(六)

文字数 1,900文字

 アユンが、倒れているゲイックに駆け寄った。ブルトを失った赤い兜の兵士たちも動揺して、馬を引きかけた。その時、背後の大きな黒い影がゆっくり動いた……とリョウには見えた。取り囲んで様子を見ていた唐軍が、突厥の隊長どうしの戦いが相打ちに終わったのを見て、その包囲の輪を縮めて来たのだった。リョウたちは、大盾を構えて密集している味方の陣を背に、唐軍との間に立つ形になって身構えた。
 唐軍の中から一人の武将が、軍旗を背負った武将と、もう一人の兵士を連れて前に進み出て来た。旗は別動隊の(りゅう)涓匡(けんきょう)のものではなかった。黒光りする立派な鎧の肩掛けには、見事な赤い刺繍が施され、兜にも大将を示す赤い飾り羽根が付いている。
「もう、身内の争いはその辺で良かろう。わしは、唐の朔方(さくほう)節度使(せつどし)(おう)忠嗣(ちゅうし)である」
 一緒に出て来た兵士が、王忠嗣の言葉を突厥語に訳して、皆に伝えた。
「お前たちは、唐の皇帝に歯向かい、またこの度は唐の意を受けたウイグル・カルルク・バシュミルの連合軍と戦って敗れた。すでに聞き及んでいると思うが、突厥の可汗は戦死した。代わりの者を立てたようだが、まもなくその可汗も、ウイグルらによって打ち破られるだろう。突厥は滅びた。命だけは助けてやるので、武器も家畜も捨てて、今日の夕方までに、どこにでも立ち去れ。ゲイック・イルキンの衆はもとより、ブルト亡き今、クルト・イルキンの部族の衆も同様じゃ。残りたい者は、残ってこの草原で牧畜をすることを許す。唐の奴隷として働いてもらうことになるが、今までと同じ生活で、悪くはしない」

 アユンが、何かを言おうと立ち上がりかけたが、虫の息のゲイックがその手をつかんで引き留めた。
「アユン、お前はもう部族長だ。お前の激情で、皆を殺させてはならない。今は生き延びるのだ、だまって皆を連れて、北に向かえ」
 アユンは、その手を握り返して、肩を震わせた。
 迎撃態勢を解いた味方の陣の後ろから、アユンの母親、そして姉と妹も飛び出してきた。家族と親族、そして親衛隊の兵士らに見守られて、ゲイックは息を引き取った。

 その日の夕刻、アユンは一族を引き連れて、東北の草原に向かって発つ準備を整えた。若者の多くは、アユンに付いて行くが、家族を持つ者や老人には、残る者も大勢いた。
 そしてリョウは、一人、南西に向かう支度をした。武器は何も持っていくなと言われていたが、腰の革帯に、残った石鑿(いしのみ)と祖父の形見の破岩剣を差すことは忘れなかった。(てい)の赤いお守り袋も、革帯に挟んである。王爺さんの形見の「蘭亭叙」と「集王書(しゅうおうしょ)聖教序(しょうぎょうじょ)」の拓本も、一度は手に取ったが、それは、もうボロボロになっていた。「王爺さん、すまない、これは置いていくよ」と心の中で謝って、そっと傍らに置いた。そこに書かれた全ての漢字は、既にリョウの頭の中に生きていた。

 別れの時、リョウは集落のはずれでアユンやテペ、それにバズやカルなど奴隷武人たちと向き合った。バズは、リョウの後を継いで、急遽、アユンの奴隷ネケルに指名されていた。
「テペ、アユンを頼む。バズ、仲間たちを頼んだぞ」
「リョウ、お前は、もう奴隷ではない。だけど、やっぱり俺と一緒に来てくれないかな」
「アユン、お前の気持ちはものすごく嬉しい、本当にありがとう。俺は、奴隷としてではなく、一人の男として、お前と一緒にいたいという気持ちはある。しかし、そこは今、俺が居るべき場所ではないと、自由になった俺の心が言っている。お前は北の空の下で生き続けろ、俺は南の空の下で生きる。そこで吹く風は違うかもしれないが、空はつながっている。生き続ける限り、風はいつか俺たちを同じところに運んでくれる気がする。北でも南でもない、平和な空の下でまた会おう」
 アユンの眼が濡れて夕陽に光った。リョウの眼も、熱くなった。
「さらばだ」
 南に向けて馬を走らせ始めたリョウを、タンの馬が追いかけて来た。
「リョウ、俺も連れて行ってくれ」
「よし、わかった。タン、走るぞ」

 丘の上で振り向いて、アユンたちに大きく手を振った二人は、もう振り返らず、草原を南西に向かって馬を走らせた。その先には、唐が支配し、ソグド人やウイグル人が活躍する、オアシス都市群がある。そして、シメンもそのどこかに暮らしているはずだった。
「シメン、待ってろ。もうすぐ、会えるぞ」

 (さえぎ)るものの何もない大草原の先には、大きくて真っ赤な太陽が沈もうとしていた。馬上のリョウは、草原の風を全身に受けながら、思いっきり息を吸った。そして、それを全部、吐き出した。心の中を風が洗っていったような気がして、リョウは少し微笑んだ。

 (「石刻師リョウ 草原の風」 おわり )
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