(三)

文字数 1,450文字

 夜明けが近づいていた。あれほど輝いていた星たちはとっくに消え去り、白い三日月が、少しずつ赤みを増す空に浮かんでいる。黒い塊にしか見えなかった森の木々も、今は一本一本がうっすらとその姿を浮かびあがらせてきていた。
 敵の駐屯地はもうすぐそこだ。早起きの兵士はもう起き出しているかもしれない。しかし、ここまで来れば、もう馬群の駆ける音を気にする必要もない。リョウは、唐の部隊が早朝の奇襲を予想せずに寝ていてくれることを祈った。

 先頭を走っていたティルキ配下のラコンの部隊は、敵陣の前で立ち止まり、火矢を陣内の天幕に向かって大量に射かけた。その横をすり抜けながら、グネスの指揮するリョウたち奇襲部隊は、喚声を上げて全速力で陣営になだれ込んだ。

 しかし、様子が違った。悲鳴を上げて飛び出してくると思った唐の兵士は、一人もいなかった。やはり、奇襲が見抜かれていたのだ。もしかしたら、リョウとカヤが逃げ出したのに気づいて警戒を強めたのかもしれない。

「誰もいない。敵の罠だ。引けえー!」
 叫んだのは、グネスだった。ラコンも、同時に叫んだ。そして、戻ろうと振り返った二人の将が見たのは、それよりも早く、一里も前で馬首を返して、逃げ始めているブルトとその兵士たちの背中だった。

「なんてすばしっこい奴なんだ。遅れるな」
 一番後ろで、突撃の指示をしていたはずのブルトたちが、真っ先に引き返していることに、リョウは腹が立つよりも、「やはりな」という嫌な感じを受けた。何かが仕組まれているのではないかという、もやもやした疑念が闇の中から、姿を現したようだった。

 しかし、それ以上考える余裕はなかった。振り返ったリョウたちの、すぐ横の林の中から弓矢が浴びせられ、敵の歩兵が湧きだしてきた。追われるように、来た道を戻ろうとすると、右前方の丘から、空気を震わせる振動と共に、遠い喚声が聞こえてきた。丘の向こうに布陣していた重武装の騎馬隊が向かってきているのだろう。

 さらに、ブルトとその兵たちが逃げ出した後を塞ぐように、左前方の林の中からも歩兵が現れ、逃げ遅れたリョウたち四百騎余りは、このままでは完全に包囲されそうだった。ラコンが、まだ敵兵の姿が見えない右の丘に向かおうとしたのを見て、リョウが叫んだ。
「そっちからは千騎の騎馬がくる。逃げ道も無い!」
 グネスが、馬の尻に手綱で鞭を当てながら、左前方から湧き出てきた兵士の群に向かった。
「こっちを切り崩す。続けえー!」

 騎馬と歩兵では圧倒的に騎馬の方が強い。まだ右からの騎馬隊が現れる前に、左前方の歩兵を蹴散らせば脱出は可能だ。そう思ったところへ、今度は左前方の林から、歩兵に続いて騎馬兵も現れた。丘の陰に隠れていた重武装の騎馬兵とは別の、歩兵と一緒に行動していた二百騎の騎馬隊だろう。
 左前方の敵の軍勢は、歩兵と騎兵で二段構えの弓兵を並べ、逃げてくる突厥の騎馬軍との距離を測り、空に向かって一斉に遠矢を射かけてきた。周りの兵士に矢が(あた)って、次々と落馬していく。敵ながら、実によく訓練され、統率の取れた攻撃だった。こちらの短弓はまだ届く距離ではない。これが(おう)忠嗣(ちゅうし)の軍の強さなのだと、リョウは腹の底から恐怖が沸き上がってきた。
 このまま敵の矢の餌食(えじき)になって死んでしまうかもしれない。前に進んで敵を倒すほかに逃げ道はない。「()らなければ、()られる」という本物の恐怖に、リョウの腹は座った。それに、その先には自分が仕掛けた一筋の光明も期待できた。その光明を祈りながら、リョウは突き進んだ。
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