(二)

文字数 1,584文字

 対岸に着いてから、さらに五日行ったところに、この突厥人たちが根城としている集落があった。リョウたちを連れてきた武人は、集落の頭領に二人を引き渡した。頭領は、ゲイック・イルキンと呼ばれる男で、ゲイックは「鹿」の意味、イルキンは突厥の部族長に与えられる称号なのだという。突厥人の体型は、ソグド人よりも漢人に近く、ゲイックの背丈はさほど大きくないが、敏捷そうな筋肉質の身体をしていた。
 ゲイックの部族は、ここの集落を中心に数千人はいるということだった。しかし、人々は広い草原に散らばって羊を追っているので、それほどの大きな部族だとは、言われなければわからなかった。
 張が旅の間に二人から聞き出したおおよその話をゲイックに伝えると、彼は上機嫌で二人を連れてきた武人をねぎらい、張にも何か指示をして、あとは任せるとばかりに戻って行った。

 後で張に聞いたところでは、ゲイックはこう言ったのだという。
「唐からの逃亡者ということなら、奴隷とすることで問題ないだろう。王爺さんに預けてくれ」
 奴隷は貴重である。良い働き手なら馬一頭にも値する。濡れ手に粟で若い奴隷二人と馬一頭を得ることができたのだから、二人の部下にはたんまりと褒美を出したに違いない、とも教えてくれた。
 しかし、突然お前たちは奴隷だ、と言われても納得できるものではない。
「自分たちは、唐から逃げてきたわけではなく、賊に襲われて命からがら逃れてきたのです。父は、ソグド商人で、突厥の人たちとも親しくしています。父の仲間を探しに行かせてください」
「だめだ。お前は、道々、唐の軍隊に襲われたと言ってたではないか。お前たちは唐にとって、いらない人間なのだ。それを助けて、ここで暮らさせてやるのだから、ありがたいと思え」
 なおも食い下がろうとするリョウに、張は(すご)んだ。
「逃げるなよ。逃げたら死ぬ」
 突然、怖い顔をした張に驚いたが、そう言った張も実は漢人の奴隷であった。突厥の言葉も話せるので、交易の折には隊に加えられ、通訳と荷運びの仕事をするのだという。張たち、ゲイックの元にいる奴隷を束ねているのが、王爺さんと呼ばれる漢人の老人だった。

 初めリョウは、自分とシメンが奴隷になるということを受け入れられなかった。確かに、黄河の南の草原で突厥の一団と出会ったときには、水や食べ物をわけてもらったし、黄河を渡る舟にも乗せてもらったが、それは事情を聞いて助けてくれたのではなかったのか。そのあと落ち着いたら、自分たちは縁のあるソグド商人を訪ねることもできるのではないか、だからこそ父は「北へ向かえ」と言ったのだろう……。しかし、そんな甘い考えが通用する世界でないことは、すぐにわかった。
 シメンと離され、他の奴隷と一緒のゲルに入れられたリョウは、翌日にはもう羊の世話や畑の手伝いに駆り出され、へとへとになるまで働かされた。逃げようと思っても、シメンを置いていけば見せしめに殺されるだろうし、もし馬を盗んで二人で逃げだしたとしても、南の唐には戻れない。北の突厥の部族にも逃亡奴隷の知らせがすぐに行くだろうし、それよりなにより厳しい自然の中で、二人きりで生き抜けるとも思えなかった。張が言った「逃げたら死ぬ」というのは、そういう意味だったのだろう。
 リョウは、長安で見た、ボロボロの汚れた服を着て、逃げないよう腰縄でつながれたまま、雨の中で土木工事をしていた奴隷たちの姿を思い出し、打ちのめされる思いだった。しかし、ここで暮らすうちに、意外にも突厥の武人にひどく打たれることも縛られることも無く、普通の生活が送れるということがわかってきた。もちろん、張やほかの奴隷たちから仕事の上で怒鳴られたり、小突かれたりすることはあったが、それは草原の暮らしでも当たり前のことで、次第にその生活にも慣れ、長安で見た奴隷の禍々(まがまが)しい印象は薄れてきていた。
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