(六)

文字数 1,412文字

 最初に二人を呼びに来た者が、「もう、いい」とばかりに(あご)で入り口を指すので、二人はそっとゲルを出た。もともとその場には居づらくて、早く出たいと思っていたので、渡りに舟ではあった。その二人を、アユンが追って出て来た。
「今日のシメンは、見直したぞ。リョウには良い妹がいる」
 それだけ言うと、サッと身を(ひるがえ)し、ゲルに戻っていった。シメンはさっきよりも、もっと頬を赤らめていたが、それは祝いの馬乳酒のせいばかりとは言えないようだった。

 二人は、いつものように集落のはずれまで行き、馬柵に寄りかかった。グクルが寄ってきたので、リョウは頭を撫でてあげ、シメンはご褒美にと持ってきたニンジンを食べさせた。
「考えてみれば、グクルとヒズリは、ソグド商人の父さんが、子供たちのためにと西域で買い求めて来た馬なんだから、そこらへんの馬には負けるはずがないよな」
 キュクダグやアユンの乗る良血馬は別にして、普通の遊牧民が乗る馬は、グクルよりも背が低く、頭が大きくて首も脚も太い、ずんぐりとした馬だった。
「うん、グクルは強い馬だとは思っていたけど、長距離を走らせても速さを失わない、こんなに素晴らしい馬だとは知らなかったわ」 
「それにしてもシメンは、岩山の隠れた道なんかを良く見つけたね」
「それは、昨日、下見をしたときに、私ではなくてグクルが自分で見つけて上った道だったのよ」
「そうか、それは良かったね」

 今日の馬競争の話が一段落したところで、シメンが尋ねた。
「兄さんは、さっきのアトの言葉に怒っている?」
「ああ、さっきの祝いの会で言っていた、来年は戦士にしようかって冗談のことだよね」
「そうなんだけど、その前に言った売れ残りという話。でも、心配しないで。私も、女奴隷として、いつかは売られて、ここを出て行かなければいけないことは、わかっているから」
 何を言い出すのかと驚くリョウに、シメンはさらに続けた。
「それにね、今年売られることになったお姉さんたちは、みんな、喜んでいるのよ。別れは確かに悲しいけれど、ここでこのまま下働きばかりしていても、年とっていくだけなのに、売られた先の主人に気に入られれば、たとえそれが第二、あるいは第三夫人であっても、今より良い暮らしができるし、子供でもできれば、いい身分になれるからって、いつも悦おばさんに言われているから」

 女たちには女たちだけで話していることがあり、それはリョウが思っていることなんかより、もっと、もっと現実的で、大人の話なんだとリョウは思い知らされた。
「だからアトは、女奴隷は良い人に買ってもらえた方が幸せになるって、本気で考えているから、あんなふうに言っただけで、アトに悪気はないの」
 いつの間に、こんなに大人になっていたのだろうかと、リョウはその言葉に再び驚いた。昼には完走したご褒美の緑色の布と唐の菓子をもらって、無邪気に喜んでいるように見えたシメンが、そんなことを考えているとは露知らず、アトの言葉に意気消沈していた自分の方が、子供のように思えてきた。
 しかし、もっと良く考えて見れば、そんなにうまい話ばかりのはずはなかった。これから売られていく娘たちのために、できるだけ明るく送り出してあげようと、悦おばさんがそんな作り話をしているのではないだろうか。リョウにはそうとしか思えず、眼の前にいるシメンを、あと一年、せめて近くに居るうちは、父や母の分まで大事にしてあげなくてはと思っていた。
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