(三)

文字数 1,730文字

 そんな冬ごもりの生活は、一方では自由な時間が増えるという、リョウにとって嬉しい面もあった。
 冬営地でも毎日、羊や牛の面倒は見なければいけないのだが、それにしても放牧の時間は減り、農作業も無くなり、リョウは時間があれば、漢字の練習をしたり、石鑿(いしのみ)や小刀で石や木を彫ったりすることに熱中した。
 漢字は、王爺さんから見せてもらった「蘭亭叙」にあるものは、おおかた写し終えていた。初めのうちリョウは、王爺さんのゲルに行くたびに、木片に木炭で大きな字を書いて持ち帰っていた。しかし、それでは字を覚えることはできても、字を上手に書くことはできない。そこでリョウは、見よう見まねで筆を作ってみた。
 軸にする細い竹の先に、兎や山羊の毛をギュッと縛って押し込んだものだ。王爺さんに木片に書いてもらった手本を、ゲルに戻ってからその筆を使い、水で石板の上に書いて練習できるようになった。しかし、そのうちに水習字だけでは味気なくなり、今度は墨を自分で作ってみることにした。

 王爺さんに聞くと、ちゃんとしたものを作るのは難しいが、それらしいものなら何とか作れるかもしれないと言われ、その作り方を教えてもらった。それは、かまどの(すす)を集めて、(にかわ)と練り合わせるというものだった。リョウは、毎日せっせと、少しずつではあったが煤を集めて、皮袋に溜めておいた。膠は、兎の腸や骨、足の腱などを悦おばさんに台所でもらい、それをぐつぐつ煮て、冷ますと表面に溜まる半液状のものを(すく)い取って代用することにした。
 この即席の膠と煤をしっかり混ぜ合わせ、練り込んで、一月ほど乾燥させるということを、何度も試行錯誤した結果、何とかそれらしいものができるようになった。最近では、王爺さんのところで習った漢字を、かさばる木片に替えて、白樺の薄皮や竹に、その自家製の墨と筆で清書することができるようになり、だいぶ保管もしやすくなっていた。筆も、柔らかすぎず硬すぎない毛を採取するために、いろいろ採取する部位を変えてみたり、牛や鹿の毛を試してみたりした。

 リョウがどんどん自分で工夫しながら、「これはどうだ」といろいろなものを作っては王爺さんの所に持ち込むので、最初はただ笑って見ていた王爺さんも、そのうちリョウと一緒になって、どうしたら墨や筆が使いやすくなるのか、真剣に考えてくれるようになった。
 王爺さんは、ゲイックの命令で手紙を書く時には、リョウをあらかじめ自分のゲルに呼んでおいて、ゲイックから預かっている本物の筆と墨で、紙に書くところを見せてくれた。
 リョウは、その残ったわずかの墨をこっそりと使わせてもらい、においや手触り、それに()めたときの味まで確かめた。たまに、古くて不要になった手紙や、王爺さんが下書きに使った紙をもらえるのが楽しみで、そういうときは、余白にも、裏にも、真っ黒になるまで何回も書き込んで練習をした。

 リョウは時間があるときには、大きくて表面の平らな石を見つけてきて、その上に石鑿で字を彫る練習もした。集落に最初に連れて来られた時に、石鑿は短弓や小刀と一緒にいったんは取り上げられたのだが、石鑿が実は武器だとは気付かれなかったこともあり、小刀や火打石と同じ生活用具として、返してもらったのだった。
 石にも彫りやすいものと、彫りにくいものがあることをリョウは知った。硬くて丸い石は彫るのが大変だし、軟らかい石だとすぐに欠けてしまう。集落から少し山に入った崖の近くに、比較的平らに割れ、硬さもちょうど良い岩や石がたくさんあるのを見つけたリョウは、ときどき農具小屋から鉄の(つち)を借り出して、出かけた。祖父の形見の石鑿(いしのみ)は、刃先に硬い鋼が仕込まれていて、それを金槌で岩に打ち付け、さらにその上から大きな鉄槌で叩くと、面白いように岩が割れた。リョウは、それを適当な大きさに整形し、背負子(しょいこ)に背負ってゲルに持ち帰っていた。
 リョウは冬営地の近くでも、手ごろな石が採れる岩場を見つけていた。石を彫る音はうるさくて朝晩は迷惑がられるし、昼は仕事で忙しかったが、冬場は比較的日中に時間がとれるので、石刻の練習をするのには良い時期になる。そう考えたリョウは、冬営地にも、白樺の樹皮に写した教本の一部を持ってきていた。
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