(九)

文字数 1,257文字

 その日からリョウは、仕事の合間を見つけては王爺さんのゲルを訪ね、手本を見せてもらい、漢字の練習をした。漢字はすっかり忘れたと思っていたが、書き始めてみると、かつて「千字文」を見ながら覚えた字が、どんどん思い出されてくるのに驚いた。それでも知らない漢字がほとんどで、リョウはその意味や書き方を王爺さんに教えてもらいながら、少しずつ書ける漢字を増やしていった。
「リョウよ、今日はここのところだ」
 王爺さんがこう言って「蘭亭叙」から示したのは「此地(このちに)(あり)崇山(すうざん)峻領(しゅんれい)茂林(もりん)脩竹(しゅうちく)」という文だった。
「これは、この地にはとても高い山と険しい嶺、そして緑の葉が生い茂る林や背の高い竹林があるという意味じゃ」
 リョウは、「有」、「茂」、「林」それに「脩」の四文字は「千字文」にもあったので知っていたが、それは言わずに、一つ一つの意味を王爺さんに確かめていった。
「脩という字には“月”、つまり肉が組み込まれているが、もとは肉を細長く裂いて干したものという意味があってな、それで長いという意味で使われるのじゃ」
 王爺さんは、漢字の話など何十年もしたことが無かったのだろう。とても嬉しそうに、リョウが聞かないことまでいろいろ話してくれ、リョウも好奇心いっぱいにそんな話を聞き、砂地に水がしみこむように吸収していった。
 一通り意味を聞くと、次には、かまどに燃え残った炭で、木片にこれらの字を書き写していった。手本は持ち帰れないので、書き写した木片を持って帰り、それを見ながら練習するためだ。長安の祖父の家には、紙も筆も墨もあったが、ここでは貴重品で、王爺さんがゲイックのために預かっているものしかなく、リョウが使うことは許されなかった。

 一段落したのを見計らって、王爺さんは馬乳酒をリョウに勧めながら話し始めた。
「漢字はな、もともとは皇帝の権威を知らしめるためのものじゃった。王の功績を記し、法、つまり王の命令を記す。だからこそ秦の始皇帝は、それまでバラバラだった文字を統一したのじゃよ。奴隷が字を習っているなどと聞いたら、始皇帝は飛び上がってびっくりするだろうな……。ところで、お前は、ここの生活には慣れたかな?」
「奴隷といっても、両親が居ないことを除けば、毎日の暮らしは以前とそんなに変わらない気がします。もちろん、朝から晩まで仕事はきついし、いつも腹を空かしていますが、飢えるわけではなく、悦おばさんも優しくしてくれるし」
「そうじゃな。お前も知ってのとおり、唐と言っても、北の方には、もともと農民であった者も、その昔に遊牧民として侵攻して来て、そのまま居残った者も住んでいる。だから農牧(のうぼく)接壌(せつじょう)地帯と言われるのだが、そこに暮らす者は、王朝から戦争や労役へ駆り出されたり、それが無くても重い租税を課せられたりで、その生活はあまり奴隷と変わらない。だから、張のように逃げてしまう農民も多いし、こっちでの奴隷生活も前に比べてすごく悪いというわけではない……。では、どうしてここでは奴隷が(むち)も打たれず、(しば)られもせずにそんな暮らしを続けていけるのかな?」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み