(六)

文字数 2,255文字

 父は北に逃げろと言ったが、北には延々と草原が続いている。いくら子供は軽いとはいえ、二人乗りでは速さで勝ち目が無い。リョウは、自分に言い聞かせるようにシメンに言った。
「このままでは、いずれ追い付かれる。東の岩山を目指すぞ」

 そこはリョウとシメンがいつも馬を走らせて遊びに行っている岩山で、その先には森もある。最短距離を取ると、途中に大きな石がゴロゴロしている岩場を通らなければならないが、リョウは迷わずその道に突っ込んだ。岩場の中を右に左に続く、走りやすい細い草の道があることを知っていたからだった。慣れていない敵はそう簡単にはここを走れないだろうと踏んでいたが、案の定、すぐ近くまで迫っていた敵の二頭は、岩場に入ってから少しずつ遅れていく。
 「もう少しだ」、そう思ったリョウの耳に「ヒュルル」という音が聞こえたかと思うと、敵の矢が身体の左側をかすめていった。「危ない」と後ろを振り向いたリョウの眼前に二本目の矢が迫っていた。反射的に身をかわすと、矢は思わず振り向いたシメンの左頬を削り取り、血しぶきが後方に飛んで行った。「ウグ」とうなるシメンの声に「しまった」と思ったが、リョウには走り続けることしかできなかった。

「がんばれシメン、もう少しで岩山だ」
 シメンも馬のたてがみに必死につかまっているので、裂けた頬を抑えることさえできなかったが、じっと痛みと恐怖に耐えていた。二人はようやく岩山の(ふもと)にたどり着いた。岩山に道など無かったが、リョウは迷わず、大岩と大岩の間を縫って山を斜めに上ることができる、細くて険しい隙間に足を踏み入れた。グクルは、足の速さではヒズリに劣るが、二人を乗せてここまで走ってきた耐久力と、こんな岩山でも怖じけず上る強さでは勝っていた。リョウはシメンがグクルを選んでくれたことに感謝すると同時に、「父さんはヒズリに乗ることができただろうか」と思った。それは「母さんはあの傷ではダメかもしれない」という思いでもあった。
 さしもの敵も、岩山の険しい(がけ)伝いに上る二人を目にして追撃をあきらめたようだった。二人は、中腹に身を潜めて、シメンの傷の手当てをしながらしばらく様子をうかがっていた。もう大丈夫と立ち上がった二人の眼に、草原のはるか向こう、集落のある辺りに黒い煙が立ち上っているのが見えた。二人とも何も言わなかったが、母はもうこの世には居ないという思いが込み上げ、リョウはシメンの手を強く握った。

 二人は、なんとか岩山を超え、その先の小さな森で一晩を過ごした。リョウは、自分が矢を()けたことでシメンの顔に傷をつけてしまったことを悔やんでいた。傷は左の頬を下から上に斜めに走っている。咄嗟(とっさ)のこととは言え、あの時、自分が避けなければ、あるいは馬の進路を少しでもずらしていれば、シメンの顔に傷をつけずに済んだ。そう思うと、シメンに申し訳なく、なんとか傷を治してやりたいと思った。沢の水を汲んできてシメンの頬を洗ってやったときには、シメンは痛みをこらえてじっとしていたが、傷に効く野草を噛み砕いて擦りつけてあげると、痛みで飛び上がった。
「今、治さないと化膿してしまうから我慢しろ」
 そう言ってシメンを押さえつけると、傷の上から水で濡らした落ち葉を貼り付けてやり、さらに布でぐるぐる巻きにした。草原生活をするようになってから、遊牧民に習い、怪我をしたときにはいつも、母がしてくれたやり方だった。

 二人は翌朝早くに森を出ると、草原を北に向かった。後ろに追手がいないことを確かめながらも、グクルに二人乗りということもあり、また行くあてもないので、急ぐ旅ではなかった。それよりも、何も持たずに飛び出してきたので水と食糧の確保が先だった。
 森を出る前に、腰の石鑿(いしのみ)を木の枝に(くく)り付けて作った即席の(もり)で、沢の魚を何匹か獲ってきた。沢の水も忘れずに竹筒に入れてきている。幸い、短弓と矢も失わずに持ってきていたので、三日目にはシメンと二人がかりで追い込んで、(うさぎ)を一匹仕留めることができた。兎を(さば)く短刀や、竹筒、それに火打石と打金は、すべて母がシメンに持たせた旅支度の袋に入っていた。あらためて、あの危急の場での母の落ち着きぶりを思い出し、涙がこぼれそうになるのを、シメンの前だからと必死にこらえた。もし長安の街の生活しか知らなかったら、こうして草原でシメンと二人だけで生き延びることはできなかっただろうな、とリョウは思った。

 四日目、草原の道の前方に小高い丘が現れた。父が言ったように、北に向かいさえすれば何とか生き延びる道があるだろうと、そのまま馬を進めた。家族で暮らした唐の国は、自分達には優しくなかったな、とリョウは思った。長安を追われ、そして今また、ようやく慣れてきた草原の暮らしを奪われた。このまま北に向かった方が、何か良いことがあるのかもしれない。そして父もいつか、北へ迎えに来てくれるのかもしれない。
 腹を空かせてそんなことを考えながら丘を上り切った二人の右手、東の草原から数頭の馬と荷馬車が現れるのが見えた。何人かは武装しているようだ。このまま進めば、鉢合わせすることになる。リョウは一瞬、身を隠そうかと思ったが、先方もすでにこちらを認識しているだろう。
 敵か、味方か、リョウにはわからなかったが、突厥(とっくつ)の隊商のようにも見えた。もう南に戻ることもできず、食べ物も無くなっていた。逃げ隠れしてもどうにもならないと覚悟したリョウは、不安を押し殺し、わずかな希望を胸に、そちらに向かって馬をゆっくりと進めた。
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