(四)

文字数 1,295文字

 タンが話題を変えたいとでもいうように、馬乳酒を注いでくれた。
「ところでリョウは、もう奴隷ではなくなったんだよな。それでどうするんだ。何か夢があるのか」
 リョウは、驚いた顔をして、それから笑った。
「夢なんて言葉、久しぶりに聞いたな。夢なんか無い、いや、奴隷の俺が夢なんか持っちゃいけないって思ってきた。その代わり、その時々に、目の前にあることをただ一生懸命にやってきた。でも、確かに今なら、夢を持っても良いのかなって、少し思える気がする。そういうお前はどうなんだ」
「俺の親父は、(みや)大工(だいく)の棟梁だった。宮大工っていうのはな、宮殿や寺院を造る、特別な技巧を持った大工なんだ。子供の頃から親父に付いて歩いた俺にも多少の心得はある。長安の都で、でかい宮殿を造りたいとは思わないが、小さな村々でお寺を作ってあげたいなと思うことがある」
「そうか、それもいいな」
 リョウはそう言いながらも、宮大工の父親がどうしているかはあえて聞かなかった。タンが今、こうしてここに居るということは、何か悲しい事情があったのは間違いないからだ。それに、お寺を造るというのも、自分がやってしまったことの罪滅ぼしなのかもしれないと思ったが、それは聞かなかった。代わりに別のことを尋ねた。
「タンという名は、突厥の名か、それとも漢字名なのか?」
「ああ、俺は字を書けないが、自分の名前だけは書ける。意味はよく知らないが」
 そう言ってタンが地面に書いたのは「湍」という字だった。
「ああ、それなら俺にもわかる。蘭亭叙という書き物に“有清流激湍暎帯左右(清流(せいりゅう)激湍(げきたん)あり、左右に暎帯(えいたい)す)”というのがある。清らかな流れにも早瀬があって、そこでは光がキラキラ反射しているというような意味だ。お前の名前の“湍”は急流の意味で、速いとか勢いがある様を言うんだ」
 リョウは、王爺さんがリョウに教えてくれた日々を、まざまざと思い出した。
「タンのお父さんとお母さんは、今の目まぐるしい世の中でも、タンにしっかり輝いてもらいたい、そう思って名付けたんだろうな……」
 しばらく返事をしないタンの方を見ると、タンは唇をきつく結び、その眼は(うる)んでいた。それを見たリョウの眼にも熱いものが溢れそうになった。リョウは慌てて、前を見た。
「タンと話していて、俺にも夢があったことを思い出した。俺の父はソグド商人で、母は石屋の娘だ。親父のように、はるか遠くの国々を歩いてみたい。それに祖父のように、自分で彫った石碑や石像をこの世に残したい。考え始めれば、夢はどんどん出てくるよな」
 タンが手の甲で涙を拭きながら訊ねた。
「将来の夢もいいけど、これからどうするんだ」
「ああ、俺が自由になって一番にやるべきことは、シメンを探しにいくことだ。それから、長安の伯父も訪ねてみたい」
 それは、父が草原で襲われた理由を知りたいということでもあったが、それは言わなかった。
「タンも、自由の身になれた。いつか長安の石屋を訪ねて来ればいい。鄧龍(とうりゅう)という屋号だ」
 タンは、うなずき、それからしばらく考えるそぶりをしていた。夜も更け、馬乳酒も無くなったので、二人はそれぞれのゲルに戻って寝ることにした。
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