(一)

文字数 2,606文字

 シメンが馬競争に参戦する、夏祭り二日目の朝が明けた。
 リョウは前日の夕方までに、市に持ち込んだ商品の整理を終えていたので、その日は交替で補充用の荷物の番をするだけだった。シメンは、朝のうちにここから四里(約2km)ほど離れた四歳馬の出走地点まで移動するということだったので、リョウは荷物番を他の者に頼んで、妹の出発を見送りに行った。
 競争者の集合地点に行くと、王爺さんがシメンとグクルにお(きよ)めをしているところだった。本来は親が行うものだが、親のないシメンのために、王爺さんが代わりにしているのだった。
 王爺さんは、馬の乳をひしゃくですくうと、シメンとグクルの周囲の空中にサッ、サッ、と()いて、自然の恩恵を祈り、さらに香を焚いて浄めてくれた。シメンは、普段の服ではなく、洗いざらしではあったがきれいな白い服を着て、頭にはゲイック・イルキンの部族であることを示す、青い丸い帽子をかぶっていた。悦おばさんが用意してくれたものだった。

 アユンとその仲間も近くに居た。アユンも馬競争に出られるのは、年齢的に今年が最後である。アユンは、部族長の一族であることを示す、赤と白の生地を交互に縦縞に織り込んだ服を着ている。頭上にはシメンと同じ青い帽子だが、てっぺんには長であることを示す青い飾り紐を立てている。アユンの周りには、一族の者や、その奴隷で競争に参加する者たちが、それぞれに馬の準備をし、お浄めをしていた。
 奴隷たちも参加できる競争だとは言え、彼らは主人を勝たせるために、主人を囲むように走り、他家からの邪魔を跳ね返し、他家の奴隷の馬を邪魔するように走れ、と言い含められている。これは何も不公平なことではないとリョウは知っていた。思えば、馬競争も弓競争も、そして相撲も、(いくさ)の訓練から派生したものである。戦となれば、当然そうして主人を守って走ることになるのだし、そこに奴隷も競争に参加させる意義があるからだった。

 馬競争は馬齢別に行われるので、アユンの乗る馬と同じ四歳馬のグクルに乗るシメンにも、そうして走るように指示がでていた。リョウは心配してシメンに念押しをした。
「シメン、お前が速いのは知っているけど、この競争は、勝手に走ってはだめだからな。必ず、アユン様を助けるように走るんだぞ」
「わかっている。私は祭りに参加できるだけで嬉しいから、そんなことは何でもない。それにグクルはヒズリほど足が速くないから、最初の草原ですぐに置いて行かれると思うわ。アユン様の芦毛(あしげ)の馬は、飛び切り早い馬だし」
「そうだな。ヒズリが居たらもっと速かったんだけど」

 そう言ったリョウの頭に、草原の戦いの折り、父と母のために残してきたヒズリと、父母はどうなったかという思いが一瞬浮かんだが、シメンにそれを気付かれないように、すぐに付け足した。
「でもグクルは強い馬だし、この辺の馬よりはよほど早く走れるから、最初の混雑したところを全速で走ってアユン様の道を作ってあげて、あとはゆっくり帰ってきたらいいよ」

 馬競争は馬齢別だと言っても、一度に百頭くらいの馬が出走する。広い草原に広がって一斉に走り出すが、やはり真ん中近くの走りやすい場所に殺到する最初の五里(2.6km)と、各馬一斉に(むち)を入れる最後の五里が勝負所だと、事前にアトが教えてくれていた。
「うん、そうする。でもね、昨日、下見に行って一周走ってきたんだけど、四歳馬が走るのは草原ばかりでなく、沙漠もあれば、岩山もある道だから、グクルは結構早いかもしれないよ」

 シメンが言うには、岩山のあたりは長安の北の草原で暮らした場所とよく似ていて、岩山には唐の武装集団の襲撃から逃げた時に使ったのと同じような細い道がついているのだという。
「ああ、でも無理するんじゃないぞ。もしついていけたら、アユン様から離れないようにするんだぞ」
「うん、わかった。ちゃんと完走すればご褒美をもらえるっていうから。それじゃあ、行ってきま~す」
 そう言ってシメンは、浮き浮きした顔で出発していった。四歳馬の出走は正午ちょうどということになっていた。元気盛りの四歳馬が激しく競争するこの組には、祭りで最も多くの見物人が集まってくる。四十里の距離とはいえ、途中には砂漠や岩場もあるので、一番早い馬でも戻るのに半刻(約1時間)近くはかかるはずで、リョウはその時間帯に誰かに荷物番を代わってもらうつもりだった。

 今のうちに荷物番をして、後で交替してもらおうと思ったリョウが、商品を積んだ馬車の所に戻ると、アトがソグド商人と商談をしているところだった。そのソグド商人は突厥語で話していた。ソグド商人は何カ国語も話すことができるし、リョウの父もそうだったなと思い出した。
 聞くともなく聞いていると、話は奴隷の売買についてだということがわかり、リョウはドキリとした。しかし、よく考えてみると、奴隷こそが今日見たどの商品よりも、高価な商品であった。商人と話し終わったアトは、近くに奴隷のリョウがいることなど、気にもかけずに大きな声でソグド商人に言った。
「それでは、昨日、見てもらった女たちは、ひと月後に引き取ってもらうので、集落に寄ってくれ。それまでには、部族長の許しを得ておくつもりだが、何かしら土産を持ってきてくれた方が商売はしやすいと思うので、よろしくな」
 その言葉に、リョウは飛び上がった。シメンが昨日、王爺さんとアトに連れられて、ソグド人の店を見物させてもらったのは、実は、ソグド商人が女奴隷の品定めをするためだったのだ。祭りに行くことを許されなかったシメンが、急遽、馬競争に出ることを許されたのも、もうシメンを奴隷として売りに出そうと決められたからだったのだ。いつかは来ると思っていたことだったが、それはもっと先のことだと思っていただけに、リョウは頭を殴られたような衝撃を受けた。

 ソグド商人が去り、アトが呆然としているリョウに声をかけた。
「残念ながら、お前の妹は、今年は売れなかったぞ。やはり顔の傷が問題のようだ。売れたとしても安くたたかれるだけだから、もう少し何か身に付けさせてからだな」
 その言葉にリョウはホッとした。しかし同時に、奴隷はモノなのだから、モノの感情など気にする必要がないというアトの言いぶりに、自分たちはやはり人間ではなく奴隷だったんだと、どうしようもない絶望感に、祭りを楽しむ気分は吹き飛んでしまった。
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