(六)

文字数 1,867文字

 そんなある日の夕刻、南方の唐の村落まで交易に行っていた一隊が戻ってきた。短い夏はとっくに終わり、朝晩は涼しさを通り越して寒さを感じるほどだった。厳しい冬にそなえて、越冬準備もそろそろ始めなければという時期で、ゲイックの指示で冬場に必要なものを調達に行った部隊だった。
 その部隊の到着後まもなく、王爺さんがゲイックの元に呼ばれたということを、リョウは夕食をもらいに行ったときに、悦おばさんから聞いた。交易には、張がいつものように通訳兼荷運びのために同行していたが、今回は交易相手の一人である漢人の商人から、一通の手紙を預かってきたのだという。
 農民の出身である張は、話し言葉での通訳はできたが、漢字の読み書きはできない。おおよその話は、口頭で張からゲイックに伝えられるが、その手紙を読み聞かせるために王爺さんが呼ばれたのだという話だった。悦おばさんにとっては、手紙の中身なんかはどうでもよくて、手紙を通訳した王爺さんに出されるわずかばかりの報奨、それは肉だったり、酒だったり、時には毛皮だったりするのだが、それが楽しみのようだった。

 翌日は朝から、冬の訪れがそう遠くはないと思わせる、冷たい雨が降り続いていた。雨だからといって仕事がなくなるわけではなく、リョウは農具小屋で農具の手入れをしていた。この集落の住居には、遊牧民のゲルが使われているのだが、奴隷の中には漢人の農民や大工もいて、農作業に必要な道具などは木造の農具小屋を建てて、その中に保管されていた。
 使っている(くわ)や牛に引かせる(すき)は、かつての戦利品であったり、あるいは最近の交易で買ってきたものだったりと、大きさや形もばらついていたが、いずれも普段からよく手入れされている。
 畑仕事の後に、翌日の作業のために緩んだ(くさび)を締めなおすのも、鍬や鎌の刃から泥を落としてきれいに洗い、錆びないように小屋の柱に渡した横棒に掛けておくのも、リョウの仕事だった。リョウも長安を追い出された後の生活で、一通りの農作業は経験していたが、今から思うとそれは見よう見まねの素人仕事で、張から何度も叱られながら覚えたいろいろな作業は、雑草の抜き方一つにしても、本物の農民のやり方だった。張は農村から逃げ出したのだと言っていたが、きっとよく働く、仕事のできる農民だったのだろうとリョウは思った。

「今日は鍬の柄と犂の長柄を新しいのに替えるから、折れたのとかひびが入ったのを全部集めてこい」
 張が小屋で作業する数人にそれぞれ指示を出し、何人かは外の牛小屋に置いてある長柄を見に行った。
「リョウは、柄の交換はしなくていいから、ここにある鎌の刃を()いでおくんだ。刃の砥ぎ方は、リョウが一番だからな」

 子供のころから石鑿(いしのみ)の刃を砥いできたリョウには、それは得意な仕事だった。リョウは、小屋の隅で、二十本あまりの大小の鎌を前に、汲んできた水桶と砥石を用意して座り込んだ。
 最初の一本を取り上げると、リョウはまず刃を水で濡らしてから柄を左手で持ち、これも水で濡らした粗い目の砥石を刃先に直角に当てると、前後に素早く動かして砥いでいった。砥ぎ終わった刃の表面を指でそっとなぞると、刃の裏側にチクチクとバリが出ているのが感じられる。今度は細かい目の仕上げ用の砥石に持ち替えて、そのバリを取るために、刃先から刃の背に向かって軽く掃くように滑らせる。表が終わると裏も同様にし、最後にもう一度水をかけて、自分の眼と指で、バリが取れ、刃が鋭い光を取り戻したことを確かめる。
 簡単なようだが、刃にあてた砥石を無造作に横に引いたりすると怪我をする。刃先にあてた砥石の角度も一定に保つ必要があり、これがぐらつくと砥石の方が削り取られてしまうし、バリ取りの丁寧さは切れ味にも影響する。刃砥ぎは、ある程度の慣れや感性が必要な仕事で、最近はもっぱらリョウの仕事になっていた。
 リョウは、雑草取りの時と同じように、鎌の刃砥ぎに没入していった。何も考えずに目の前にある単純作業を黙々とし続ける時間を、リョウは嫌だと思ったことは無かった。一本が終わるとまた次の一本と、何も考えずに作業を続けていると、寒いはずなのに、いつの間にかうっすらと汗さえかいていた。リョウは、昼よりだいぶ前に全部砥ぎ終わってしまい、その後は柄の交換の手伝いもした。

「これが終わったら、今日は、仕事は休みだ」
 張が言うと、何人かは歓声を上げたが、言った張はとても疲れた顔をしていた。最近、顔色が悪いような気がする。一番休みが欲しかったのは、張自身かもしれない、とリョウは思った。
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