(四)

文字数 2,169文字

「それでは、張も、今度の敗戦を喜んでいるのか」
 リョウは、辺りを(はばか)り、声を潜めて確かめるように聞いた。
「そうさな、王爺さんほどの恨みはないまでも、この大きな戦局で役に立ったのは嬉しいよ。そんなことを言ったら、なぶり殺しにされるだろうが、俺はもうすぐ死ぬ身だから構わない。それに王爺さんは、本当は、読み書きもできるリョウを間諜に仕立てようとしていた。ネケルにされたのは誤算だったがな。だからリョウになら、話しても叱られないだろうよ」

 リョウは、漢字に興味を持って自分から王爺さんに近づいたと思っていたが、実は、王爺さんはそれを待ち構えていたのだった。リョウは、初めて王爺さんのゲルを訪ねた時の、王爺さんの歓待ぶりを、まざまざと思い出した。
「でも王爺さんだって、ゲイックには恩を感じたのじゃないか」
「直接的にはクルトの一族に対する恨みだろうが、唐を(おびや)かす突厥の存在そのものも消したかったのだろう。何と言っても王爺さんは唐の役人だ。密かに唐のために生き延びて、突厥に一泡吹かせることが、生き甲斐だったのだろう。その点、俺は農民だから、普通に働けて、平和にお(まんま)を喰えれば、どこでもいいんだがな」

 リョウは、張から目を離し、中空を(にら)みながら、今まで起こったことを思いだそうとした。
 交易から戻った張は、商売で預かってきた手紙を、漢字が読める王爺さんに届け、その内容を王爺さんがゲイックに通訳して伝えていた。あの手紙の中には、ゲイックには伝えられない秘密の指令もあったのだろうか。そう言えば、王爺さんが書の練習に使えと古い手紙をリョウにくれた時も、中身を確かめながら渡していたような気がする。
 リョウがネケルになり、アトの交易のお供をして情報収集にあたるようになってからも、武術の訓練で忙しいだろうからと、二回に一回は張が交易に出ていた。あれも、唐の間諜と接触するためだったのだろうか。リョウは、ハッとして張に訊ねた。
「ということは、俺が交易に行って話を聞かせてもらった漢人の商人や農民も、間諜だったのか?」
「本職の間諜ではなくとも、俺が紹介した何人かは、唐側の情報源になっている者たちだ」

 リョウは愕然(がくぜん)とした。俺は、そういう裏の事情をつかめなかった。聞いたままを、確かめもせず、さも大事な情報を得たとでもいう様にゲイックに伝えてきた。俺はむしろ(にせ)情報を伝える役目を果たしていたということか。リョウの中に、苦いものが込み上げてきた。それに張は、「大きな戦局で役立った」と言ったではないか、だとすると……。
「クルトの一族を裏切らせたのも、王爺さんと張なのか?」
「直接クルト・イルキンに働きかけたのは、もちろん唐側の人間だ。だが、クルトは欲深くて、突厥の可汗に対する忠誠心も薄くて(ぎょ)しやすい、だから、クルトを寝返らせるように仕組もうと提案したのは王爺さんだ。王爺さんは人を見る目がある。残虐で、略奪ばかりしているクルトだが、実は、唐と突厥の狭間(はざま)で生きる自分こそが被害者だと思っている、そういう奴は、少し餌を見せればすぐ喰いついてくる、ということまで伝えていたんだ」
「では、王忠嗣軍への奇襲を敵に知らせたのも、クルトだったということか」
「知らせるどころか、奇襲は最初から唐側が計画したものだった。クルト・イルキンを使って、ビュクダグに王忠嗣の軍を急襲させるよう罠をかけ、その軍を殲滅(せんめつ)する予定だった。しかし、結果的には奇襲を待ち受けて、突厥に打撃を与えるという作戦は失敗した。それにはリョウの活躍もあったと聞いているがな。
 それからは、唐からクルトへの要求も厳しくなったらしい。失敗を責められ、このままでは支配地も増やせないと(おど)かされ、それが大会戦での裏切りとなったのだろう。しかし、最後は、クルトの一族もまとめて葬り去ることが計画されていたとは、クルトだって知らなかったろう」

 これ以上の話は()めてくれと言わんばかりに、張が眼を閉じた。リョウは、さっき張に感じた明るい気の理由を知った。今、漸く王爺さんのクルトへの恨みは晴らされ、張の生きる理由も成就したからだろう。クルトの裏切りで自分や仲間が死にかけたのだから、張に恨み言のひとつも言いたいところだが、奴隷の悲しみを知るリョウは何も言うことができなかった。
 張がうっすらと眼を開けた。
「リョウよ、さっきの墓の話だがな、墓誌には、突厥を滅ぼした二人の唐の英雄、ここに眠るって書いて、王爺さんの隣に埋めてもらえるかな。どうせ誰も読めやしないだろう。墓誌っていうのは、嘘も本当も交えて、死んだ者の夢を書くんだって王爺さんは言っていた。何百年も後に誰かが見つけてくれれば、それが歴史になる、歴史なんてそんなもんだろうってな」
 そして最後にこう付け加えた。
「分かっているだろうが、この話は誰にも内緒だ。もし誰かに話すなら、その前に俺を殺してくれ。野晒(のざら)しは嫌だからな、頼んだぞ」
 それからは、もう眼を閉じ、何も話さなかった。リョウは、張の手を取った。
「分かったよ、張。誰にも話さない。世話になったな」
 そう言って、張のゲルを出た。もう辺りは暗くなりかけ、寒さが一段と厳しくなっている。明日の会議の後は、今日よりも忙しくなるだろう。張の言うような墓誌を作っている暇はないなと思い、リョウは心の中で「すまない」と謝った。
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