(五)

文字数 1,324文字

 暗い藪の中で敵陣の灯を見ながら、リョウはそのアユンの言葉を思い出して、そっと辺りを窺った。ブルトの配下のネヒシュは、少し前に「緊張のせいか、腹が痛いから、先に行ってくれ」と言って林の中に消えていた。今、どこにいるかわからない。自分の左隣と後ろには、ティルキ配下の二人があまり離れずに、藪の中に潜んでいる。
 唐の軍勢は、川に近い緩やかに起伏する草地に布陣している。突厥の移動用簡易ゲルとは形の違う、木のつっかい棒に布をかけた三角の天幕が張られている。火が焚かれていて、のんびりと夕食をとる姿も見られる。人数も千人に満たないようで、馬は前の斥候から報告があったようにせいぜい二百頭足らずだ。なによりも、全体に緩んでいる雰囲気だった。

 食事をとりながら話すその声は、懐かしい漢語だ。リョウは、飛び出して敵陣に逃げ込みたいという衝動に襲われた。
――自分の隣にいるのは、仲間ではない。何かあれば俺を殺そうと思っている奴らだ。それに引き換え、すぐ目の前、走って五十歩余りのところに居るのは、自分と同じ漢語を話す兵士たちだ。突厥の軍が襲ってくると教えてやれば、喜んで助けてくれるだろう。事情を話して、長安の伯父のところに行かせてもらおう。もうシメンは居ないのだから、逃げても大丈夫だ。戦いを命じられた最前線の兵士には正義もなにもない、()らなければ()られるだけの戦いだ。俺は自由になりたい!
 リョウの身体が、かってに動き出そうとした。

 そのとき、声が聞こえた。「リョウは俺たちのリョウなんだな」と言ったバズの声であり、「信じてついて行く」と言ったオドンの声だ。そして、「俺は、命がけでお前たちを守る」と言った自分の声だった。
 左隣に居たティルキの部下がカサリと動いた。リョウは、自分の心の動きが、知らずに身体の動きに現れてしまったのだろうかと思った。隣で、見張っていた兵士は、リョウの動きを見て、剣の柄に手をかけたように見えた。

 その瞬間、リョウの顔の前を、どこから放たれたのか、矢がヒューと(かす)めた。ほぼ同時に、何本もの矢が飛んできて、左隣の兵士がうめき声をあげて倒れた。矢は首に突き刺さっており、助かりそうになかった。左側から近づいてきた敵の見張りの矢だったのだろう、おかげでリョウは命拾いした。すぐ後ろの兵士が「見つかった、逃げろ」と立ち上がった。カヤという名の、ティルキのもう一人の斥候だ。しかし、すぐにそこにも矢が飛び、矢が刺さったまま、襲い掛かってきた敵と切り結ぶ姿が見えた。リョウは、素早く木の陰を縫いながら走ったが、後ろではなく、足は前の敵陣に向かっていた。

「助けてくれ、俺は奴隷だ。俺は漢人だ」
 リョウは、転げるように走りながら、漢語で、大声で叫んだ。食事をしていた兵らが、驚いて立ち上がり、倒れ込んだリョウを囲んだ。
「殺すな、尋問するから殺さないで捕らえろ」
 上官らしい男の声で、リョウは羽交い絞めにされ、あっという間に縄で縛りあげられた。ほどなく、リョウの後ろに居たもう一人の斥候、カヤも縛りあげられ、引き立てられてきた。左上腕に刺さった矢が折られ、足からも血を流していた。リョウの隣に座らされたカヤの眼は、リョウの眼を憎々し気に(にら)んでいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み