで走りすぎて行った。帽子のてっぺんに長であることを示す青い飾り紐を立てたアユンの芦毛の馬が、赤い飾り紐を立てたカプランの栗毛の馬に少しだけ遅れているようにも見えた。驚いたことに、シメンの乗るグクルも先頭集団の中で走っているのが見えた。濃い赤褐色の馬体に、黒のたてがみと黒の脚、尻尾(しっぽ)のグクルを、リョウが見間違えるはずが無かった。

 一瞬、「すごいぞシメン、頑張れシメン」と思ったが、同時に万が一にも主人のアユンに勝ってしまったら、後でひどい目にあわされるのではないかとヒヤリとした。しかしその瞬間、シメンのすぐ後方を、前を行くどの馬よりもさらに速い真っ黒な馬が、その速さを一段と上げて追い上げていくのに目を奪われた。
「キュクダグだ!」
 観衆がその黒毛の馬を指して叫んでいた。キュクダグというのは、小さな山という意味で、それは大きな山という名前の部族長ビュクダグ・イルテベルの息子の一人だということはリョウも知っていた。イルテベルというのは、イルキンよりさらに大きな、有力部族長であることを表す称号である。
 今年から初めて参戦したキュクダグは、最近、西域から買い求めた黒い汗血馬に乗っているという噂だった。しかしいくら何でも初戦で乗りこなすのはどうかと誰もが思っていたが、キュクダグは、並ばれて驚いたそぶりを見せたシメンには眼もくれずに、あっという間に走り抜けていった。そこから先は、遠すぎて、もうリョウには見えなくなってしまった。
 やがてゴール付近から、大歓声がさざ波のように聞こえてきた。それは「ビュクダグ」とも「キュクダグ」とも歓呼しているように聞こえたが、リョウは、ともかくシメンに早く会いたいと、ゴールに向かって走り出していた。
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