(二)

文字数 1,518文字

 自分たちが縛られている以外は、いつもと同じ広い草原と青い空が眼前に続いている。それを見ると、ここで縛られていることが現実ではないように感じられ、リョウの心は落ち着いてきた。
 頬に、風も感じられた。リョウは、死ぬかもしれないというのに、この大きな自然の前に、それはどうでも良いことのように思えて来た。いや、どうでも良くはないが、どうしようもないことなのだという、開き直りのような気持だった。
 ネケルに指名されて以来、心のどこかで、こういう日が来ることは覚悟していたはずだ。ただ、それがこんなに早く来るとは、敵と戦う前に来るとは、思っていなかった。しかし、いつかは死ななければいけないのだ。ひとつだけ、シメンをこんなに早く一人ぼっちにしてしまうことだけが悔やまれた。

 アユンがポツリと言った。
「今日の大鹿はどうなったかな……」
 テペとクッシが口々に答えた。
「そう言えば、あのあと、どうなったか見てなかったな。狩猟民族のバルタ隊が仕留めたんじゃないか」
「あの鹿は、アユンを惑わして、アユンの矢をキュクダグの背に向かわせた。呪われた鹿だ。あんな奴は、誰かに殺されていればいい」
 二人の言葉に、アユンが首を振った。
「クッシ、そんなことを言うものじゃない。俺たちの一族は狼だけでなく、鹿の血もひいているんだ」

 アユンは、突厥(とっくつ)と自分たち一族の祖先の話を語った。幼い時から、アユンの母が何度となく聞かせてくれた言い伝えだという。

―― かつて、この草原に邪悪な隣国に滅ぼされた一族がいた。老いも若きも、男も女も皆殺しにされたが、敵の兵士は最後に残った一人の少年を殺すのをためらい、その子の足の腱と腕を切って、草原に転がしておいた。一匹の牝の狼がその少年に毎日、肉を運び、生き延びさせた。やがて成長した少年は、その牝狼と交わり、身ごもらせた
―― 牝狼が身ごもっていると聞いた隣国の王は、これを殺そうと兵を送ったが、大鹿がこれを守った。そして狼はたちまち高い山に登り、そこで十人の子を産み育てた。その十人の子供の子孫がそれぞれ今の氏族を作ったのだ。王族である阿史那(あしな)氏もその十人のうちの一人の末だという
――ゲイック・イルキンの一族は阿史那氏に服属しているが、元をたどれば突厥の民は皆その牝狼にたどり着く。その中でも、我が一族はゲイック(鹿)の名が示すように、牝狼を守った大鹿の末でもあるのだ

 祖先からの言い伝えを語り終えたアユンは、はるか遠くを見るような眼をして言った。
「俺はな、だから、あの鹿が生き延びてたらいいな、って思てるんだ。狼も鹿も、誇り高い動物だ。そりゃ、羊を喰われては困るから狼は狩るし、鹿だって出てきたら殺す。だけど、必要以上に殺してはいけないって、おふくろも言っていた。今日、俺に向かって来た大鹿は、俺の矢をすり抜けた。あいつには生き抜いてもらって、いつか俺の手で仕留めてやらなくてはと思っているんだ」

 その言葉に、リョウは気付いた。死罪を言い渡されたアユンには、死ぬ気が全くないのだ。
 リョウには、狼も鹿もどうでも良かった。アユンは、狼と鹿の血をひく自分がこんなことで殺されるはずはない、と信じている。奴隷が身代りになるものだと、なんの疑いも持っていない。それが、この狼の血をひく遊牧民族での、奴隷の立場なのだろう。
 突然、リョウの中で、怒りが沸き上がってきた。さっきまで死ぬことはどうでもいいように思っていた自分に対する、激しい怒りだった。生きるんだ。自分はまだ何も成し遂げていないではないか。奴隷のまま死んではだめだ。隙を見て、この状況から何としてでも抜けだすんだ。そしてシメンを連れてどこかに逃げよう。簡単に、死ぬわけにはいかない。
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