(一)

文字数 1,615文字

 敵陣から三十里ほど手前の、馬の乗り換え予定地に、まだ味方は到着していなかった。
――これなら、まだ間に合う、引き返すか、あるいは後続の本隊を待つよう進言すれば良い。
 リョウは、ほっとしてさらに馬を進めた。
 しばらくして、奇襲部隊の(ひづめ)の音が聞こえ、やがて馬影を前方に認めた。リョウは、敵と間違われないよう、馬の歩を緩め、突厥(とっくつ)語で呼びかけた。
 近づいてきたのは、奇襲部隊の先陣を務めるティルキ配下の兵士だった。しかし、兵士らはリョウを認めると、いきなり剣を抜き、馬を降りるように促した。訳がわからないまま、「敵の伏兵が居るので隊長に合わせてくれ」と必死に訴えると、兵士らはリョウの両手を縛り、奇襲部隊の隊長ブルトの元に連れて行った。 

 ブルトの横には、リョウたち斥候が襲われる前に、腹が痛いと言って林に消えたネヒシュが戻っていた。
「俺は、お前が唐の陣営に逃げ込んだのを見た。裏切り者が、何をのこのこ戻ってきた。さては、間諜に仕立てられたのか。そんな奴は、すぐに首を()ねてやる」
「俺は逃げ込んでなぞいない。捕まって捕虜にされていたのだ。一緒に捕まったカヤは戻ってないのか。カヤに聞いてくれ」
「カヤは戻っていない、殺されたんだろう。あるいはお前が殺したのか」
「何を言っている。お前は見てないだろうが、あの陣営の近くには、重装備の騎馬の伏兵が千騎以上、待機している。このまま進んだら、わが軍は袋の鼠だ」
「そう言え、と言われたんだな。攻撃を中止させるための計略だろう」
 ブルトが、いまにも剣を抜かんばかりのネヒシュを手で制した。
「まあ待て。ここで殺したら、ゲイック・イルキンに何を言われるかわからん。戦の後で、皆の前で尋問してから処分する。ネヒシュが証人だ」
 
 リョウが戻ったと、兵士から連絡を受けていたアユンが、クッシやテペを連れて駆けつけていた。ブルトが、アユンにリョウを突き出した。
「おい、アユン。こいつは、裏切り者だ。逃げないように見張っておけ。縄はほどくな、命令だ。逃がしたら、お前らも同罪だぞ」

 自分たちの隊に戻ると、皆に囲まれたリョウは、アユンの眼を覗き込んだ。
「アユン、俺を信用してくれ。俺は、決して裏切ってなぞいない。敵に見つかり、カヤと一緒に捕虜にされていたのだ。もう一人の斥候は矢で射殺(いころ)された。俺は、カヤを助けて一緒に逃げ出したが、敵の伏兵を確かめるために、カヤを先に帰らせたのだ。カヤは大怪我をしているので、どこかで落馬でもしているのかもしれない」
 アユンが真剣な顔でリョウを見返した。
「リョウ、俺はお前を信じている。ここにいる、テペやクッシ、それにお前の兵たちもそうだろう。しかし、カヤが戻っていない。作り話だと言われても仕方がない状況だ」
「俺のことは、今はどうでもいい。それよりも、この奇襲は敵に知られている。敵は、少なく見ても千騎の騎馬隊を、陣営から少し離れた丘の陰に隠している。俺は、この目で見てきた。すぐ引き返すか、応援を待たないと、皆やられてしまうぞ」
「ブルトには話したのか」
「もちろん話したが、全く無視された。自分の斥候のネヒシュが、敵陣は歩兵が千人ばかりで、騎兵も少ないと報告したからだろう。アユン、頼むからブルトに言って、この行軍を止めてくれ」
「実は、我々が出陣する直前、クルト・イルキンの集落に、正体不明の軍勢が近づいていると急使があって、クルトの部隊は、ビュクダグの許しを得て、大半がそちらに向かった。それなのに、この攻撃の手柄が欲しいのだろう、ブルトだけは五十人ほどの手勢と一緒に隊長として残ったのだ。そんな奴が、みすみす攻撃を止めるはずがない」
「それならせめて、ドムズに使いを送って、援軍を急がせてくれ」

 アユンは、ドムズの腹心で百人隊長の補佐でもあるグネスと相談して、ドムズに援軍を急がせる急使を送ることにした。もしリョウの話が嘘ならば、自分が責任を取ると言って、グネスを説得したのだった。
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