(四)

文字数 1,977文字

 アクリイが、まだ刀を持って戦うすべをしらないリョウの身体を、後方に押しやりながら叫んだ。
「母さんとシメンを連れて逃げろ。とにかく、北に走れ」
 手伝いに来ていた突厥(とっくつ)の遊牧民とその家族は、騎馬隊が漢人部隊であることが分かったとたんに逃げ出していた。だが、荷車の陰で応戦している仲間とその家族はまだ残っている。騎馬隊を入り口で防げても、後方の歩兵が合流すれば、彼らは集落の後ろに回りこんで、ゲルの周囲で(おのの)いている家族を容赦なく襲いだすだろう。

 リョウは敵の矢を避けながら、母を探して自分のゲルに戻った。漢人の石屋の娘で、長安の都暮(みやこぐ)らししか知らなかった母は、草原生活にも慣れていなければ、戦いの場など経験したことも無いだろうに、まったく慌てずにゲルの奥に座り、シメンの肩を抱いていた。
 シメンには、既に逃げる準備か、旅支度の袋を肩から斜めに掛けさせている。代々続く石屋の娘で、若い頃から石切場の荒くれたちに囲まれて過ごし、その賢さは、家を継いだ兄をも上回るのではと噂されたという母は、度胸も据わっていた。
「リョウ、良く戻った。私はシメンとここにいるから、隠れて馬を連れてきておくれ。それに乗ってシメンと一緒に逃げるんだ」
「母さんも一緒に行くんだよね」
「母さんは、父さんと一緒に行くから、先に逃げてなさい」

 家の前に(つな)いでいた馬は、手伝いの遊牧民が乗って逃げてしまった。少し離れた馬柵の中の馬を連れてこなければいけない。出ていこうとするリョウをいったん引き留めて母が言った。
「これを持っていきなさい」
 そういって差し出したのは、腰にぶら下げた飛刀の石鑿(いしのみ)よりもさらに細くて長い、見たことも無いような石鑿だった。柄にはきれいな緑の石がはめ込まれている。
「これはお祖父さんが大事な字を彫るときに使っていたものだよ。都を離れるとき、お祖父さんは病気で床に臥せっていたけれど、お母さんがお別れに行ったときに、これをリョウに、と言って渡してくれた。お祖父さんからお前への形見だ。長安の石屋は伯父さんが継いでいるから、いつかこれを持って、そこを頼っていきなさい」
 リョウは左腰の革帯から飛び道具の石鑿を一本引き抜いて床に置き、代わりにそのきれいな石鑿を差すと、それはすっぽりと(さや)に納まった。そのときリョウの後ろで、ゲルの入り口の幕を上げる、がさりという音がした。
「危ない」
 母がそう叫んだのと、矢が放たれたのは同時だった。反射的に身をよじったリョウの傍らをかすめ、矢は咄嗟にシメンをかばった母の肩に突き刺さった。さらに敵は刀を抜いてゲルの中に足を踏み入れてきた。リョウは今置いたばかりの石鑿を拾い上げると、迫る敵の両眼の真ん中をめがけて「エイッ」と投げつけた。しかし、石鑿は腰を引いた敵の兜に当たって跳ね返る。改めて刀を振りかぶって迫る敵の足を目掛けて、二本目の石鑿を素早く抜いて投げつけると、今度は見事に腿に突き刺さった。
 勢いがついてツンのめりながら倒れてきた敵は、支柱に激しく身体をぶつけてゲルが揺れた。支柱につかまり、怒りの形相で身体を起こした敵が振り下ろした刃を、リョウはかろうじてかわしたが、さらに敵は逃げようとする母の背に剣を突き刺した。悲鳴を上げて母は倒れた。再びリョウに迫って剣を振り上げた敵の足元に、黒い影が(さえぎ)るように滑り込んできて、下からエイっと刃を突き上げると、敵はドウと床に倒れ込んだ。その影は家族を心配して戻ってきた父、アクリイだった。
 
 父は手早く母の傷の上から布を当て応急処置をしたが、その布からも血が()みだしていた。父に抱かれた母は微かな声でつぶやいた。
「こどもたちを……、早く逃げて」
 あとはもう声をあげることもできなくなった母の顔をのぞき込み、父は眼を閉じ、強く母を抱きしめた。
朝虹(ちょうこう)
 絞り出すように母の名を一度呼び、その身体をそっと横たえた父は、二人の子供たちに言った。
「もう時間がない、今すぐ馬に乗って逃げるんだ。お母さんは、お父さんが連れていくから」
 そして母の胸から、首飾りをそっと外すと、泣きじゃくるシメンの首にかけてやった。
「これは、お父さんがお母さんに贈ったものだ。持っていけ」

 その深い藍色をした石の首飾りは、母がこの草原に来てから毎日欠かさず首にかけていたものだ。それから父は、生まれて初めて殺し合いをした興奮と父に救われた安堵で、身体を小刻みに震わせ、唇を噛みしめて座り込んでいるリョウに向かって、早口で言った。
「長安に西胡屋(さいこや)という邸店(ていてん)がある。信頼できるソグド人の店で、そこに私の財産を預けている。いつか再起を図るためのものだ。証文はこのゲルの前の栗の木の根元に埋めてある。自分と会えなかったら、いつかそれを持って訪ねていけ。ただ油断はするな。いいか、西胡屋だぞ」
 そして、すぐにゲルを出て逃げるように二人を促した。

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