(三)

文字数 1,580文字

 会議の後、リョウはその足で張のゲルを訪ねた。張が病に伏していると聞いたからだった。途中、ソグド商人の(こう)佇維(ちょい)を見かけて、声をかけた。
「佇維さん、こんな戦のさなかにも、商売ですか?」
「おおリョウか。平和な世の中で稼ぐのも商売だが、戦争で稼ぐのもまた商売だ。お前たちはこれから東に大移動だろう。毛皮でも銀器でも、わしが引き取ってやれば、ゲイックも助かると思ってな」
「安値で買い叩いて、それで一儲けしようということですね」
「人聞きの悪いことを言うなよ。これでも人助けのつもりなんだからな。それより、夜、またわしのゲルに来いよ。葡萄酒もあるぞ」
「わかりました。後で行きます」

 そう言い残したリョウは、張のゲルのフェルトの扉を開けた。ゲルの中で横たわっている張は、げっそりと痩せて別人のようだった。そう言えば、ずいぶん前から、農作業の後で疲れた顔をしていたし、交易から帰ってくるとぐったりしていたな、とリョウは思った。
「おお、リョウか。俺ももうダメそうだ。俺が死んだら、王爺さんみたいに墓を建ててくれよな。突厥人のように、野晒(のざら)しにされるのは勘弁だ」
 声は弱々しいし、顔を見れば死の床であることがわかるが、なぜか気は明るさを保っていた。リョウは違和感を覚えた。
「クルトの一族が滅びたそうだな。これで王爺さんも、漸く本願を果たせた」
 何を言っているのかわからないリョウに、張は病床から声を絞り出した。
「王爺さんは、漢人の元の妻も、その間にできた子供も、みんな突厥との戦争で殺された。やったのは先代のクルト・イルキンの部隊だった。まだ若かった王爺さんだけは、働き手として奴隷にされ、連れてこられた。しかし、働き手としての盛りを過ぎた頃から、ぞんざいに扱われ、打ち捨てられそうになっているのを見たゲイックの先代が、王爺さんをもらい受けた。先代イルキンは、王爺さんの役人としての読み書きの能力や、突厥語に堪能で通訳として使えることを買ったのだ」

 初めて聞く、王爺さんの物語を、リョウは驚きながら聞いていた。
「その後、平和な時代が来て、先代イルキンの見込みどおり、王爺さんの活躍の場が広がり待遇も良くなった。俺も、王爺さんに従って交易のことを覚えるようになった。今のゲイック・イルキンが、リョウの語学力を買ってアユンのネケルにしたのも、先代イルキンと同じ発想だ」
 リョウは、熱くなっている張の額を、濡らして硬く絞った布で拭いてやった。
「王爺さんは、しかし、恨みを忘れなかった。三十年も忍従して、クルト一族や突厥への恨みを忘れなかったのだ。王爺さんは、唐の村落に交易に出向いたときには、唐の間諜と接触するようになった。そして突厥のさまざまな情報を唐側に渡す役目をしてきた。しかし、それも平和な時代にはあまり役に立たず、次第に関係も薄れ、唐からも捨てられかけていた。そこに出てきたのが、(おう)忠嗣(ちゅうし)だ。王忠嗣は、朔方(さくほう)節度使(せつどし)になる何年も前から、北の突厥の情報を集めていた」
 リョウは、ゲイックも王忠嗣も、情報を尊重するところは似ているかもしれないと思った。
「王爺さんが年をとり、先代の死で奴隷から解放されたとき、王爺さんは喜ぶよりも困ってしまった。もう交易に行けなくなるからだ。王爺さんは、同じ漢人の俺に事情を打ち明けた。俺は、ただの逃亡農民だから、王爺さんほどの恨みを突厥に持っているわけではない。むしろ、唐の役人を恨んだことがあるくらいだ。しかし、このまま奴隷として終わるのかと思ったら、それは嫌だと思った。俺が動くことで、何か大きなものを動かせるなら、それはやりがいのあることだと思いなおし、王爺さんの手足として働くことにしたのだ」
 リョウが草原の襲撃から逃げる途中でアトや張に出会った時も、張は何か秘密の情報を(たずさ)えていたのだろうか。リョウは、今まで見ていた光景がまるで変わるのを感じた。

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