(一)

文字数 2,308文字

 遠くまで開けた大草原に、突厥(とっくつ)の主力部隊が東、ウイグル・カルルク連合軍が西に、緩い谷地を挟んで対峙していた。普段は、広大な空の下、ごくわずかの羊が草を食んでいるだけの、のどかな草原に、今は、二十万もの騎馬が(うごめ)いている。
 リョウは、いつもの(よろい)(かぶと)、弓、剣に加えて、母の実家の石屋一族が戦時にそうしていたように、飛刀用の石鑿(いしのみ)を装填した革帯を腰に巻いていた。大きな会戦になることが予想され、先祖に守ってもらいたいという気持ちだった。ただ、祖父の形見の破岩剣は身に付けていない。それだけは血塗られたものにしてはいけないと、リョウは思っていた。
 それまでの戦闘で飛刀用の石鑿の何本かは失っていたが、ドムズに頼んで新しいものを(あつら)えていた。突厥の製鉄と加工の技術は優れており、職人はリョウの希望どおりのものを作ってくれた。
 そしてもう一つ、リョウは、小さな赤い布袋を革帯の間に挟み込んだ。(てい)が、リョウの武運を祈って縫ってくれたお守り袋だった。手渡すときに婷は言った。
「この中には、私が村の寺で頂いたお守りが入っています」
「そんな大事なものをもらうわけにはいかない」
「私は大丈夫。どうかご無事に帰ってきてください。そうしたら、返していただきますから」
 その婷の黒い瞳を思い出し、リョウは何としても生き抜かなければと、革帯の上からお守りをギュッと握った。

 阿史那(あしな)胆栄(たんえい)率いる万人隊は、突厥軍十万の最左翼に陣取り、敵の右翼を抑えるよう備えていた。同時にこの部隊は、南からの唐軍の突然の参戦に備える役割も担っている。このため、多くの斥候や見張りを四方に放ち、機動部隊であるバルタ隊には、いつでも、どこにでも動ける態勢を取らせていた。

 しかし、今度の戦争は、前の可汗(かがん)を殺した新可汗のための戦いだ。遊牧民の緩い集合体に過ぎない突厥で、可汗がその地位を保ってきたのは、親の代からの和親政策で平和をもたらしてきたからだ。戦を好む可汗など、他に選択肢が無いから従うに過ぎない。それに今度の戦では、勝っても新しい牧草地や家畜が得られるわけではない。従軍する兵士らの士気が低いことが、リョウには気がかりだった。
 そんな心配を振り払おうと、リョウは、自ら進んで斥候を引き受けた。何も知らずに突撃を命じられるよりは、自分の目と足で戦場を知っておきたかった。リョウは、自分は武器の使い手としての能力よりも、戦術眼の方が優れていると思っている。草原や岩山、谷や川など戦場全体の地形や部隊の配置などを見ると、敵軍の次の動きが見通せるような気がするのだった。それは軍事演習でも、また初陣となった奇襲戦でも感じたことだった。

 そんなことを言おうものなら、またどやされるだろうと思いながら、恐る恐るドムズに戦場を見てきたいと言うと、意外な言葉が返って来た。
「見えるものはただの情報に過ぎないが、分析することにより、価値になり、武器になる。その能力がお前にはある」
 ドムズはそう言って、奴隷兵士たちを連れて、斥候に出ることを命じてくれたのだった。かつては、リョウの言うことは信頼されなかった。それどころか、誤解され、敵を利しているのではないかと疑う者さえいた。しかし、与えられた困難な仕事を必死でこなし続けてきたことで、リョウへの信頼は高まっていたのだろう。それは、仲間たちも同じだった。
 奴隷兵士仲間は、ネケルの立場にあるのに威張らず、いつも細かな気配りをしてくれるリョウの人柄に信頼を寄せており、また敵の動きを先読みするリョウの戦術眼に命を救われてきたこともあって、リョウを心から頼りにしていた。

 リョウは、背の高い草に隠れて進み、両軍の真ん中あたり、戦場や敵陣を見渡せる岩山に向かった。乗っているのは、ドムズから返してもらったグクルである。すぐ後ろには、オドンがいた。
「万人隊長や千人隊長は、行き先も作戦も、兵士には伝えないものだ。俺たちは、無条件に、命じられたまま、がむしゃらに戦うように訓練されている。しかし、一度崩れると、総崩れになる。何しろ、馬だから逃走して崩れるのも速い」
「それが嫌で、こうして斥候に志願してるんだろう、リョウは。いつも考えすぎるとドムズに叱られているからな」
「恐怖は考えることから来る。だから上官は兵士に何も考えさせない。しかし本当に恐ろしいのは無知の方だ。俺は、できるだけ戦況を見誤らないよう、周囲の何十里も先まで頭に入れておきたいんだ」

 岩山の上からは、後方に阿史那胆栄率いる万人隊の騎兵が、蟻のように群がっているのが見えた。その左翼、つまり突厥軍の最左翼四千騎がビュグダグの指揮する部隊である。旗や兜の色は、ビュクダグ本隊二千騎が(だいだい)、その左のクルト隊千騎が赤、そして右のゲイック隊千騎はいつものように青だった。演習と同様、縦十頭、横十頭の百頭で方形に整列し、その方形がいくつも重なって見える。突撃が近いことが予想された。
 はるか前方には、茶色や黄色の旗を立てたウイグル・カルルク連合軍が草原一杯に広がっている。この地形を見れば、どういう戦いになるかは想像できた。両軍ともに、真ん中の谷地までが下りで、そこを過ぎれば上りになる。どうやって有利な状況を維持しながら、相手を谷地で囲み込むかが勝負の分かれ目と見えた。
 ビュクダグが指揮する左翼四千騎が進軍する下りの草原は、左右両側が少し高くなっている。ビュグダグの本隊が真ん中を進み、それを守るように、左の丘をクルトの隊が、右の丘をゲイックの隊が進み、緑の兜のバルタ隊が、その後ろに遊軍として控えている。
 リョウは、やや低地にいる、真ん中のビュクダグの本隊が最も激戦になるだろうと予想した。
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