(四)

文字数 1,562文字

 シメンは、悦おばさんのゲルに住んで、仕事の手伝いをしていた。張や他の奴隷と一緒に寝起きしているリョウとは離ればなれだったが、それは二人で逃亡するのを防ぐという意味合いもあったのだろう。それでも、二人で時々会うことは許されていた。女奴隷である限り、シメンもいつかは他所に売られてしまうだろう、とリョウは張から聞かされていた。だから、できるだけ会えるうちに会い、両親のことや祖父のことを、思い出せる限り話しておきたいと思った。

 二人が会うのは、集落のはずれにある馬柵の(かたわ)らだった。二人で馬柵に寄りかかっていると、グクルも気付いて近寄ってくる。
 グクルは、部族の副隊長であるドムズのものになっていたが、ドムズの数頭の馬の世話はリョウが言いつけられていた。鞍や腹帯、矢筒などを外し、濡れている身体を枯れ草とボロ布で拭いてあげると、グクルはいつも気持ちよさそうにしていた。これを怠ると病気になりやすいのだ。シメンも時間があればよく来て、リョウを手伝ったり、グクルの顔を撫でたり、話しかけたりしていた。もっとも、今、グクルが近寄ってくるのは、シメンがこっそり持ってくる木の実やニンジンの切れ端が目当てなのだろうが。

 二人とも、文字どおり、毎日、朝から晩まで働いている。少しだけリョウの手が空く食事の前後は、シメンが食事の支度や片づけで忙しいし、夜になるともう会えないので、二人で話せるのは朝の早い時間、まだ夜が明けきらない時間帯だけだった。でも二人ともこの時間が好きだった。日が長くなる春から秋にかけて、星が消えかかり、広い地平線上の層雲が刻々と紫から赤に変わり、やがて橙色の陽が昇ってくる空は、毎朝見ているのにいつも美しいと感じた。

 リョウは、シメンの幼い頃の記憶が薄れないように、そして自分自身が忘れないように、いろいろな話をした。父と母の生死は定かではなかったが、敢えて希望的には考えなかった。でも、もし生きていたら、いつか突厥にも自分たちを探しに来てくれるかもしれないという、かすかな希望は抱いていた。なぜなら父は突厥にも商売に来ていたというから。
「父さんは、西域の国々から、いろいろな物を運んでいたんだ。突厥にも来たことがあるって聞いたことがある。ここの王様や貴族は、金銀の食器や飾りがものすごく好きなんだ。だから父さんは西域で金銀の食器や絨毯を買ってきて突厥で売り、そのお金で今度は毛皮や馬を買って、それを長安に運んでまた売るんだよ」
 そう言いながら、本当は奴隷も売買されるんだとは、シメンには言えなかった。
「それで終わらない。次には長安で絹織物を買って、それを西域に持って行って売るんだ。だから父さんは家を留守にしていることが多かったんだ」
「どうして兄さんにはそういう話をして、私にはしてくれなかったのかな」
「ソグド人は、男の子には五歳くらいからソグド文字を教え、その後には数字の数え方を教えて、小さい時から商売のやり方が身に付くようにするんだ。俺なんか、六歳の時には長安の朝市に一人で行かされて、そこで野菜を買ってきて、それを隣の家のおばさんに売ってたよ。もっとも今思うと、隣も親しいソグド人の家族だったから、親どうしで話がついていたんだろうけど」
「私は女の子だから、教えてもらえなかったのね」
「でも、シメンは母さんから、漢字を教えてもらったろ、女でも字は役に立つから覚えなさいって。母さんは、長安では石屋のお祖父ちゃんの帳場を手伝っていたんだよ」
「うん、それは私も覚えている。だって、お祖父ちゃんの家に行くと、母さんが仕事をしている横で漢字の練習をさせられて、それが終わると胡麻餅や煎餅(せんべい)を食べさせてもらったから」
「そうだよな。俺はお祖父ちゃんと石鑿(いしのみ)投げや石彫りをしている方が楽しかったけど、漢字の練習もさせられたな」
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